深夜の空は酷く曇り、雨の降る直前という様相を呈していた。はっきりと嵐の予感を感じて、一護とルキアは身を震わせた。浦原に指示されたこの瞬間を迎えるのは二度目だ。以前は、これで仕事が終わるのだと信じていた。けれど本当ははじまりに過ぎず、この後のことを思えば気が滅入った。やることはいくらでもあった。片割れを失った自分たちの、不安定な霊圧をひっそりと監視する必要があった。そろそろ、自分たちを怪しむ目が増える。藍染惣右介と浦原喜助をまとめて相手取るのは、ちょっとした悪夢だ。間違いなく、この世界で面倒な男の上位二名だろうと思う。頭の中でこれまでのことを思い返して、一護とルキアは目を見合わせて情けなく笑った。ルキアが捕縛される直前に伝令神機をはじめとした道具を回収したのも、浦原の隠し部屋から押収された外套や腕輪を盗み出したのも、誰の仕業なのかは明白だった。今から、自分たちがやるに違いなかった。
「……しばらく別行動にしないか?」
「断る。何今更恥ずかしがってんだよ」
「私にだって、見栄というものがある」
「そんなモン捨てちまえ。あ、もうちょっと後なら別行動でもいいぞ」
「お断りだ。貴様こそ、見栄なんか捨ててしまえ」
相棒を失った自分の有様は、あまり思い出したいものではない。それをこれから客観的に見なければいけないことだけでもげんなりするのに、それを一護にも見られるというのは、頭を抱えたくなるほど恥ずかしい。記換神機を全て使いきってしまったことが、今更ながらに悔やまれた。少しだけ唇を尖らせて、どうしたものかと考えを巡らせても、いいアイデアは浮かんでこなかった。悔しいが、腹を括ってしまったほうが早いのかもしれない。
飽和するまで湿気を含んだ風に頬を晒していると、瀞霊廷中に警報が響き渡った。ルキアの肩の上で神妙にしていたコンを、むんずと掴んで懐にしまい込む。一護とルキアは視線を交わらせると、瞬歩でその場から消えた。
真っ暗な流魂街を駆け抜ければ、目的の場所はすぐにわかった。デタラメな大きさの虚は、目印としては十分すぎた。これが本体の一部分に過ぎないと知ってしまってからは、その大きさに溜息をつきたくなる。
一護とルキアは十分に距離を取って、息をひそめた。すぐに、外套では隠しきれぬ霊圧が揺れた。今虚と戦っている自分たちがしっかりと結界を張っているから、存在が露見する気遣いはなかった。自分たちが今ここにいるのは、虚が逃げた後の後始末のためだ。
虚の気配が割れた。一護とルキアは、そっと目を合わせた。これもまた、ひとつのはじまりに違いなかった。ルキアは、そっと胸に手を当てた。そこには、今まで積み重ねた大切な記憶が、ひとつ残らず眠っていた。
「私が行く」
「結局一人かよ」
「たわけ。あの状態で、貴様を近づけるわけにはいかぬだろう。ここを見張っていてくれ」
「わかったよ。仕方ねえな」
一護が肩をすくめると、ルキアはその場所から消えた。目的地では、ぶつかり合っていた霊圧はなりを潜め、嫌な静けさがあたりを満たしている。先ほどまでは騒がしかった分だけ、一層不気味だった。たどり着けば、意識を失っていないのは、ぽつりと空を見上げる、小さな死神だけだった。
これは、意識を失っているのかもしれない。
自分が何をしたかわかっている今でも、この時間の記憶は曖昧だった。目の前の死神は今、不意に叩き落された絶望に、これからの未来を見失っている。
さくりと音を立てて近づけば、のろりと死神の眼球が動いた。それすら、うまく焦点を結べていないようだった。
「わたし……?」
全く同じ格好をした、同じ死神が向き合う。片方は座り込んだまま、目の前の状況についていけずに、瞬きを繰り返していた。立ち尽くすもう片方は、その様子を見つめて、痛みを堪えるように目を細めた。
手を伸ばしたのは、立っている死神の方だった。屈みこみ、遠慮なく相手の懐を探って、銀色の腕輪と黒縁の眼鏡を取り出す。相手はされるがままで、抵抗する様子は一向に見せなかった。
「忘れろ」
呆然とする相手に腕輪をつければ、さらりと見慣れた亜麻色が長く伸びた。黒縁の眼鏡をつけさせて、相手の目をはっきりと覗きこんで告げた。未だ打ちのめされている相手が、歯がゆくてならなかった。
「忘れてしまえ、このことを。今まで信じてきた希望だけを、はっきりと心に刻め。それは、決して裏切らない」
焦点を結んでいない瞳が揺れて、小さく頷いた。記換神機を使うまでもなく、前後不覚の相手は簡単に暗示にかかる。それだけの傷を負ったのだと認めるのは、やはり気恥ずかしかった。原因が近くにいるとわかっているとあっては尚更だ。
「信じろ。心の出した答えを」
言い聞かせた言葉は、相手と同じだけの強さで、自分の心にも跳ね返った。最後に黒い外套を取り払い、小さく畳んで相手の懐に押し込むと、死神は一人その場所を立ち去った。結界の外から、よく知る二番隊隊長の気配が近づいている。流石、迅速な行動だ。頭の隅で考えて、ひとり苦笑した。
ルキアが微かな風だけを残してその場所から消えた瞬間、過去の自分達が仕掛けていた結界が全てほどけた。深く考えるまでもなく、一護の仕業に違いなかった。
「終わったぞ」
「こっちもだ」
一護の背中に声をかければ、にかりと白い歯を見せて振り向く。いつもなら憎まれ口を叩くところだが、ルキアは同じように笑いかけてみせた。少しばかり笑みが歪んでしまったのは仕方がない。一護の肩に乗ったコンが、心配そうなまなざしを送ってくるのが照れくさかった。
あんがいあっさり終わってしまった邂逅に、一護は拍子抜けしたようだった。視線の遙か先では、夜一がもうひとりのルキアの肩を揺さぶっている。
「あれでいいのか」
「ああ。あとは、貴様の母親の領分だ」
「……そっか」
「不思議な人だな。何もかもお見通しだった。私自身ですら、気付いていなかったのに」
「ああ、そんな感じの人だ」
「悲しいことばかり起こるな。これから」
さらりとルキアが呟いたことは、紛れもない事実だったので、一護は小さく頷いた。起こった出来事ではなく、これからの未来で起こるはずの出来事は、まだ悲しむことすらできなかった。ただただどうすることもできぬ戸惑いを、一護とルキアの胸に植えつけていくだけだった。
「行くぞ」
「俺の台詞だろ」
「情けない顔をしている隊長を引っ張っていくのも、副隊長の仕事だ」
ルキアは一護の手を引いて、来た道を戻り始めた。互いに繋がれた手を離し難くて、結局隠れ家までの距離を、手をつないだまま進んだ。
きっと、互いの顔はこわばっている。けれど、涙を流すことはできなかった。悲劇はまだ、種を奥深くに埋めこんだまま、芽を出す時間を伺っている。
歩くたびに、ここで出会った人たちのことが、頭の中を横切っていった。一護も同じ事を考えている、とルキアは確信した。冷たい夜風が頬を撫でるたびに、冷静な思考回路が削りとられて、繰り返す思考はもう何度目かわからなかった。これからやるべきことを、目を伏せて頭の中に思い描く。失敗は許されなかった。自分たちを秘密裏に監視して、そして。
あとは任せた、と一護が叫び、過去にあの二人が行ってしまえば、またあの人達の前に、姿を見せる時が来る。一護とルキアは、雲が出てきた夜空を見上げて、ほうと息を吐いた。吐いた息は、遙かな過去の大気に溶けこんで消えた。