第八話





「おかえりなさ〜い、と。ありゃ、びしょ濡れっスね」


 肩から下は雨合羽に守られているものの、首から上がすっかり濡れてしまっているルキアに、浦原が苦笑した。
 慌ててテッサイが持ってきてくれたタオルを受け取り、一護は雨合羽を脱いだルキアの髪を拭いた。大人しくされるがままになっていたルキアは、くしゅん、と小さなクシャミをした、

「こりゃ夕飯の前に風呂っスねぇ…ウルル、はお手伝い中だし…」

 ここで浦原が一護を見て、ニヤリと口の端を吊り上げた。

「黒崎サン、一緒に入ります?」
「ふざけんな!」

 ルキアの髪を拭いて幾分しっとりしたタオルを浦原に投げつけたものの、ひょいと避けられ一護は浦原をぎりりと睨んだ。それどころか、「じゃ、アタシが…」と更に悪乗りしはじめた浦原に、一護は手元にあった自分の鞄を掴んで、投げようとした。けれど、不毛な争いは廊下に現れた黒猫によって、あっさりと仲裁された。

「やめんか、見苦しい。ルキア、行くぞ。莫迦に付き合っておったら風邪をひいてしまう」
「はい!」

 小走りでルキアが黒猫の後を追い、テッサイが更にその後を追う。どうやら、ルキアの風呂には夜一が付き合ってくれるらしい。どっと疲れた一護が思わず片手で顔を覆って下を向くと、肩に軽い物体が落とされた。ほのかに、石鹸の匂いがする。

「黒崎サンも濡れてますよ」
「…サンキュ」

 一護の肩にタオルを落とした張本人が相変わらずニヤニヤしているのが気に食わないが、ひとまず一護も肩と髪の水分を拭った。
 先程まで柔らかだった雨は、再び勢いを取り戻し、店先の道路を叩いている。その雨を眺めながら、一護は問うた。

「なあ。俺ってそんなにわかりやすいか?」
「ええ。そりゃあもう」

 あっさりと即答し、不機嫌そうに口を尖らせた一護の顔を覗き込んで、浦原はニヤリと笑った。

「何があったんスか?」

 楽しそうに聞いてくる浦原から目を逸らし、一護は雨の音に耳を澄ませた。ぱらぱらと軽い音を立てて落ちる雨の音と共に、交わした約束が耳の奥に蘇る。

「内緒だ」
「生意気」

 浦原は笑みを深め、一護の眉間の皺を指先で弾いた。







「よるいちどのも、おふろにはいるのですか?」
「ああ」
「おぼれてしまいませんか?」
「この姿なら、問題なかろう」
「わ!」

 突然人間の姿になった夜一に、ルキアはぽかんと口を開けてその姿を見上げた。
 その反応が嬉しいのか、夜一はひどく楽しそうに、ルキアの服を脱がせると、風呂場に直行した。ルキアの肌が思ったより冷えていたので、洗い場で熱いお湯をかけてやる。ようやく、青褪めていたルキアの頬が普段の薄紅色に戻った。

「頭を洗うぞ。目を閉じていろ」
「うー」

 わしわしと洗髪を済ませ、勢い良くシャワーで洗い流す。その作業は意外に楽しく、夜一は上機嫌でルキアの髪にコンディショナーをなじませた。
 手早くルキアの髪と身体を洗い終えると、夜一はルキアに湯船の中に入ることを指示し、次に自分も身体を洗い始める。
 素直に浴槽に入ったルキアは、奥の壁にある窓に近付いた。湯気で白く曇ってしまったガラスを手で拭くと、ひやりと冷たい感触がした。
 冷えてしまった手を湯につけて温めてから、ルキアは風呂から身を乗り出して、窓から空を見上げた。空からはまだ、ガラスと同じ温度の冷たい雨が降り注いでいる。

「こら、肩まで浸かれ」

 強引に身体を引っ張られ、ルキアの身体は湯の中に引きずり込まれた。振り返ると、髪と身体を洗い終えた夜一が、呆れたような表情で同じ湯船に浸かっていた。
 言われた通り肩まで浸かりながらも、しきりに窓の外を気にするルキアに、夜一は小さく溜息を吐いた。

「そんなに雨が気になるのか。…何かあったのか?」

 夜一の問いに、ルキアはあった、と答えようとした。けれども、幼いルキアにはよくわからない感情が、その行動の邪魔をした。
 冷たい雨、絡めた小指、交わした約束。ぱらぱらと、雨の音が聞こえる。

「…ないしょ」
「なんだ、生意気じゃの」

 そっぽを向いたルキアの顔を夜一は面白そうに眺めた。再び身を乗り出して窓の外を見ようとしたルキアを、両腕で抱え込んで制止する。立ち上がりかけた所を阻止され、バランスを崩して、夜一の胸元に倒れこんだルキアは、背中の予想外の感触に目を見張った。
 思わず夜一の方に向き直り、その部分をまじまじと注視してしまう。

「やわらかい」
「大人じゃからな」

 得意げに語る夜一に、真面目な顔でルキアは聞いた。

「わたしも、おとなになればこうなれますか?」

 いや、そうとは限らぬ。夜一は成長したルキアの姿を思い出し、一人首を傾げた。いたいけな少女の夢を壊して現実を教えるべきか、せめて今だけは夢を見させてやるか。
 こうして夜一が逡巡している間にも、ルキアは期待に満ちた目で夜一を見上げている。
 どうしたものか、と悩んだところで、名案が浮かんだ。ニヤリ、とひどく性質の悪い笑みを浮かべ、夜一は優しくルキアに囁いた。

「…それはな、兄に聞いてみろ」
「にいさまに?」
「そうじゃ。あやつは何でも知っておる」
「はい!」

 明日あたり、とても面白いものが見られるかもしれない。夜一は内心ほくそ笑んだ。
 ルキアの向きを変え、後ろから抱きつくような格好で、夜一は強制的にルキアの肩から下を湯に沈めた。
 ルキアは窓の外を見て、小さく呟いた。

「いちごは、あめがにがてなのです」
「そうか」

 夜一の瞳が、一瞬だけ翳った。しかし、窓の外を見ていたルキアはそのことに気付かなかった。夜一は少し乱暴にルキアの頭を撫で、殊更明るい声でルキアに告げた。


「ほれ、百を数えろ。出してやらぬぞ」


 後日、ルキアの無邪気な問いは縛道最強と語り継がれる威力を発揮し、彼女の兄を凍りつかせる事となる。







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