一護とルキアは、気配を消す黒い外套を纏って、一番隊の隊首室へひょっこりと顔を出した。そこには、総隊長がどっしりと座っていて、窓から身を乗り出した一護とルキアの顔を見るなり、ひょいと片目を開いた。
「行儀が悪いぞ。何用じゃ」
「何用っていうか……。えーと、記憶、消しに」
「そうか」
「何も、聞かないのですか」
静かに頷いた総隊長に、部屋の中には痛いほどの沈黙が落ちた。微妙な空気に耐えかね、思わずルキアが口を開いた。未来から来た零番隊の二人に対して、総隊長の行動は、潔いものだった。
どうなっているか、知りたくないはずはない。しかし、それを少しも態度には出さなかった。
この死神は、どれほどの時間を駆け抜けてきたのだろう。一護とルキアが過ごし、そして移動してきた時間よりも、ずっと長い時間を積み重ねているはずだった。目の前の死神が積み重ねてきた時間が堂々たる威容となって、一護とルキアを圧倒した。
「未来を知ったら、記換神機を叩き落としてしまいそうじゃ。早うせい。儂は忙しい」
「そっか。じゃあ、ありがとな、じいさん」
「本当に、ご迷惑をおかけいたしました。申し訳ございません」
ルキアがぺこりと頭を下げると、閉じかけていた片目を開く。その眼差しに、予想外の優しさを見つけてしまって、一護とルキアは呆けた。記憶を手繰っても、こんなに優しげな総隊長を見た記憶はあまりない。度々こんな顔をするようにすれば、もう少し周囲も和むのではないかと余計なことを考えてしまう。或いは、絶対な忠誠を誓う一番隊副隊長あたりは、こんな一面を熟知しているのかもしれなかった。
「何じゃ」
「いえ、何でも……」
「アンタもそんな顔できたんだな」
「たわけ! はっきり言いすぎだ! と、すみません」
素直に感動した一護をルキアがたしなめた結果、考えていたことはあっさりとバレた。ふうと呆れたような息を吐いた相手に、一護とルキアは気まずそうに顔を見合わせた。
「他の者はどうした」
「ん、全員消した。虚退治に協力してもらった奴らと、平子だな。あ、そうだ。自分の部屋で寝てる平子はともかく、ほかの奴らはまだ流魂街で倒れてるだろうから、できれば回収してやってくれ。起きるまでそう時間はかかんねえと思うけど、今日あんがい寒いし」
「そういうことは早う言わんか」
総隊長が紙にさらさらと何事かを書き綴るのを、一護は感心しながら見守った。達筆すぎて、何が書いてあるかは全く読めない。しばらく気まずい沈黙が続いた後、紙を懐にしまって、総隊長は息をついた。そして静かに、未来の零番隊を名乗る二人を見つめる。その視線に、一護とルキアは自然と姿勢を正した。そして、二人のあずかり知らぬところで、ルキアの懐に押し込まれたコンも、直立不動の姿勢を取っていた。
「未来を頼む、と言っておくべきなのじゃろうな」
「ああ、任せろ」
ソウルソサエティを今まで支え、これからも支え続ける死神の言葉に、一護はきっぱりと約束した。それを見上げて、ルキアの唇は、無意識のうちに弧を描いた。喜びがルキアの胸の中心から溢れて、体中を駆け巡る。
これが、私の隊長だ。この世界の全てに、そう宣言したかった。
一護は口元に笑みをたたえて、ルキアの頭の上にぽんと手を置いた。
「一人じゃないから、大丈夫だ」
「はい。必ず守ります」
「俺様も居るしな!」
ルキアもまた、迷いなくはっきりと約束した。そして、ルキアの死覇装の合わせ目から顔を出して、コンも大いに頷いた。
零番隊の誓いに、総隊長は満足そうに頷くと椅子の上で力を抜いた。一護は、一歩前に進み出た。
「お世話になりました。ありがとうございます」
常の一護には無いかしこまった物言いで、一護は頭を下げた。そして記換神機をかざすと、迷いなく炸裂させた。発生した爆風を、総隊長は眼を逸らさずに見守り、煙が澄み渡った大気に溶けきる頃には、眠るように眼を閉じていた。
一護とルキアは、もう一度無言で頭を下げると、一番隊の隊首室を後にした。
一番隊隊舎を出ても、二人はしばらくの間無言だった。一護がちらりと横目で隣の相棒を伺えば、ルキアも全く同じタイミングで一護を伺っていた。思いがけずばっちり合ってしまった視線に、一護とルキアは吹き出した。
「終わっちまったな」
「ああ」
あの日、夜一の屋敷で空を見上げてから、随分長い時間が経ってしまった。時間を行き来し、二度目のこの時代での生活を迎え、ようやく終わった仕事に、心は晴れやかに澄んでいた。
穏やかな風が、異邦人である一護とルキアの頬を撫でる。なんとなく世界にすら労われている気がして、一護とルキアは口元を綻ばせた。
「あれま、スッキリした顔」
「どっから来た。つーか、アンタは今まで何してたんだよ」
「お片づけっスよ。キミ達の痕跡消さないと。夜一サンがキミ達の正体を知った時から頑張ってくれたみたいで、ほとんど残ってませんでしたけどね」
「手に持ってる、それは何だ。白紙に見えるが」
「ああ、キミ達が使ったモノのリスト。ちゃんと未来では読めますよ。コレ埋めたら、アタシの仕事も終了」
「ここに埋めていくのか?」
「ええ。そうっスねえ、あの戦いがあった場所にでも埋めときますか」
どこからともなく現れた浦原に、一護とルキアは露骨に嫌な顔をした。ここ最近は特に、この男が関わって、ろくな目に遭った試しがない。
浦原は真っ白な紙をひらひら振って、笑ってみせた。その顔に、狐の面はついていない。ふと気になって、ルキアは首を傾げた。
「そういえば、何故貴様はそんなお面を被っていたのだ」
「え? ああ、だって顔隠さないといけないし。あとは、大体朽木サンと同じ理由っスかねえ」
上機嫌に浦原は笑った。そういうことか、とルキアは納得したようだった。そして、一護だけが蚊帳の外で、眉間の皺を深めた。
「おい、何だよその理由って。なんかあったのか?」
「気づかないか?」
「やだー黒崎サンったらニブーイ」
ルキアは一護を見上げて、からかうような口調で告げた。目には悪戯気な光が宿っていて、一護は口をへの字に曲げると、ふるふると首を横に振った。
「白い狐には気をつけろ」
「黒縁眼鏡には裏がある」
浦原の言葉を、ルキアが引き継いだ。その意味を飲み込んだ瞬間、一護は思わず吹き出した。全く、子どものような冗談だった。ルキアの懐から顔を覗かせたコンも、一護と同じ反応をしていた。
「ネエさん、そんなこと考えてたんスか」
「記憶は消すが、印象くらいなら残らないかなと思ってな、一応」
ルキアは口の両端を吊り上げ、悪戯っぽく笑った。ここに至ってようやく明かされたルキアが黒縁眼鏡を用意していた理由に、一護の唇の端も持ち上がった。
「どうだろな。覚えてくれてるといいけど」
「無意識のうちに警戒するくらいなら、十分有り得る話っスよ。それが、コレのお陰なのかは微妙っスけど」
浦原は懐から狐の面を出して、ひらひら振ってみせた。そして、一護とルキアにくるりと背を向ける。
「じゃ、コレ埋めたらお迎えに上がりますヨン。それまで、思い出にでも浸っててくださいな」
「ん、わかった」
「面倒は起こすなよ」
一護とルキアがそれぞれに頷くのを肩越しに振り返って、浦原は瞬歩でその場を立ち去った。不意に訪れた空白の時間に、一護とルキアとコンは顔を見合わせた。