第十話





 ルキアは、不思議な気配に目を覚ました。カタン、と軽い音がして、縁側に誰かの気配がする。不思議に思い、月明かりが透ける障子を開けた。犯人はこの家の店主で、僅かに香る不思議に甘い香りに、ルキアは鼻をひくつかせた。

「あら、見つかっちゃいましたね」
「なにをしている?」

 浦原は一人、月を見上げて胡坐をかいていた。ルキアの鼻を刺激する甘い香りは、浦原の手の中の物体が発しているようだった。
 ルキアが興味を持っているのを悟り、浦原は笑って手の中の盃を揺らして見せた。透明な液体が震え、先程よりも強い香りが漂った。

「それはなんだ?」
「お酒。飲みます?」

 こくりと頷き、手を伸ばしたルキアの目の前から、浦原はひょいと盃を持つ手を高く上げた。手が届かず、ルキアがむくれる。どこかの誰かのように眉間に寄った皺を、盃を持っていない方の手で軽く弾くと、浦原は笑った。

「なーんてね。子供はダメ」
「…なんでうらはらは『おさけ』をのんでいる」
「ああ、最近やってた仕事が終わったんスよ。だから、そのお祝い」

 浦原の傍らには、くしゃくしゃに丸めた白衣が置いてあった。浦原の仕事、というものがルキアには想像できない。たまに店番をしているのは知っている。けれど浦原はいつも居眠りをしてばかりだし、こんな白衣を着てはいない。一度だけこの服を着た浦原を見た事があったが、それは浦原が店ではないどこかに消えている時だった。

「『おいわい』は、たのしいことではないのか?」
「何でっスか?」
「ふしぎなかおをしている」
「あれ、どんな顔してます?」
「さびしそうだ」

 浦原の顔を覗き込んで、ルキアは少し首を傾げた。祝うと言っている割に、浦原の顔はどこか悲しそうで、そしてそれ以外の感情も少し混じっていた。
 浦原の中で揺れる複雑な感情が読み取れずに、ルキアは浦原の瞳を真っ直ぐに見た。
 浦原は、酒を少しだけ口に含んだ。それを嚥下して、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。ルキアに言っているのか、それとも他の誰かに言っているのか、夜の風に溶かすような、静かで、感情の篭もらない声だった。

「…幸せに、なって欲しかったんスよ」
「だれに」
「ここにはいない人っス」
「そのひとにあいたいのか」

 浦原は笑った。どこか悲しそうな、不思議な笑顔だと思った。大きな手が頭の上に載せられて、ゆっくりとルキアの頭を撫でた。

「不幸にしたかったわけじゃない。巻き込むのは百も承知で、それでも、できることなら」

 浦原の声は儚く途切れ、その先を聞くことはできなかった。ルキアが不思議そうな顔をしていると、浦原が今度は明るい調子でルキアに尋ねた。

「朽木サンは、今、楽しいっスか?」
「うむ。みんなやさしくて、ここはたのしい」
「そりゃ良かった」

  ざわ、と夜の風が鳴いた。その異質な音に、浦原の声はかき消され、聞き取ることができなかった。ルキアは、声の断片を必死に繋ぎ合わせる。あなたには、このせかいが、きれいだとおもっていてほしかった?とは、どういうことだろう。しかしそれを聞く前に、ルキアの意識は庭先へと向いてしまった。風が鳴ったと思ったら、黒い服を着た一護がルキアと浦原の目の前に立っていた。

「お仕事、お疲れ様っス」
「何してんだ?」
「朽木サンが夜這いに来てくれたんスよ」
「よばい?」
「ああ、夜這いっていうのはですね…」
「子供に何言ってんだアンタは!」

 慌ててルキアに駆け寄った一護は、ルキアの両耳を塞いだ。浦原の説明は言葉こそ少ないものの妙に生々しく、教育上良くないことこの上ない。ニヤニヤ笑うその様子からは、ルキアよりもむしろ一護の反応を楽しんでいるようで、効き目がないと知っていながらも一護は浦原をきつく睨み据えた。

「お前も早く寝ろ。子供が寝る時間とっくに過ぎてるぞ」
「いちごは、おさけをのまないのか?」
「は?」

 一護も仕事が終わったらしいのに、浦原のように酒を飲まないのだろうか。素朴な疑問に答えたのは、一護ではなく浦原だった。

「飲めないんスよ。黒崎サンも、コドモだから」
「なんだ、いちごもこどもなのか」

 ルキアが驚けば、悪いかよ、と一護が口を尖らせた。なるほど、この仕草は子供だとルキアは妙に納得した。子供だと思うと、今までは絶対的な保護者だった一護が、妙に可愛らしく見える。ルキアは、ニヤリと口の端を吊り上げた。

「いちごもこどもなら、はやくねろ」
「うっせ」

 ルキアの頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜた一護は、それでも素直に指示に従って自分の部屋に戻ることにした。一応、ルキアも彼女に宛がわれた部屋に戻すのを忘れない。
 一護に追い立てられながらも、ルキアは後ろを振り向いた。浦原は相変わらず、不思議な笑みを湛えていた。

「あえるといいな、そのひとに」

 ルキアの後ろで、一護の表情が少しだけ強張ったけれど、浦原を見ていたのでルキアはそれに気付かなかった。浦原は、ルキアに向けて盃を掲げた。まるで、何かに祈るように。

「…大人もたまには早く寝ろ。テッサイさんに迷惑かけんな」
「はーい」

 一護の捨て台詞に苦笑しながら、浦原は応えた。それでも動く様子のない浦原に、一護は溜息を吐くと諦めたように部屋へと戻っていった。




「一護の言う通りじゃ。早く寝ろ。貴様がろくに寝ておらんことに、あやつは気付いておる」
「そうっスねぇ」

 不意に物陰から黒猫が現れた。黒猫は、浦原とは目を合わせずじっと月を見ていた。
 動く様子のない浦原に、夜一は小さく溜息を吐いた。

「図星か」

 浦原は答えなかった。浦原の頭の中に、「さびしそうだ」と呟いたルキアの顔が蘇る。ええ、と浦原は肯定した。

「寂しい、な」

 呟いた声は、浦原と夜一、どちらのものだったか。そして、その寂しさは、どこから来るものだったのか。

 薔薇色の頬をした、世界は綺麗で楽しいものだと信じている少女と、小さな身体に、大きすぎる悲しみを背負いながら、足掻いて立ち上がる少女の姿が錯綜する。彼女が消えて、もうどれくらい経ったのだろう。

(あえるといいな、そのひとに)

 無邪気な声が、そのまま二重に重なる寂しさの本質を言い当てていた。
 あいたいな、と、どちらともなく呟いた。ざわりと強い風が吹いた次の瞬間黒猫の姿は消え、月を見据えていた浦原もまた、その場所から引き上げた。







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