第二話





「うー…」
「あら、オハヨウゴザイマス」

 瞼越しの光に、ルキアは目を開けた。枕元には、昨日『うらはら』と名乗った人物が座っている。何やらニヤニヤと楽しそうだ。

「どっか痛いトコあります?」
「ない」
「目は?昨日、泣き疲れて寝ちゃったでしょ?」
「いたくない」

 ふるふると首を振ると、くしゃくしゃと頭を撫でられた。髪が乱れてしまい、うー、と唸りながら直すが、うまくいかない。するとまた手が降ってきて、ゆっくりと動いて髪を直してくれた。

「ホントにまぁ、懐かしい」
「なつかしい?」
「あー…こっちの話っス」

 浦原の言葉の意味はわからなかったが、ルキアは部屋の中に名前を教えてもらったもう一人がいないことに気付き、それを口に出した。昨日、頭を撫でて大丈夫だと言った、橙色の頭と黒い服の人間。

「うらはら、いちごはどこに行った?」
「黒崎サンは学校っスよ」
「がっこう?」
「そ。たぶん夕方に来ますよ」

 こてん、とルキアが首を傾げると、また頭を撫でられた。「ちょっとだけいいっスかー、痛くないっスよー」と言われ、こくりと頷く。ルキアの小さな手首を取って、何やら調べている浦原をぼんやりと見ていた。しばらくの間、穏やかな静寂が続き、そして。

…ぐぅ。

 ルキアの腹から、可愛らしい小さな音が響いた。微かな音であるはずのそれは、静かな空間に、必要以上に大きく響く。

「…これはこれは、アタシとしたことが」
「…なんだ」
「お腹減ったんスね?」
「…」

 何も言わず、そのままふいと視線を逸らしたルキアの心情を察して、浦原は苦笑した。昨日の一件といい、今といい、彼女は小さくなっても『朽木ルキア』なのだと思い知る。浦原は、くしゃりとルキアの頭を撫でた。

「お腹が減ったら、『お腹減った』って言っていいんスよ?」
「…」
「寂しかったら『寂しい』って言っていいし、他にお願いがあるなら、言えばいい」
「…」
「無理なこともありますけど、全力で対処するんで、ね?」

 予想外に優しい声を出している自分に驚きながら、ゆっくりと、噛んで含めるように目の前の子供に伝えた。子供の特権など初めから知らず、我慢だけを先に覚えてしまったこの子供に甘えることを教えるのは、随分と骨が折れる作業だと頭の隅で思っていた。しかし、それを酷く楽しいと感じている己もいた。
 浦原の視線に促され、ルキアはおずおずと口を開いた。

「おなか、へった」
「はい、よくできました」

 消え入りそうな小さな一言を確かに聞いて、浦原はルキアの小さな手を取ると、立ち上がった。腹が減ったと言えば、食料が出る。そんな環境に慣れていないルキアは、小動物のように周囲を警戒していた。
 かっわいいなあ、とその様子を眺めていたのが、どうやら予想以上に顔に出ていたらしい。浦原は後に、「喜助のあの時のだらしない顔ときたら、犯罪者か変質者のようじゃった」と親友の黒猫に溜息混じりに告げられることとなる。

 



 皆で食事を済ませた後、浦原商店にはいつも以上にのんびりとした空気が漂っていた。記憶ごと小さな子供になってしまい、しかも現世での生活がまるでわからないルキアにひとつひとつ生活のこまごまとしたことを教えているのはジン太とウルルで、二人とも頼られるのが嬉しいのか、満更でもない様子でルキアに色々と指南をしている。ルキアは意外にも優秀な生徒で、もの覚えも悪くないし、なによりもその新鮮な反応が二人の教師のお気に召した。水道の蛇口にはじまり、電気のスイッチ、テレビを経て、今は台所で冷蔵庫の存在を教えている。三人の子供たちが家中を所狭しと移動している様は、大人にとっては微笑ましく映るもので、それを眺めながら浦原はテッサイと共に緑茶などを飲んで和んでいる。緊急事態ということで、店を臨時休業にしたのも、のんびりとした空気に拍車をかけていた。
 しかし、その温かく和やかな空気は、ルキアの発した一言によってあっさりと破られた。ルキアは視界の端に、自分でも名前を知っている、ある黒い物体を見つけた。

「…ちょうちょ!」
「…えーと、今何て言いました?」
「…店長。この気配は…」

 室内に蝶がいるだけでも珍しいのに、ルキアが叫んだ瞬間、ぐにゃりと空間が歪む気配がする。まずい、と浦原は頭を抱え、ルキアはきょとんとした顔で目の前に突然現れた襖を見ていた。それはゆっくりと異世界へと繋がる口を開き、中から現れたのは、二人の黒衣を纏った男達だった。一人は黒い髪で、黒衣の上に白い上着を着ている。もう一人は赤い髪で、とても驚いた顔をしていた。

「…ルキア…」

 突然現れた男に名前を呼ばれ、こてんと首を傾げたルキアを見て取ると、黒い髪の男は突然背後にいた赤い髪の男を殴り飛ばした。鈍い音が響き、赤い髪の男が呻き声と共にその場に崩れ落ちる。変わり果てた義妹の姿を見て、一瞬で全てを察知した朽木白哉は、本能の命じるままに動き、天才の名をほしいままにした隊長のその動きは副隊長の反射速度を易々と超えていた。

 見るな、減る。

 煌煌と光る瞳がそう告げていて、浦原以下、商店のメンバーはそっと恋次に同情した。しかし己の身が可愛かったので、突然昏倒させられた恋次を助けられる者はおらず、その場に放置された。そんな部下をまるで気に留めることなく、白哉は浦原を睨んだ。

「さすが、お早いお着きで」
「能書きはいい。説明しろ」
「記憶及び身体の逆行、原因は虚の攻撃。とりあえず現在身体に幼児化の他異常はなし。目下解毒剤作成中。近日中に完成の予定」
「死神の力もないということだな」
「そっスね」

 朽木ルキアの気配が消えたのを悟り、本来なら十三番隊員が派遣されるべきところに無理を通してやってきた白哉は、その聡明な頭脳をフル回転させていた。

 義妹が死神の力を失った以上、現世に置いておくのは危険である。危険に決まっている。まして、この状態だ。敵は虚だけとは限らず、どこぞの変質者が狙っていてもおかしくはない。たとえば、目の前の帽子男に、とりあえず昏倒させてみた自分の部下、その他同僚。さらに、義妹の性格を考えると、虚に遅れをとってしまった自分を大いに恥じ、この姿を他人に見られたくないと考えるに違いない。よって、この姿の義妹は、自分が屋敷に連れ帰って手厚く保護すべきである。それこそが緋真の願いであるに違いない。自分の屋敷なら安全だし、庭はルキアが遊ぶのに十分すぎる広さがある。仕事は恋次にでも押し付け…任せて、休暇をとって二人でゆっくりと過ごすのも悪くはない。悪くはないどころか、それが朽木家当主として正しいあり方のように思える。
 むしろこれは、かつてすれ違ってしまった兄妹間の隙間を埋める、千載一遇の好機ではないのか。恋次に何の反応も示さないということは、奴に出会う以前の状態まで逆行したに違いない。奴も百年で身体どころか眉毛まで成長してしまったために、ルキアが気付いていない可能性もあるが、それは恋次を金輪際視界に入れさせないようにすればいいだけの話なので、積極的に無視する。

 …重要なのはつまり、ルキアが幼くなってしまい、解毒剤が完成していない以上、自分達は出会いからやり直さなくてはならないということだ。

 一瞬でそれだけの考えを纏め、膝をついてルキアに視線を合わせ、ひとまず自己紹介をすることとした。

「私は朽木白哉。そなたの兄だ」
「びゃくや…にいさま?」
「そうだ」

 しばらくぽかんとしていたルキアだったが、ぱしぱしと大きく瞬きをすると、白哉に思いもよらないことを聞いた。

「にいさまは、いちごのともだちですか?」

 ルキアにしてみれば、服が同じだから、という理由で聞いてみたにすぎない。けれどもあの時のルキアの言葉は、氷雪系最強の威力だったと浦原は後に語った。死神の力を持たないはずの彼女が(正確には彼女の兄が)、いともたやすく氷雪系の勢力図を塗り替えていく様に、浦原商店メンバーはいっそ感動すら覚えていた。





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