第九話





 ルキアは、縁側でどんより曇った空を睨んでいた。不安から逃れるように、ウサギのいちごをぎゅっと抱きしめる。
 今日は、雨が降るだろうか。一護は泣いてはいないだろうか。
 時計を確認する。最近読み方を知った時計の針は、いつもなら一護を迎えに行ってもいい時間だ。黒猫がいつものように自分を呼びに来るのを待つが、今日に限って、黒猫は中々姿を現さない。夜一がルキアを呼びにくるのはいつも夕方だが、その時間は特に定まってはいない。少し早かったり、遅かったり。どうやら今日は遅い日のようで、夜一も一護を見習って腕に時計をつければいいのに、と思いながら、ルキアは一護のように眉間に深く皺を寄せ、時計の針を睨んだ。
 夜一は別に時計を見ているわけではなく、一護の霊圧の動きを察知して丁度いいタイミングでルキアを迎えに来ているのだが、そこまではルキアはわからない。
 ぶわり、湿気を孕んだ風がルキアの髪を揺らした。ひくりと鼻を動かすと、薄皮を隔てたような曖昧さで、けれども確かに水の匂いがした。
 ルキアは、いてもたってもいられず立ち上がった。玄関に立てかけてあったウサギ柄の傘を掴み、自分の靴に足を入れる。近寄ってきたテッサイに、「いちごをむかえにいく!」と叫ぶと、ルキアは走り出した。




 その瞬間、夜一と浦原は同時に顔を上げた。同じ敷地の中に居るはずの霊圧が、よりにもよって、一人で外に出て行こうとしている。夜一は、白衣姿の浦原に声をかけた。

「どうする?」
「ほっときましょ。…向こうも気付いたみたいっス」

 飛び出していった気配の更に遠くで、見知った霊圧が動揺でゆらりと揺れた。彼もまた、この事態に気付き、恐らく慌てて駆けつけてくるだろう。

「あやつらの問題、か」
「そっスね」
「貴様の仕事は順調か?」
「まあ、程々に…あと少しっスね」
「あと少しか」

 へらりと笑う浦原を一瞥すると、夜一は静かに眼を閉じた。不器用な親友に代わり、何かに祈るように。まず浮かんだのは、幼い少女の屈託の無い満面の笑み。次に浮かんだのは、深く翳る紫の瞳を持つ少女の、強い視線と不遜な笑み。その間にも霊圧は動き続け、浦原商店から離れていった。





「…あれ…?」


 ルキアは周囲を伺った。けれども静まり返った街は、何もルキアに教えてはくれなかった。普段なら、黒猫の後を一心に追っていれば、必ず一護の元にたどり着けた。けれど、今日、夜一はいない。自分のつたない記憶を頼りに歩いているが、この道が本当にいつも通っている道なのかも、ルキアにはわからなかった。いつもより、歩いている時間がずっと長い。視界の中の全てのものが、見覚えが無いように感じる。
 吹いた風に肌寒さを感じて、ルキアは両腕で自分を抱きしめた。そういえば、上着を着てくるのを忘れてしまった。曇っているせいで、街は不気味に薄暗い。少しでも見覚えのある場所を捜そうと、ルキアは走り出そうとした。しかしルキアの足元には小さな石があって、焦ってもつれた足がひっかかり、ルキアは前のめりに倒れた。
 強くコンクリートに擦った膝がとても痛い。見ると、少しだけ血が出ている。
 泣くな、とルキアは思った。転んだだけで泣くなど、情けない。それに泣いても、誰も助けてはくれない。
 けれど、転んだのは久々だった。いつも、ルキアが転ばないように、誰かが優しく守ってくれていた。例えば、夜一のように自分の身体をクッションにして。…例えば、一護のように自分の手を引いて。
 思ったことは口に出せばいい、と言われた。口に出せば、何かが変わるのだろうか?

「…いたい…」

 口に出したら、益々痛くなった。目に大きな涙が溜まる。嘘つきめ、とルキアは浦原を心の中で罵った。涙を零さないように、下を向いた。歯を食いしばって耐える。自分は、一護の所へ行かなければならないのだ。
 早く行かなければ、私が行かなければ、一護が泣いてしまう。
 それなのに、立ち上がれない。

「なにしてんだ、お前」

 座り込んでいたルキアの頭の上から、不意に待ち望んでいた人間の声がした。上を見上げて瞬きをひとつすると、ぽろりと大粒の涙がルキアの目から零れ落ちた。涙が頬を伝う感触に、ルキアの中で何かがふつりと切れた。

「うああああん!!」

 会った途端、火がついたように泣き出したルキアをとりあえず抱き上げた一護は、驚きながらもゆっくりとルキアの頭を撫でた。しばらくの間そうしていると、ようやくルキアの泣き声が弱まった。
 膝を怪我していたので、そのまま近くの公園に移動してベンチにルキアを座らせると、持っていたティッシュを濡らして、そっと泥のついた傷口を拭ってやった。生憎と、絆創膏は持っていない。いつも怪我をするのは自分で、いつも絆創膏を持っているのはルキアだった。だから、綺麗になった傷口には、仕上げにハンカチを巻いてやる。そのころには涙を流していたルキアも、随分と落ち着いていた。

「ホラ、…テッサイさんには内緒だぞ」

 ルキアが落ち着くのを見計らって出したのは、自販機で買ったホットココアだった。…朽木ルキアが、かつて好んで飲んでいたものだ。プルトップを開けてやると、おずおずとルキアはそれを口に含んだ。こくりと嚥下した瞬間、ようやくルキアの顔に明るさが戻る。

「おいしい」
「よかったな。…で、何で今日は夜一さんと来なかったんだ?」
「…あめがふったら、いちごがなくとおもったのだ」
「だから一人できたのか?」

 ルキアがぎゅっと傘を握りしめていることに、一護は気付いた。いつもなら二つ真っ直ぐに自分に近付いてくる気配が今日は一つで、しかも普段と違う道をぐるぐる回りながら移動した理由も察した。
 小さくなった相棒に、自分は心配をかけてしまっていたのかと複雑な思いで、眉間に皺を刻む。

「帰るぞ」
「うむ」

 膝を怪我しているルキアに背を晒すと、すぐに理解したのかルキアは一護の背に飛び乗った。鈍い色をした空を見上げ、ルキアは一護に少しだけ我侭を言った。

「いちご。そらがとびたい」
「今は無理だな」
「そうなのか」
「…これで我慢しろ」
「わっ」

 一旦地面に降ろされ、それから再度持ち上げられ、一護の肩の上。途端に開けた視界に、ルキアは驚いた。一護の頭よりも更に高い視界は、全てのものが違って見えた。

「たかい!」
「満足したか?」
「うむ!」

 ルキアの明るい声に、一護の顔も少しだけ綻んだ。一護の頭を抱え込み、ルキアは街並みを眺める。ふと後ろを振り向いた瞬間、あることに気が付いた。一護の髪を引っ張り、後ろを向くように促す。

「いちご!」
「何だ、コラ引っ張るな!」
「そら!」
「あ」


 ルキアが指差した先で、分厚い雲は割れて光が差し込んでいた。光の帯は、徐々に大きく育ち、やがて自分達の居る場所にも届くだろう。
 ルキアは強引に一護の首を引っ張り、真上からその顔を覗き込む。肩車のせいでうまくいかなかったけれど、その目から深い翳りが消えていることはわかった。逆向きになったその目を覗き込んで、ルキアはにやりと笑った。

「あめはやむものだ」
「エラソーに」

 口を尖らせて一護は方向転換をし、再び浦原商店への道を歩き始めた。歩くのと同じタイミングでゆらゆらと揺れる頭にしがみつきながら、ルキアはゆっくりと茜色に染まり始める雲と、街並みを見ていた。

「ありがとな」

 頭の下で、優しい声がした…ような気がした。再び一護の顔を覗き込むと、今度は一護がにやりと笑った。

「しっかりつかまってろ!」
「わっ」

 走り出した一護に、ルキアは歓声を上げた。ココアを飲んでしまったが、段々お腹が減ってきた。テッサイが準備していたものは、なんだったか。

「いちご!もっとはやく!」

 無言で一護は速度を上げた。顔にかかる風の感触に、ルキアの心が躍る。ふわふわと、ルキアの膝で一護に巻かれたハンカチが揺れていた。







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