「……えー、と」
「どうした海燕、微妙な顔だな」
「……」
「おい、隊長を無視するな、ショックだろう」
「俺のほうが100倍ショックっすよ……」
雨乾堂にとぼとぼと戻ってきた海燕は、紙袋を片手に情けない顔で浮竹を見た。特技は友達作りだと自負している。初対面のしかも女性に、あんなにも怯えられたのは初めてだ。何にもしてねえよなあ、と記憶を総動員して考え続けているが、やはり初対面な気がしてならない。
「何を持ってるんだ?」
「あー……、落し物? って言っても、どの隊の誰なのかは知らないっすけど」
「すぐ話しかけなかったのか? 珍しい」
暇を持て余しているのか、話をせがむ浮竹に、海燕はしぶしぶ事の顛末を説明した。話し方が多少恨みがましくなっているのは、致し方ないことだろう。窓から、池の鯉がぴしゃりと跳ねて、日の光できらきらと輝く水面が見えるのが、海燕を一層惨めな気分にした。
「俺、そんなに顔怖いかなあ……」
「具合が悪かったんだろう。気にするな。で、どんな外見なんだ? 落し物、届けないといけないだろう」
「あの霊圧なら多分席官じゃないし、隊長に言ってもわかんないんじゃないですか?」
「聞いてみなきゃわからんだろう!」
「えーと、男と女の二人組で、髪の色は黒と茶。両方眼鏡かけてて……あ、あと、揃いの銀色の腕輪をしてました」
「あ、それ二番隊だ」
「へ!? 何で知ってるんですか隊長!?」
全く期待せずに話したのに、浮竹は本当に即答してしまった。思わぬ速さで飛び出した回答に、海燕は大いに慌てた。
「男の方、ちょっとお前に似てなかったか? 二番隊の隊長がそっくりだと騒いでな、お前に会わせたいって煩かったんだ」
具合が悪くて臥せってたのに、枕元まで来て騒ぐんだぞ、と浮竹は笑った。男の顔が自分に似ているかはわからないが、すぐに正体が割れたのは幸運だった。
「でもおかしいなあ、身体が弱いっていう話は聞いてないな。聞いてたら、良い医者を紹介したのに」
浮竹の独り言は、海燕の耳には入ってこなかった。意外にあっさりと手に入った情報に、自然と身体は隊舎の外へと向かった。そもそも、非番なのに何故自分はここに来たのだろうか。隊長の顔など、いつだって見れる。そしていつも見ている。
浮竹が聞いたら口を尖らせそうなことを瞬間的に考え、もう帰るのか? と聞いてくる上司に軽く一礼すると、海燕は二番隊に向かって走りだした。
「……一護。もう大丈夫だ」
「嘘つけ」
「ネエサーン……」
「熱、出てるぞ」
「そうか」
自室に戻って気が抜けたのか、頭がとても痛かった。与えられた自室は、当然他の隊員と同じ簡素な作りだが、ルキアは、そこに浦原特製の呪具を幾つか仕込んだ。これで部屋の外には声も聞こえないし、気配も漏れない。コンが動き回っていることも、悟られることはない。勿論、一護の部屋にも同じ仕掛けが施してある。逆に部屋の中以外では、互いを本当の名前で呼ぶことすら出来ない。まったく不自由な生活だ。
とりとめのない思考は、ルキアの脳裏で揺らめき続ける。死んでしまった、殺してしまった。雨・血・森の匂い・死神。そして少しも色褪せていない、幸せな記憶。
「一護、一護」
うわ言のように呟かれる言葉に、意味はきっとない。だが、ルキアの心を安定させる為に必要なのだろう。一護は、どうすることもできずに無言で彼女を見守った。
「一護。……私は、期待していた」
ルキアの目はほとんど閉じている。一護は、無言でルキアの額に手をあてた。その熱さに眉をひそめ、一護は用意しておいた濡れた手ぬぐいを、ルキアの額に載せた。ルキアがほとんど朦朧としていることは、疑いようがなかった。
「もう一度見たかった、あの人が笑っているのを」
ルキアの目尻に、涙が滲んでいる。その事に本人は気付いているのだろうか。殺してしまった人が現れた恐怖と、死んでしまった人が現れた喜びを、彼女は同時に舐めている。
「死んでしまうのに」
ルキアの言葉は悲鳴のようだった。未来を知りながら過去で生活するのは、悪趣味な喜びと大きな苦痛を伴った。皆生きているのだ。まだ。
目的がなければ、簡単に心が折れそうになる。
「おーい、もしもーし。小島ってやつの部屋、ここか?」
場違いなほど脳天気に響いた声に、一護とコンは顔を見合わせ、ルキアは一瞬息を詰めた。何故彼がここにやってくるのか、皆目見当がつかなかった。行ってくる、と小さな声でルキアに囁くと、一護は警戒しながら部屋の外に出た。
「お、当たりだな! あー、俺、十三番隊の志波海燕だ。よろしくな!」
「……浅野太郎です」
適当に決めた名前が、随分と白々しく響いた。そんな空気など気にせぬ風に、海燕は一護の手に紙袋を押し付けた。
「これ、小島って子の落し物! 大丈夫だったか? すげー顔色悪かったし」
「今、熱出してちょっと寝てます。わざわざすみません」
「いーのいーの、二番隊ってわかったのも偶然だし。そういや、ウチの隊長が俺とお前が似てるって言うんだよ。似てるか?」
「さあ、自分ではわかりません」
「だよな! 俺もわかんねーわ。じゃ、お大事にな」
「はい、ありがとうございます」
からからと笑い、言うだけ言って立ち去ってしまった海燕に、一護は少し面食らった。席官でもない平隊士の落し物を直接届けに来るあたり、相当型破りな人柄ではあるのだろう。だが、突然の訪問に不快感はまるでなく、逆に奇妙な温かさを一護の心にもたらした。一護は部屋の中に戻ると、ルキアの顔の傍に、紙袋を置いてやった。置いた瞬間、白い紙袋の底が潰れて、柔らかな花の匂いが零れ出た。
「忘れ物だってよ」
「……ああ、落としていたのか」
隣に舞い戻った花の香りに、ルキアの顔が綻んだ。その表情は、どこか微睡んでいるようだった。
「一生懸命選んだ。薄い橙色で、たんぽぽみたいで、いい匂いがする」
そして、あの人が届けてくれた。
雨と血の匂いが、少し遠くなった気がする。ルキアは顔を傾け、もう少し石鹸に鼻を近づけようとした。
「いい人だな」
「ああ。……自慢の上司だ」
薄く目を開けて、ルキアは笑った。あの人の笑顔を思い出せば、心はじわりと温まった。十三番隊での幸せな記憶は、ほとんどがあの人のもたらしてくれたものだった。血の匂いがする。血と雨と、あまい花の匂い。