白哉は化猫の背を追いかけて、二番隊の敷地を駆け抜けた。
いつもは選ばない方向に、思わず眉を寄せる。あの猫が、どこかへ自分を誘おうとしているのは明らかだ。その意図はわからない。とはいえ、このままむざむざと導かれてやるもの癪で、白哉は必死に足を動かした。化猫は雑木林へと入り込み、鬱蒼と茂ってゆく木々を気にせぬ様子で、どんどん奥へと進んでいく。
「お、遅かったの」
「くそっ……」
全速力で駆けたので、うまく息ができない。息を吸い込もうと思うそばから吐き出してしまって、白哉はしばらく前のめりになって息を整えた。顔から滴る汗を右手で拭って顔をあげれば、自分を誘った化猫は呼吸も乱していなければ、汗すらかいていない。それが悔しくて睨み上げれば、化猫は面白そうに肩をすくめた。
「そうカリカリするな、白夜坊。ホレ、これを見ろ。中々綺麗じゃろう?」
「ん? 珍しいな。こんなところにも花が咲くのか」
追いかけっこの目的地、二番隊の敷地の一番奥にある雑木林の最果てで、意外な花々が白哉の目の前で艶やかな花を咲かせていた。花の色は、たんぽぽをもっと濃くしたような淡い橙色と、スミレのように清冽な紫色で、風が通れば、驚くほど強い芳香が白哉の鼻に届いた。
その香りとともに、一瞬だけ頭に浮かぶ光景がある。けれどそれをつかみ損ねて、白哉は紫色の花の方を凝視した。
「何となく、妙な気配がしての。喜助と見に来たら、こんな花が咲いていた。この森のどこを探しても、この場所にしか咲いておらん。霊圧を探ったが、おかしなところは何もない。この花は香りが強いじゃろう? そのせいで、微かな霊圧は散らされてしまっておるのかもしれん。今、喜助が意地になって調べておる。もしこれが誰かの仕業だとしたら、其奴は喜助より一枚も二枚も上手じゃ。どうも、それが我慢ならんらしい」
「で、何故私をここに連れてきた」
「なんとなく、じゃ。喜助の調べでは、この花そのものに害は無い。となれば、こんな場所にひっそりと埋もれさせておくのは可哀想だろう。花は愛でるものじゃ」
ふふ、と夜一は少女のように笑った。普段にない表情を見るのが照れくさくて、白哉は目を逸らして風に揺れる花を見つめ続けた。とても日当たりが良いとは言えないじめついた場所をものともせず、花はしっかりと根を張って咲き誇っているように見える。
「ふん。貴様にしては、気がきいている」
「ふふ、儂を褒めるとは珍しい。こんな場所に咲くとは、たくましい花じゃ。今はまだこの場所にしか生えていないが、そうじゃな、二百年も経てば、ここは見事な花畑になるかもしれんぞ。そうなったら見ものじゃ。この花は、きっと太陽の光の下で見るほうがいい」
鬱蒼とした木々を見上げて、夜一は白い歯を零した。きっと、太陽の元で咲き誇る花を想像したのだろう。白哉も同じものを想像して、少し口元を綻ばせた。太陽の光を目指して、まっすぐに伸びてゆく姿は、この花によく似合った。
「今のところ、この場所のことは我々しか知らぬ。気になるおなごができたら、連れて来れば良い」
「誰が!」
夜一の下世話なからかいに、かっと頭に血が昇った。いつか自分が愛する人というのが、想像できなかった。
「どんなおなごが好きなのだ? 良ければ、捜してやるぞ」
「黙れ! 私にはそんなもの必要ない!」
夜一のからかいにのってはいけないと自分を戒めつつも、頭は勝手に自分の未来を想像する。一瞬だけ、誰かの姿がぼんやりとした像を結んだ気がするが、きっと気のせいにちがいなかった。
「私の使命は、強くなることだ。いつか貴様だって超えてやる、夜一」
「ほう、知らぬ間に一皮むけたようじゃの」
まっすぐに夜一を睨み据えれば、感心したような笑みが返される。それが、まるで弟を見るような視線だったのが不満だ。いつか、見返してやりたい。誰よりも強く、立派な隊長になりたい。ずっと心のなかで思っていたことだが、何故か今は、それが果たさねばならぬ約束のように感じられるのが不思議だ。
「十三番隊も、新しい副隊長が就任するのは時間の問題のようじゃ。今朝会ったが、いい顔をしておった。きっかけは知らぬが、同じ時期に変わっていくというのは面白いな。そうじゃ、あの男にもこれを見せてやろう」
「いい案だ。こういう珍しいモノは好きだろう。大騒ぎして喜びそうだ」
「あれ、話したことはあったか?」
「顔を見る程度なら、あった。だが、それほど親しくはないな」
白哉は自然に口をついた言葉に、不思議になって首を傾げた。たしかに、志波家の名前は知っている。だが、その長男と話す機会が多かったかと問われれば、答えは否だ。だが、頭の中にははっきりとあの男の笑顔が焼き付いている。底抜けに明るくて物怖じしない印象があるから、そのせいだろうか。
「まあ、その予想には概ね同意じゃ」
深く考える様子もなく、夜一は頷いた。おそらく、昔の印象がもたらした、ただのまぼろしだろう。白哉も頷くと、ひっそりと佇む橙と紫の花を見た。数百年後、あたり一面を埋める花畑をたしかに見た気がして、白哉はその香りを胸いっぱいに吸い込んだ。