ルキアは白いワンピースを纏って、目的の墓の前に佇んでいた。ルキアはひとりだけで、手には紙袋を下げていた。数分前までは一護とコンが一緒にいたが、先に尸魂界へと戻ってもらった。この後、皆で連れ立って、温泉旅行をすることになっている。ゆっくりお湯に浸かって、少しだけぜいたくをしたり、美味しい物を食べたり、皆へのお土産を選んだりして、おもしろ楽しく過ごす予定だ。二日間かけて旅行の計画を立てるのすら、こよなく楽しかった。厄介事を引き寄せる習性のある自分たちのことだから、計画通りにことが進むはずがないとわかっていたが、そのアクシデントすら楽しみにしている自分たちがいた。
現世の墓地で、普通の人間には、百年前に流行ったようなワンピースが、宙に浮いているように見えるはずだ。だが、この場所に人の気配は無いので、ルキアは構わずにそこに立ち尽くしていた。すると、背後にようやく観念したような気配があって、ルキアは振り向かずに唇の端を持ち上げた。
「待ちくたびれました」
「手厳しいな。まだ一護たちが帰ってから、ものの十分も経っちゃいねえ」
「でも、ずっと見ていたではないですか」
ぐっと相手が言葉に詰まる気配で、ようやくルキアは振り向いた。そこには、一護の父親が死神姿で佇んでいた。気まずそうに頭をかいている姿が息子にそっくりで、ルキアは思わず吹き出した。
「まだ、会えませんか。一護には」
「そういうワケじゃねえけど。なんか、今更なぁ」
一護が隊長になる直前に起きた事件のことを考えれば、息子の前に立つのが憚られるという気持ちはわからないではない。おそらく、顔を合わせた瞬間に一護の拳が飛ぶだろう。とはいえ、一護が本当に父親を憎むはずはなく、要するに、互いに気まずくて、意地を張っているだけなのだろうとルキアは思う。似たもの親子だ。
互いに口をつぐめば、神妙な沈黙が落ちた。ルキアが顔の向きを変えて、墓を見つめれば、もうひとつの気配が、ルキアの横に並ぶ。
「……私を責めないのですか」
目を閉じて、小さくルキアが呟いた。心のどこかで、この人がきっと自分を責めることはないと、わかっていた。それでも、穏やかな気配が信じられず、気づけば声が転がり落ちていた。自分のした選択は、この人の最愛の妻を殺すことだった。
「何でだよ。ルキアちゃんは、真咲の夢を叶えてくれたんだ」
穏やかな声がかかり、ルキアははっと目を開けて横を見た。そこには、優しい目をした父親の顔があった。そういえば、自分は父親も知らない。今更、そんなことに思い至った。自分に母親というものを教えてくれた人の笑顔が、頭の中に浮かぶ。
「そのワンピースを娘に着せるのが夢だって、真咲言ってたんだよ。なのに急に誰かにあげたとか言い出すから、妙だと思ってたんだけどよ……。やっぱり、ルキアちゃんに渡してたんだな」
ルキアの目頭に、ぎゅうと熱いものがこみ上げた。それが、はじめて触れた父親と母親のぬくもりだと理解するのに、数秒はかかった。思わず唇を噛み締めたルキアから目を逸らして、一心はまるで墓石に語りかけるように言葉を続けた。
「ありがとうな、ルキアちゃん」
「私は、何もしていません」
絞り出すようなルキアの声に、ぶは、と大きく吹き出した気配があった。思わず横を見れば、困ったように白い歯を零す一心が視界に映る。んー、と大袈裟に考えこんで、一心は後頭部をぼりぼりと掻いた。
「あのな、ルキアちゃんだったんだよ。真咲がそのワンピースを渡したのも、一護のヤロウに死神の力を渡してくれたのも、アイツと一緒に死に物狂いになってくれたのも、アイツが副隊長に選んだのも、全部ルキアちゃんだったんだ。もしかしたら、他のヤツで良かったのかもしれねえ。でも、全部ルキアちゃんだったんだよ。だから、礼を言うのは当たり前だ。それに、これからもアイツと一緒にいてくれんだろ?」
「……はい。勿論」
きっぱりとルキアは頷いた。かけられた言葉に、じわりと心があたたまる気配がある。
「世界がいいか悪いかなんて、死ぬまでわかんねえモンだ。悲しいことがあったんなら、これからうんと楽しくすりゃあいい。これから出かけるんだろ?」
「ええ」
「そういや、何持ってんだ? 後で食べる弁当か?」
「半分正解で、半分外れです。これは、あなたに。きっと来てくれると思いましたから」
「え?」
ルキアは紙袋ごと、弁当を一心に押し付けた。弁当のおかずは、どれもこれもかつて一心の妻に習ったもので、小さい容器には、お手製の芋ようかんが入っている。
「なるべく、習った通りに作ったんですが、再現できているかは微妙なところです」
「うわ、芋ようかんまである。ありがとな。大事に食べる」
「遊びに来て下さったら、いつでも食事くらいお出ししますよ。一護の居ない時にでも」
「サンキュ。芋ようかん、作ってくれよ」
「いつもはダメですよ。たまにです」
「ケチ!」
「作るの、面倒くさいんです。それに、ありがたみも減ります」
「何だよ、余計なことまで教えられてきたな」
大事そうに弁当を抱えながら、子どものように口をとがらせるものだから、ルキアは口元に手を当ててこみ上げる笑いをやりすごした。
一心は、弁当の箱を宝物のようにさすっていたが、やがて子どものような表情を吹き消した。何度も言いかけてはやめて、ルキアから視線を逸らして、言い訳するように少しだけ背中を丸める。
「あのなァ、ちょっとクセエし、ガラにもねえこと言うけどよ。一番不幸なのは、心を殺すことだと思うんだよ。そうなったら、虚と変わんねえだろ。でな、もしも心が生きてたら、身体が死んでも、多分、生きてるんだよ。心が生きてれば、居なくならねえんだ。身体が死んでも、こんな風に、ひょいと戻ってきてくれるんだよ」
そう告げて、一心はようやくルキアを見ると、弁当箱のつつみをぽんと叩いた。ルキアのワンピースの裾が、風に煽られてひらりと揺れる。
「理由なんて要らねえよ。心にそう括れば、それがほんとうになっちまう」
「同じ事を、言われました。あの人に」
心のままに、という歌うような声は、ルキアの胸を静かな勇気で満たした。そうか、と一心は笑いながら頷くと、またな、と言って風のように立ち去る。ガラにもないことをたくさん告げてしまったからか、照れくさそうな後ろ姿を見送って、ルキアは、雲ひとつかからぬ晴れ渡った空を見た。
「先に帰れと言ったはずだぞ」
「帰れるかよ。アホ」
背中の向こうに、先に帰したはずの一護とコンの気配があって、ルキアの肩は震えた。顔は見えないが、一護からはどこか気まずそうな気配が漂う。彼の父親と全く同じだ。そう気づけば、なんだかおかしくなった。
「用は済んだろ。行くぞ、ルキア」
「ああ、一護。行こう」
「コラ一護! 俺様も居るって忘れんなよ!」
「ウルセーな、コンのくせに」
「こら、喧嘩をするなと言っているだろう」
お互いにはっきりと名前を呼んで、ルキアはその響きの美しさに、はじめて気づいたように顔をあげた。全く同じタイミングで顔をあげた一護も、きっと同じだったのだろう。空の向こう側に、今まで通り過ぎた物語の、まぼろしが見えた気がした。彼の父親の言うとおり、死んだ人たちの残した心は、この世界にはっきりと息づいている。
「ヨッシャー! 温泉だ! ネエさんの手作り弁当だ!」
「楽しみにしておけよ。自信作だ」
「そういや、お前、最近ちょっと味付け変わったよな。うまいけど」
「良い師匠に巡りあったからな。誰かさんと違って」
「やべ、反論できねえ」
弁当は、ちゃんと自分たちの分も作ってある。コンの元気な叫び声に、器用に眉間に皺を寄せたまま、一護が笑う。その姿を見て、ルキアも大いに笑った。楽しい旅への期待に、胸が高鳴る。ひそやかに世界を救った死神たちの笑い声は、誰の耳にも届かないまま、まっさおな空の高みへと吸い込まれていった。