第七話





「ルキア、準備はできたか?」
「もうちょっと」

 黒猫に急かされ、ルキアは慌てて雨合羽のボタンを閉めようとした。けれど、指がもつれてうまくいかない。困っていたら、ウルルが留めてくれた。ジン太に雨合羽のフードを被せられ、テッサイに傘を渡され、準備が整ったルキアは大声で夜一を呼んだ。


「できた!」
「よし。ではゆくぞ」

 今日は靴ではなく、ゴムでできたピカピカの長靴が置いてあった。それに足を入れると、慣れた動作でルキアは夜一の後を追った。こんな風に一護を迎えに行くのは、もう5回…6回だったかな?そんなことを考えていると、また黒猫に叱られた。

「雨だからな。いつもより気をつけろ。転ぶぞ」
「はい!」

 黄色の雨合羽を着ているので、傘は無くても何とかなる。けれども横を歩く夜一が濡れてしまうので、ルキアは傘をさした。傘は薄いピンク色で、施されたウサギの模様を、ルキアは一目で気に入った。ルキアの傘のお陰で雨はしのげるが、濡れた地面を歩く夜一に、ルキアは心配そうに声をかけた。

「よるいちどのは、さむくないのですか?」
「平気じゃ」

 本当は、浦原みたいに夜一を腕に抱きかかえることができればよかった。けれどもそれは傘を持っているルキアには…いや、何も持っていない状態でもルキアにはできないことだったので、ルキアは少し悲しかった。それが顔に出たのか、夜一が殊更明るい声で告げた。

「何を考えておる。多少濡れたくらいで風邪などひかぬ」
「でも」
「しつこいぞ。…そんな心配は一護にしてやれ」
「いちご?」
「そうじゃ」

 そのまま夜一が歩く速度を上げたので、ルキアは慌てて追いかけた。一護の心配とは、一護が風邪を引いてしまうのだろうか?そんな疑問が、むくむくと湧き上がる。
 夜一の言葉の意味を考えているうちに、いつもの一護のオレンジ色が見えた。いちご!と呼べば、少し足を速めてこちらに来てくれるのがわかった。ふと自分の足元を見ると、黒猫はもういない。最近ルキアはずっと、夜一は魔法使いではないかと思っている。

 近寄ってくる一護に、こちらも小走りで近付けば、一護が雨合羽のフードの上からルキアの頭を撫でた。載せた、という方が正しいかもしれない。

「雨なのによく来たな」
「そらからみずがおちてくるのは、たのしいぞ」
「…そうか」

 夜一が居なくなってしまったので、ルキアは傘を閉じた。開いた傘は、一護と手を繋ぐのに邪魔だ。雨合羽に落ちた雨が、ぱらぱらと軽快な音を奏でてルキアの耳を擽る。いつものように手を繋ぐと、雨のせいで自分の手も一護の手も、少し冷たかった。ひやりとした温度に、何かが、ルキアの頭の隅を掠める。

(…そんな心配は、一護に…)

 不意に、ルキアの頭に夜一の言葉が浮かんだ。いつもよりも冷たい手を握りしめ、雨合羽のフード越しに一護の表情を伺う。
 ルキアは、一護の様子が少しおかしいことに気付いた。フードを被ったままでは違和感を覚えるのが限界で、その違和感をもっとよく見定めようと、ルキアは雨合羽のフードをどける。はたはたと冷たい雨がルキアの頬を打った。けれど、そんなことには構ってはいられない。
 ルキアの行動を見咎めた一護が、ルキアのフードに手を伸ばし、再び被せようとした。それを煩そうに拒否し、ルキアは一護を見上げた。身長差のせいで、視線が合わない。

「こら、何だってんだ」
「いちご!かがめ!」
「はあ?」

 突然の命令口調に、それでも一護は素直に従った。
 ようやく視線の合う高さになった一護の顔を、ルキアはまじまじと見つめた。表情はいつもと変わらない。けれども、瞳が深く翳っているのを、ルキアは見逃さなかった。ルキアは傘から手を離すと、びしょ濡れの両手を一護の両頬に添えた。
 雨が楽しい、と言ってはしゃぐ自分を、一護は目を細めて笑って見ていた。フード越しでよく見えなかったが、一護があんな笑い方をするのは初めてだった。笑っているのに、泣いているように見えたのだ。

「いちごは、あめがきらいか」
「…何だよ、急に」
「あめが、かなしいのか。くるしいのか。つらいのか。いたいのか。どれだ」

 何故、一護がこんな顔をしているのかがわからなかった。それが悲しくて、ルキアは少しだけ眉間に皺を寄せた。

「雨は苦手だ。お前は、雨好きなんだろ?」
「あめはすきだ。…だが、いちごがなくなら、きらいだ」
「泣かねぇよ」

 今更、と軽く続けた一護は、やっぱり泣きそうな顔をしているとルキアは思った。ルキアは、一護の頭の上に手を伸ばした。雨に濡れた手は冷え切っていて、初めて会った時の一護のように、温もりを与えられるかはわからなかった。ルキアの小さな手が、そっとオレンジ色の髪の中に潜り込んだ。そして、ルキアはゆっくりと一護の頭を撫でた。

「だいじょうぶだ」

 ぎこちない動きで、けれどもはっきりと一護に告げる。

「しらたまをたべよう。うさぎのいちごもかしてやる。うらはらも、あしたははれるといっていた。あしたがだめなら、あさってにきっとはれる。だから、だいじょうぶだ。あめはやむぞ!」
「…ありがとな」

 ルキアの精一杯の励ましに、一護は微笑んだ。いつもの朽木ルキアには絶対に見せられない、はにかんだ、不器用な笑顔だった。
 ルキアのフードを元通りに直して、一護は立ち上がり、ルキアの手を引いて再び歩き出した。

「ルキア」

 しばらく歩いたところで、唐突に一護が告げた。一護の表情は、フードに隠れて見えなかった。

「雨、好きなままでいろよ」

  本当は、ルキアが雨を好きなままでいるはずがないと知っていた。けれども、無邪気に笑うルキアに、一護はそう願わずにはいられなかった。
 全てが、あの時、あの瞬間でなかったら。少しでも何かが違えば、彼女は雨を見て、こんな風に屈託なく笑うことができたのだろうか。
 ここにきて、一護はようやく浦原と夜一の気持ちを少しだけ知ることができた。彼らも、朽木ルキアへの負い目から、この何も知らない、不器用な幼い少女に、何かの願いを乗せていたのだろう。それが、絶対に叶わないと知りながら。

 ルキアは、無言で空を見上げた。鈍色の空から、水がはらはらと落ちていた。上を向いたルキアの顔に、降り注ぐ。

「いちごも、いつかあめをすきになれ。そうしたら、わたしもあめをすきでいる」

 凛とした声でルキアは告げた。
 いつも薔薇色に染まっていた頬は、雨に濡れ、色味を失って青褪めている。顔に張り付いた髪を鬱陶しそうに払うその仕草は、驚くほどに普段の朽木ルキアそのものだった。記憶だけ、元に戻ったのではないかと一瞬だけ疑った程だ。前から視線を逸らさないその横顔と強い視線に、一護は見覚えがあった。

「やくそくだ」
「…わかった」

  ルキアが繋いでいた手を離し、一護の小指に自分の小指を絡めた。ルキアと目を合わせると、悪戯を思いついた子供の顔で、にやりとルキアが笑った。これで約束は完了、ということらしい。
 自分が、雨を好きになる日が来るのだろうか。想像はつかない。けれども、約束は成された。同じ痛みを共有すると知るはずの無い、無二の相棒の手によって。
 小指を絡めたまま歩いていると、雨の音に混じって、小さくルキアの歌声が聞こえてきた。雨音でリズムを取っているのか、ルキアの歌声は軽やかに跳ねる。ゆ・びき・りげん・まん、

「うそついたら、せんぼんざくらのーます」
「…ちょっとまて。その歌、誰に教えてもらった」
「にいさま!」

 針千本が、微妙に凶悪なものに変わっている。飲ます、というか、食らわせてやる、という彼女の兄の執念を感じて、一護はうんざりと溜息を吐いた。

「約束、守れよ」
「たわけ。いちごもだ」

 その口調が、あまりにも普段の朽木ルキアに酷似していて、一護は噴き出した。千本桜は昔何発か食らったが、できればもう二度と食らわされたくねぇなと考える。
 雨はいつの間にか霧のように儚い水滴になり、小指を絡めたまま歩く二人に、優しく降り注いでいた。





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