深夜の任務をこなし、真夜中と呼べる時間に帰って殺風景な自室に戻ると、机の上に『炊事場に来い。この手紙は読んだら燃やせ』と書かれた書置きがあった。誰が残したのかは考えるまでもない。この部屋には、自分と彼女と、ライオンのぬいぐるみ以外は侵入できないように細工がしてある。
 彼女はたしか、今日は休みだったはずだ。熱も下がったルキアは、表向きには志波海燕との出会いによる衝撃から立ち直ったように見えたが、意図の見えない書置きを前にすると、どこか心がざわついた。

「なんだ?こんな時間に」

 疑問に思いつつ、一護は机の上にあったマッチをつけ、手紙を燃やした。煙草を吸う趣味はないから、このマッチは手紙の処分専用だ。用心深いことだ、と思うが、単にそれっぽい雰囲気を出したかっただけじゃないのかという気がしなくもない。一護もまたそれっぽい雰囲気にあてられたのか、何となく足音を忍ばせて炊事場へと向かった。

「おい、何やってんだ」
「ああ、来たか」
「遅えぞ! 俺様が食っちまおうかと思ってたところだ!」
「お前、何勝手に部屋の外に出てんだよ」
「ウルセーな! 息が詰まるんだよ息が!」
「息とかしねえだろ!」
「気分だ気分!」
「やかましい!コン、なるべく声を出さぬ約束だろう。貴様はさっさと席につけ、夜食を用意してやった。……心配をかけたからな」

 心配は、どうやら杞憂だったらしい。炊事場で待ち受けていたのは、けろりとした顔のいつも通りのルキアだった。そして、夜食の用意をしながらも、ルキアが部屋の外に絶えず気を配っていることは明白だった。
 好き勝手騒いでいるコンも、微妙に声を潜めている。一護は息を吐いて、椅子に座った。外には、誰の気配もない。

「ほれ」
「ホットケーキ……って、よく作れたな。材料あるのか?」
「重曹でも何とか膨らむものだな。あとはまあ、フィーリングだ」
「で、箸かよ」
「やかましい。フォークが無いのだ」

 外見は普通のホットケーキだが、中に何が入っているのかわかりかねて、一瞬箸を持つ手が止まった。しかし食べられなくはなさそうなのでそのまま口に入れると、懐かしい甘味が口の中に広がった。

「ちゃんと出来てる」
「だろう」
「何じゃ、良い匂いがするの」

 同じ皿をルキアも用意して、二人でホットケーキもどきを食べていると、不意に近い場所で声がした。一護は硬直し、ルキアは慌ててコンを死角に押さえつけた。

「おお? お前たち、儂に内緒で何を食べておる。ずるいぞ」
「隊長。起きてたんですか?」
「今から寝るところじゃ」

 さすが、と言うべきか、温かなホットケーキに気が緩み、油断したと言うべきか。足音も気配も全く悟らせずに、刑戦装束のままで現れた夜一は、くあ、と大きなあくびをして、それでも目を光らせて炊事場の中へと入ってきた。内心冷や汗をかきながらも、一護とルキアはそれを迎え入れた。ルキアがコンを握る手に力を込めすぎたのか、ぐう、という唸り声がかすかに聞こえたのは気のせいだ。

「妙な物を食っておるな。儂にも食わせろ」
「た、隊長!」

 ひらりと指先でホットケーキもどきをつまみ上げると、夜一は止める間もなく一口齧った。よく味わってごくりと飲み込むと、キラキラした目で夜一はルキアを見つめた。

「うまい! 何じゃこれは? 小島、お主が作ったのか?」
「は、はい」
「明日も作ってくれ。そうじゃ、砕蜂を呼んでこよう。きっと喜ぶ」
「隊長! 駄目です! 時間を考えてください!」

 とんでもないことを言い出した夜一を、ルキアは必死に止めた。記憶違いでなければ、砕蜂は早朝の任務についていたはずだ。だがしかし砕蜂は呼ばれれば来る。絶対に来る。
 説得が通じたのか、夜一はふてくされながらも砕蜂を呼ぶことを思いとどまった。砕蜂にとってどちらが良かったのか今ひとつわからないが、ともかく一護とルキアは胸を撫で下ろした。

「なら、明日にする」
「それも駄目です」
「何故じゃ」
「……えーと、それは」

 目立ちたくないのだ、と正直に口にだすことは躊躇われた。理由を聞かれたら、再度言葉に詰まってしまう自信がある。どうしようかと一護に横目で視線を送れば、一護も困ったように沈黙していた。役立たずが、と心の中だけで罵る。
 ルキアの視線を、夜一はとても都合良く解釈したらしい。にんまりと笑うと、夜一は納得したように頷いた。

「そうか……。さては浅野、お主、小島の料理を独り占めしたいのじゃな?」
「は!? そんなワケね……無いです」
「良い良い、隠すな。しかし、なるほど。すまぬ、邪魔したな」

 夜一は今更気付いたように、深夜に二人で炊事場にいるというシチュエーションを確認して、大いに笑った。これは逢引ではないか。
 そんな夜一の誤解を察して、一護は慌てた。

「違います! コイツはただの幼馴染で……!」
「それがどうした。儂は喜助にこんなことはせぬぞ」
「隊長と三席と一緒にしないでください!」
「そうか。で、結婚は考えておるのか?」
「しねえ! 思考をそこから離せ! おい、お前も何とか言え!」

 堂々と自らの幼馴染を引き合いに出してきた夜一に、一護は眩暈を覚えた。自分たちが普通じゃないことをいい加減理解して欲しい。何を言っても、夜一の誤解を解くには至らず、一護はずっと黙りこくっていたままのルキアに助けを求めた。
 口に手をあてて何かをじっと考え込んでいたルキアは、夜一の方を向くと、意外なことににっこりと笑った。

「……さすが、勘がよろしいのですね、隊長」
「は!?」
「そういう事情で、あまり皆様に手料理を振る舞えませんの。困ったことですわ」
「ははは! おい浅野、懐の狭い男は嫌われるぞ!」
「おい、ちょっと待て! 何言ってんだ!」
「まあ、まだ照れているのね。いっそ認めてしまえばいいと、いつも言っているのですけど」

 ふふ、とからかうようにルキアが笑うと、つられたように夜一も笑った。一護は声も出せず、ただ口をぱくぱくとさせていた。そして、誰の目にも触れぬところで、話の成り行きに思わず飛び出しかけたコンが、ルキアの手で握り潰されていた。

「では、儂にだけはこれからもこっそりと食べさせてくれ」
「はい。……と、言いたいところなんですが」
「駄目なのか?」
「この人はこの通り、嫉妬深いものですから。二人きりの時に邪魔をされると、不機嫌になってしまうんですわ。なるべく私と一緒にいたいそうですの」

 困ったように眉根を寄せるルキアに、夜一は察したように頷いた。

「よし、なるべく二人の時には邪魔をしないようにしよう。ついでに仕事のシフトもいじっておくか。おい浅野、ここまですれば、儂にもそれを食べる権利はあるじゃろう?」
「ありがとうございます。助かりますわ」

 とんでもない公私混同だが、ホットケーキに目が眩んだ夜一は簡単に請け合った。その後夜一はホットケーキを全て平らげると、『邪魔をしたな』とにやにや笑いながら炊事場を立ち去った。

「お前、何だよアレは!」
「やかましい、怒鳴るな。ともかくこれで二人の時に邪魔をされぬし、コソコソ話していても怪しまれぬし、仕事も同じだ」
「だからってな……」
「咄嗟にうまい言い訳を思いつかない貴様が悪い。どうせ記憶を消すんだ。何を言ったって構わぬだろう。あまり動揺して、仕事で失敗するなよ。この話が無かったことになってしまう。あの人は、そういうことには厳しい」

 しれっと答えるルキアに、一護は脱力した。ようやく解放されたコンも、涙目で打ちひしがれている。

「俺のイメージはどうなるんだよ……」
「まだそんなものを気にしていたのか。諦めろ。高校の頃に悟らなかったのか?」

 いくら文句を言っても、ルキアに届く様子はない。がりがりと頭を掻こうとして、自分の髪が思いがけず長いことに気がついた。乱暴に引っ張ると、緩みかけていた紐が解けた。急に疲れが出て、眼鏡を外すと、片手で顔を覆った。手首に巻かれた銀色の腕輪が視界に入る。今の自分達は、嘘ばかりだ。もうひとつ嘘が増えても、彼女の言うとおり、構わないのかもしれない。

「一護」

 ルキアが、本当の名前を呼んだ。自分たちの部屋以外で、それを口にだすのはここに辿り着いた時に禁じた。けれど、禁を破ったルキアを、一護は咎める気にならなかった。
 嘘ばかりで、急に不安定になった気がした自分の足場が、彼女の言葉でたしかな形を取り戻す。のろのろと顔を上げると、ルキアの白い両手が、一護の顔を包み込んだ。

「それが貴様の名前だ。たくさんの願いを込めてつけられた、貴様の本当の名前だ。良い名だな、一護」

 穏やかに、ルキアが笑った。同じ境遇にいる彼女は、きっと自分と同じ気持ちでいるのだろう。それに気づいて、一護はそっと彼女の名前を呼んだ。
 状況は整った。虚が来る日付もわかっている。もうすぐ、自分たちの本当の世界へと帰ることができる。
 帰りたいな、と一護は思った。そう思っているのは、自分だけではないはずだ。元の世界の、何もかもが懐かしかった。
 
「ルキア」

 ひそやかに名前を呼んだ瞬間、ルキアの指先に力が篭った。不思議な響きの名前だ。まるで、冴え渡る冬の夜空から零れ落ちる、星の光のような音だ。



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