一旦現世を経由して、尸魂界へと開かれた門をくぐり抜けた瞬間、一護とルキア、コンの目に焼き付いたのは、視界いっぱいに広がる透き通った空の青色だった。二人と一体は、全員同時に、かつて自分たちが零番隊になった日の光景を思い出した。そして、次の瞬間には、足場を失って地面へと自由落下していた。
「ギャー! ネエさん、落ちてる! 俺達落ちてる!」
「ホンットにアンタは懲りねえな!」
「どうしてこんな高い場所に穿界門を開くのだ!」
「美学っス!」
片手で帽子を押さえながら叫ぶ浦原に、苛ついた一護とルキアは、それぞれに手に持った浦原の荷物を真下に投げた。あ、と浦原が顔色を変えるのも気にせず、パンパンに膨らんだ布袋をクッションにして、一護とルキアは地面へと無事着地した。無事ではなかったのは布の袋で、縫い目のところから中身がはじけた。
「ギャー! ヒドイ!」
「自業自得だ、たわけ」
「なんじゃなんじゃ、もう帰ってきたのか。相変わらず騒がしいの」
「夜一さん! もう帰ってきた、ってどういうことだよ?」
「ん? たった今、喜助が過去に向けて旅立ったところじゃ。貴様らが過去に行ってから、そうじゃな、今日でちょうど三日か」
「ま、待って下さい、三日!?」
「マジかよ……」
岩場の上に佇む黒猫が告げる、あまりの事実に一護とルキアは思わず互いの顔を見た。過去に旅立ってから、一護とルキア、コンの体感では、既に年単位の時間が経過している。
戸惑う二人と一体に、破れた布袋の中身をかき集めている浦原が、朗らかに夜一の言葉を肯定した。
「アタシからの大サービスっスヨン。ここは、キミ達が過去に行ってから、三日後の世界っス」
「何がどう大サービスなんだよ」
「あれ、総隊長から聞いてません? キミ達の仕事の期間」
「は? 仕事の期間?」
「そうっス。キミ達がこの仕事に取りかかる期間は、コッチの時間で一ヶ月」
「期限の話は、そういえばしていなかったな。で、仕事の期間が一ヶ月なのが何だというのだ」
「ニブいっスねえ。今は三日後で、もう仕事は完了してるんスよ」
「あ」
「報告済ませたって、あと四日もかからないでしょ。つまりキミ達、まるまる三週間くらいお休み。完全オフ」
「うわー、マジか」
「何年も頑張ったんじゃから、バチは当たらぬじゃろ。むしろ、短すぎるくらいじゃ。一年くらいのんびりしたらどうじゃ?」
楽しげに地面を尻尾で叩く黒猫に、一護とルキアはようやく状況を把握した。ずっと気が抜けない生活をしていたせいで、ぽっかりと開いた気楽そのものの休暇は、いっそ恐怖に近くすらあった。休み方をすっかり忘れている身体に、一護とルキアはどこか途方にくれたように視線をさまよわせた。
「ま、温泉でも行って来たらどうっスか?」
浦原が肩をすくめると、一護とルキアの頭にかつての夜の光景が広がった。夜一の家で過ごした、あの晩の話だ。あの時冗談めかして話していた『慰安旅行』という単語が、おあつらえ向きのシチュエーションとともに、一護とルキアの頭の中に浮かぶ。我慢できなくなって、二人は同時に吹き出した。
「うむ。慰安旅行か。悪くない」
「温泉行きたかったしな。しばらく、ノンビリするか」
「ネエさん! 温泉って、混浴っスか!? 俺様もネエさんと一緒に風呂に入れるんスか!?」
「混浴だと、一護も一緒に入ることになるがいいのか?」
「それはイヤっス!」
ようやく、本当の時代の空気に身体が馴染んだ気がする。息が楽になったような気がして、一護とルキアは何度も深呼吸した。
そして、過去から引きずってきた胸のつかえが何であるのかを、一護とルキアははっきりと悟った。
「なんか、皆に会いてえな」
「ああ。それに、家にも帰りたい。三日なら、埃の心配は無さそうだ」
「俺達が久しぶりでも、たかだか三日だもんな」
「そうじゃな。総隊長への報告はひとまず儂がしておこう。一晩ゆっくり休んで、明日一番隊に顔を出せ」
「え、いいのか?」
「当然じゃ。儂らの世界が壊れていないのが、お前たちの仕事がうまくいった何よりの証拠じゃ。今すぐに、そこまで詳細な報告は必要あるまい」
「では、お手数をおかけしますが、よろしくお願いします」
一護とルキアは、夜一にぺこりと頭を下げた。ルキアの肩の上にいたコンも、つられて頭を下げる。それが面白かったのか、夜一は白い歯をみせると、瞬歩でその場から立ち去った。
「じゃ、アタシも荷物運ばないといけないんで。お先に」
浦原もまた白い歯を見せると、持ちきれる分だけの荷物を持ってどこぞに消えた。流魂街のはずれにぽつんと取り残された一護とルキアとコンは、そろそろと視線でお互いを探り合った。
「どうする。とりあえず、帰るか」
「ん。そうだな」
「ネエさん、なんか、変な感じっスねえ」
やはり、戻ってきた未来の世界には現実感がない。それが胸につかえていた感情が溶け出した結果だとわかっていたので、一護とルキアは無言で足を動かした。コンも何かを察したのか、口を開きはしなかった。
皆で暮らす家の前について、玄関をあけて居間にしている和室へと入った瞬間、ルキアの動きが止まり、荷物を取り落としてぺたりと座り込んだ。一護もまた、ルキアと全く同じ感情を持て余して、その場に座り込む。
自分たちの本当の家に帰ってきたことで、気が、抜けてしまった。
「一護、疲れた」
「安心しろ、俺もだ」
ルキアは地を這うような疲れきった息を吐いた。そして、息を吐ききった後に、溢れてきたのは涙だった。止めようとしても止まらない涙に、ルキアは困惑した。コンも慌てふためいて様子を見守っている。
「エッ嘘、ネエさん、なんで泣い」
「一護。どうしよう、止まらない」
「軟弱なやつだな。俺まだ耐えてるぞ。スゲーだろ。でもこっち向くんじゃねえ」
「うむ」
「……お前の方が、ダメージでかかっただろ」
「たわけ。私は貴様と違って、死の瞬間に立ち会ったりはしていない。それに、悲しみは当人の問題だ。他人と比べるものではない。我々はそれぞれに、大変な思いをした。そうだろう」
「おう」
「もう、届かないのだな。本当に」
一護の背中に己の背中を合わせて、ルキアは両膝を抱えた。気が抜けた瞬間、堪えきれず溢れた感情は悲しみで、この涙は、過去と決別し、この世界での生活を再開させるための、禊のようなものだった。
過去の世界では、悲劇はまだ起きていなかった。そして、自分たちが信念を翻せば、きっと助けることだってできた。だから、悲しみは胸につかえたまま、涙は出なかった。あの時間が遠い過去になって、もう手出しができなくなって、ようやくルキアは過去を悲しむことができた。きっと一護も同じに違いなかった。
胸をうずめる悲しみを持て余して、ルキアは身体の向きを変えた。いつかのように、一護の背中に額を預ける。二百年前の世界で、言うべきことは全て言った。だから、言葉は必要なかった。
「こら。こっち見るなっつっただろ」
「安心しろ。見えてはいない」
「……墓参り、行くか。温泉に行く前に」
「ああ」
一護の背中にもたれかかったまま、小さく頷いた。己の決断を悔いてはいない。けれど、信念とは全く別のところに、悲しみはたしかに存在していた。きっと、死ぬまで消えることは無いだろうと思う。
会いたい、会いたい、もう、会えない。混ざり合わない身勝手な感情が、心のなかで存在を主張する。
ルキアはぎゅっと唇を噛み締めると、強く目を閉じて涙を払い、顔をあげた。死んでしまった人たちにもう会うことはできないが、通じ合った心は、はるかな時間を経てルキアをしっかりと支えている。過去を嘆いたら、歯を食いしばって前へと進む努力が必要だった。それが、この世界を守ると誓った自分たちの決断だ。嘆きはしても、哀れんではならない。それは、死者を冒涜することに他ならなかった。
「……いつまでも、こうしているわけにはいかないな。荷物をほどくか」
「ん」
緩慢な動きで、部屋に入ると同時に取り落とされた荷物に手を伸ばすと、ルキアはのろのろと袋をひらいた。背後で一護も続いた気配がある。
自分たちが持ってきた荷物は、多くはない。そのほとんどが、この時代から持って行ったものだった。けれど、別の時間から持ってきたものが、ふたつだけあった。
ルキアは自分の荷物の中から、白いワンピースと紙袋に入った石鹸を取り出した。荷物をぎゅうぎゅうに押し込んでいたせいで、ワンピースに石鹸の匂いが染み付いて、布から花の匂いがする。
部屋の中に漂う花の香に、ルキアに背を向けて自分の荷物にとりかかっていた一護が振り向いた。ルキアの持っている紙袋に気づいたのか、苦笑する気配がある。あの石鹸を買った日に起きた出来事を、忘れるはずがなかった。
「持ってきたのか」
「仕方ないだろう。捨てるわけにも、使うわけにもいかなかった」
たんぽぽ色の石鹸は、花の匂いを振りまいて、あの日の記憶を鮮やかに蘇らせる。かつての上司と出会った瞬間、あんなにもはっきりと感じた血と雨と泥の匂いはもう遠く、ルキアの鼻に届くのは、やさしい石鹸の匂いだけだった。いつかとっておきの時に使おう、と心に定めて、ルキアは石鹸を畳んだ着替えの上にちょこんと置いた。
その間にも、自分の手元に一護の視線が注がれていて、ルキアはまだ赤い目を細めた。
「気になるか?」
「何だよ、それ」
「見ての通り、ワンピースだ」
「そりゃ見りゃわかる。どうしたんだよ」
「秘密だ」
白い布を握りしめて、ルキアは微笑んだ。やさしい母親と過ごした時間は、ルキアの心のなかできらきらと輝いている。心のままに、といった母親の笑顔がルキアの心を温めた。
「一護」
「ん?」
「呼びたかっただけだ」
「……おい、ルキア」
「何だ」
「別に、呼びたかっただけ」
一護の子供じみた仕返しに、ルキアは笑った。なんだかいい雰囲気に、コンは部屋の隅ですっかりふてくされている。
「この服で墓参りに行こうかな」
あの石鹸で身体を洗って、この服をまとえば、心のなかに残る人たちが笑う気がする。心に蘇る笑顔が力をくれた気がして、ルキアは顔をあげた。その拍子に、目の前の一護と目が合う。その瞬間、胸を埋めていた悲しみは、これからも彼と共に生きられることへの喜びに覆われた。
「一護。会えてよかった」
「んだよ、それ。急に」
「一応、言っておこうと思って。気にするな、自己満足だ」
「自分勝手なやつだな」
苦笑する一護の眉間の皺が愛しくて、ルキアはそっと手を伸ばした。眉間の皺を指先で押せば、柔らかい皮膚の感触が伝わる。
こんなものを刻まずに、屈託なく笑う彼の顔が見たかった。けれど、ルキアが一番好きなのは、眉間に皺を寄せたまま不器用に笑う、この顔だった。
「こら、くすぐったい」
「貴様は、それでいろ」
それ以上の言葉をつたえあぐねて、ルキアは息を詰まらせた。子どものように戸惑っていると、今度は一護から手が伸ばされる。ルキアは、抵抗しなかった。一護の腕が背中にまわって、てのひらは頭の上におさまる。ちょうど小さな子どものように、抱きすくめられていた。ルキアもまた、両腕を伸ばす。
「ギャー! コラ一護! 何でネエさんとハグしてやがんだ!」
「お前も来るか? ちょっと余裕あるぞ」
「誰が!」
「では、私の方でどうだ。こっちにもまだ、余裕がある」
「ネエさんまで……」
離れる気がないのを察したコンは、悲しげな息を吐いた。しかし、すぐに立ち直ってルキアの手の中に飛び込む。このまま仲間はずれにされるのも、一護の腕の中に飛び込むのもイヤだったにちがいない。手の中に飛び込んだコンごと、ルキアは腕の中の一護を抱き締めた。まるで、もう居ない人を一緒に抱きしめているような心地がした。きっと一護も、自分と一緒に、もう居ない人を抱きしめているのだろう。
世界のために多大な犠牲を払った魂が、今、腕の中にいる。それが偶然でも奇跡でもなく、たくさんの物語の奔流の中から、強い意志で手繰り寄せた結末なのだと、もう知っていた。どんなことがあっても離れないと、まぼろしの母親に誓ったのは自分の意志だ。胸につかえていた最後の涙は、死んだ人ではなく、生きている彼のために流れた。ただいまも、おかえりも、今は声にならない。
「生きよう、一護」
「当たり前だ。ちゃんとついてこねえと、置いてくぞ」
「どっちが。貴様こそ、モタモタしていたら蹴飛ばしてやる」
「俺様はネエさんについていくんだよ! 調子のんなよ一護!」
ぎゅっと目を閉じれば、たくさんの物語が心のなかに蘇る。その全てが背中を押してくれた気がして、ルキアはそっと目をあげた。全く同じタイミングで、一護もまた、顔をあげる。気配を察したコンも、一護の背中をよじ登ってひょいと顔を覗かせた。
全員の目があって、沈黙が落ちる。帰ってきた。そう、強く思った。守るべき世界にやさしく包まれて、皆で不器用に笑った。