非番の日、一護を待ちながら、ルキアは目的もなく瀞霊廷を歩いていた。この先には菓子だの雑貨だのを売っている店が連なっているから、暇つぶしにそこを見るのもいいかもしれない。仕事以外ではなるべく部屋にこもっていたが、いい加減気分が滅入っていた。休日の空気はどこか清々しい。実際は、今この瞬間も『任務中』なのだが、それを考えたらキリがない。
200年前の世界は、自分の目にすら珍しいものが多いのだから、一護にも良い気分転換になる気がするし、ずっと部屋に隠れているコンにも、何か土産を買えたらいい。
「茶葉と、菓子と……あ、あと、石鹸」
チョコレートが売っていないのは残念だが、白玉は売っている。今日は他の菓子でもいい。石鹸は、前使っていたのが無くなりかけているから、できれば良い匂いがするものが欲しかった。隠密機動が匂いを放っているのは良くないが、幸い自分の役目は暗殺ではなく虚の斥候で、そのあたりの決まりは緩い。そもそも、上司が細かいことを気にするタイプではない。
とりあえずの目的を定めれば、自然と足は早まった。適当に店の中に入ってみれば、幸運にも、一軒目で目的のものが見つかった。じっくり時間をかけて選別した後、購入はせずにルキアは別の店へと向かった。数件の店で同じ行動を繰り返し、石鹸の入った紙袋を抱える頃には、ルキアの口元には満足そうな笑みが浮かんでいた。やはり買い物は楽しい。紙袋から僅かに漏れ出す香りを嗅ぎながら、ルキアは小さくひとりごちた。結局選んだのは、薄い橙色の石鹸で、たんぽぽのような色がどこか本来の彼に似ていた。
その気配に気付かなかったのは、油断としか言いようがない。熱心に買い物をして、疲れていた。そして、目の前の石鹸に気を取られていた。その気配に気付いた瞬間には、もう動くことができなかった。動けたら、きっと走って逃げ出していた。けれどルキアにできることは、ただ目の前を凝視することだけだった。
黒い髪の死神が、こちらに近づいてくる。
やはり、油断だ。出会うことを、考えなかったと言えば嘘になる。平静でいられる自信などどこにも無くて、その可能性を意識的に切り捨てていた。二番隊という異質な隊は、仕事上、他隊との交流が極めて薄い。そんな環境が、薄氷を踏むようなあやうさで自分の精神保っていたことを、ルキアは今更ながらに思い知った。そして、それは、遅すぎた。今はもう、反対側に突き落とされている。
「……おい、お前、大丈夫か? 顔色すげー悪いぞ!」
目の前に、殺したはずの上司が立っていた。
自分など視界に入れず、立ち去って欲しいという願いは、あっさりと裏切られた。志波海燕は、心配そうな顔をしてルキアに手を伸ばした。海燕の纏う死覇装ではない紺色の着物が、どこか、あの日の空気と重なっていた。
その手に、ルキアは怯えた。心底恐れているというのに、身体は動かず、声も出なかった。心臓も、きっと止まった。
ルキアを包んでいるのは、長い時間をかけて選り出した石鹸の花の匂いではなかった。雨と血と泥の匂いを、ルキアはたしかに嗅いだ。先程まで持っていた紙袋の感触は消えている。落としたのだろうか。ルキアにはわからなかった。目は、一点に釘付けになっていた。紙袋の感覚の代わりに、目の前の死神を殺した時の感覚がまざまざと蘇った。吐き気と悪寒が、凄まじい勢いでルキアの背中を這い登った。
目を逸らしたい。けれど、身体が動かない。誰か、誰か自分の顔を覆ってくれ、目が眩む、この人は若くして死んだ。
手が、近付く。その手に触れられたら、死んでしまうとルキアは確信した。けれどどうすることもできず、ルキアは懐かしい指先をただ見つめていた。
「スミマセン、コイツ、身体弱くて」
指先が触れると思った瞬間、ルキアの身体は別の方向に強く引き寄せられた。声が出なくてよかった、とルキアは思った。出ていたら、きっと、彼の本当の名前を呼んでいた。一護は懐にルキアの頭を抱え込むようにして、自分の身体に押し付けた。視界を隠してくれている。強く押し付けるものだから、顔に黒縁の眼鏡が食い込んで少し痛い。一護の匂いを嗅いで、ようやくルキアは息を吐き出した。声が出ないはずだ。今までずっと、呼吸を忘れていたのだ。何度か浅い呼吸を繰り返してから、喘ぐようにルキアは声を絞り出した。
「すま、ぬ」
「無理すんな。……行くぞ」
呆然としている海燕に一礼してから、一護はルキアを背負って歩き出した。有無を言わせぬ動きだったが、ルキアに異論を挟む余地はなかった。ようやく息をすることを思い出したのに、歩くことなどできるはずがなかった。まだ身体に力が入らず、全身が細かく震えている。震えの正体は、途方も無い恐怖だ。
「あー、あんまり悪いなら四番隊行ったほうがいいぞ?」
「はい、大丈夫です」
死んでしまった人に応じる一護の声は固い。一護の身体も震えているのではないだろうか。自分の震えと区別がつかない。耐え切れず、ルキアは目を閉じた。ほとんど何も見えないのだから、閉じていた方が良い。石鹸はどうなったのだろうか。折角選んだ、優しいたんぽぽの色をした石鹸。そんな、どうでもいいことが気になった。花の匂いは、どこにもない。あの日の陰惨な匂いだけが、ルキアの身体にまとわりついていた。