物陰に息を潜め、いつもと同じように、一護とルキアは首尾よく藍染の監視を終わらせた。
いつもと違って帰り道で立ち止まり、ぼんやりと物思いにふけったのは、二番隊に潜入中の自分がかつての上司と再会してから、はじめての雨の日だからかもしれなかった。
周りの出来事もどこか他人事のようで、ルキアは雨でふやけた頭を振って自分を叱咤する。しかしうまくいかずに、溜息ばかりがこぼれた。あたりには、じっとりと湿り気を帯びた暗闇だけが続いている。どこまでも続いて、果てが見つからない。
不意に、頭に手が載せられた。一護だ。のろりと顔を上げれば、呆れたような視線とぶつかる。一護が小さくコンを呼ぶと、コンは大人しくルキアの懐から這い出て、一護の肩に飛び移った。ぽかんとしているルキアに、一護はそっと指先を近づけた。ルキアの顔の前で止まった指先は、ルキアの額を思い切り弾いた。小気味良い音がして、ルキアは両手で額を覆った。
「なにをする!」
「お前、一人でゆっくり帰ってこいよ。隊長命令な」
ぶっきらぼうに告げると、一護は音もなく瞬歩で消えた。どれだけ気配を探っても、その姿を追うことはできない。面と向かって褒めはしないが、見事なものだった。
置いていかれたルキアは、仕方なく物思いを再開した。いつまでたっても慣れない長い髪を指先で弄ぶと、ルキアは歩き出した。先程まで降っていた雨のせいで、地面はじっとりと水分を含んでいたが、ルキアの歩みは物音ひとつ立てなかった。
「……この気配は……」
ぺたぺた、微かな音とともに、見知った気配が前から近づいてきて、ルキアは少しだけ戸惑った。逃げるか、出会うか。逃げた方がいいのだろう。けれど、不思議とルキアは歩みを止めなかった。色濃く残る雨の気配に、冷静な思考回路はどこかに置き忘れられてしまっている。
相手の可愛らしい足音に、少しだけ頬を緩めた。思考回路が止まったどころか、花でも咲いてしまったかもしれない。
「な、だ、誰だ」
どろりと濁った雲の隙間から月が顔を覗かせたせいで、幼い義兄が顔をひきつらせるのがはっきりと見える。可愛い。不謹慎なことを考えながら、ルキアは笑った。
「……あらまあ、奇遇ですわ」
二番隊で、義兄と交わした言葉を思い出しながら声を押し出した。一瞬口調を忘れかけて、妙な沈黙が落ちてしまったが、仕方ない。義兄の瞳に潜んでいるのは、警戒とかすかな恐怖。ルキアはフードを後ろに下げて、顔の全てを月明かりの下に晒した。
「貴様、いや、貴方は、二番隊の」
「はい。お久しぶりです。懐かしい」
「懐かしい? 以前会ってから、まだそう時間は経っていないだろう」
最後に思わず本音が漏れた。案の定、白哉は怪訝な顔をしていて、そんな表情のひとつひとつすら懐かしくて、ルキアはいっそう頬を緩めた。
一護に怒られるだろうか。そんな考えが、ちらりと胸をよぎった。けれど、一護は全てを了解している気がしていた。一護の唐突な行動は、義兄の気配を感じ取ったからにちがいなかった。
「時間など、曖昧なものですわ」
言葉に実感がこもってしまったのは仕方ない。時間の不安定さを利用して自分たちは虚を倒し、ルキアは今ここにいる。そんな事情などもちろん把握していない白哉は、眉間に皺をつくった。言葉の意味がわかりかねる、と態度が雄弁に物語っている。
「何をしている」
「散歩ですわ」
「足音も、気配も消してか」
「二番隊ですもの。修行中の身なので、いつでもこうして足音と気配を消すのです。でも、見つかってしまいましたわ」
ルキアはゆっくりと肩を竦めた。眼は、久々に見る兄の姿と声に釘付けになっている。客観的に見れば、これは青少年をとって喰おうとしている図なのではないだろうか。頭を掠めた言葉に、ルキアは心の中で笑った。少しだけ、使用人の眼を盗んできたに違いない御曹司を懲らしめてやりたい気持ちも湧いた。本来の時代にあっては掟が隊長羽織を着ているような義兄も、人の目を盗んで家を抜け出す頃があったのだと思うとくすぐったい。
「白哉様は、何をしていらっしゃるのですか」
「……散歩だ」
「お揃いですね。でも、危険ですわ。夜には、何が紛れているかわかりません」
頭の中によぎるのは、昨日の光景。闇に潜んで笑う男。それをはっきりと睨み据えた銀色の少年。憎しみと苦しみと狂気を誤魔化すように、真っ黒な闇が世界を覆っている。ルキア自身の存在もまた、異物にちがいない。それさえも、夜の闇は覆い隠して、気まぐれな出会いを演出する。疑いようのないルキアの脅しに怯えながら、白哉はきっぱりと言い切った。
「平気だ。そんなことに怯えていては、朽木家の当主にはなれない」
「お強いのですね」
「まだまだだ。だけどきっと、強くなる。いつか卍解を会得して、当主として恥じぬ程強くなるのだ。いや、今までの当主の誰よりも強くなる。途方も無い夢だと、笑うなら笑え」
声は僅かに震えているが、凛と響き渡った。その真っ直ぐな瞳が愛しい。抱きしめたくなる衝動をぐっとこらえて、ルキアは白い手を差し伸べた。状況がわからず白哉が固まっているのをいいことに、艶やかな黒髪を優しく梳いた。決意を湛えた瞳越しに、ルキアの頭の中には、本来の時代にいる義兄の姿が鮮やかに浮かび上がった。顔立ちはあどけないが、眼だけはよく知る義兄そのものだった。むしろ、これは義兄の眼だけが、子供の頃から変わっていないというところだろうか。この眼を直視することができずに、義兄のことを何も知らぬまま数十年を過ごしたことを、ルキアは心から悔いた。
「ま、まて! 頭を撫でるな! どうして、いつも」
「すみません、つい」
「つい、ではないだろう! 莫迦にしているのか!」
「しているはずがありませんわ」
え、と幼い兄は眼を見開いてルキアを見つめた。ルキアもまた、兄の眼をはっきりと見つめ返した。その瞳はやはりよく知る兄のもので、ルキアの胸を締め付ける。
しているはずがありません、とルキアはもう一度告げた。手は勝手に、義兄の髪を優しく梳いた。
「貴方は素晴らしい隊長になれますわ。朽木家歴代最強の誉れ高い、隊長にきっとなります」
「……そうか」
おぼろげな月明かりの中ですら、義兄の頬が桜色に染まったことがわかった。くふりと笑って、ルキアは義兄の耳に唇を寄せた。
「貴方の願いは叶います。強く、優しい隊長に、いつか」
この人の強さと優しさを、きっと誰よりも知っている。噛み締めるようにしてルキアは呟いた。
艶やかな黒髪から手を離すのは惜しかったが、ルキアは意を決して手を離した。既に色々とまずいことを口走っている自覚はある。
ルキアの手を追うようにして、白哉が顔を上げた。しっかりと目を合わせると、白哉の片眉が跳ね上がった。
「眼鏡は、無くても良いのか。外すとほとんど見えないのだろう?」
ああ、と呟いてルキアは顔に手をやった。そこに、かつてかけていた黒縁眼鏡の感触は勿論無い。念のため腕輪だけはつけているが、外套を羽織った姿に眼鏡は必要なかった。こうして義兄に出会うまで、この姿で人前に出ることを想定してすらいなかった。
「見えても見えなくても、同じことですわ。こんな夜には。……ああ、随分と引き止めてしまいましたわね。申し訳ありません。ごきげんよう、白哉様」
厚い雲が再び月の姿を覆い隠す。闇に染まる景色を眺めながら、そろそろ退散の頃合いだとルキアは思った。義兄は、この二番隊隊員のことを、さぞかし不審に思ったにちがいない。けれど、そのうちに二番隊はそれどころではない緊急事態に見舞われるのだから、大した障害にはならないだろう。
「私も、帰らなくては」
「待て! ……もうすぐ、庭に桜が咲く! そうしたら、一度見に来い! 私が生まれた時に植えたものだから、まだ小さいが、とても綺麗だから、その」
必死な声を聞きながら、ルキアは不意に、義兄にこんな風に誘える友人がただの一人もいないことに思い至った。夜一があれやこれやと構っているが、あの関係は友人ではないだろう。夜一が自分たちを義兄に引きあわせたのも、ただの好奇心ではなく、ひとり修行に励む義兄に気を揉んだからにちがいない。そう納得すれば、義兄との対面に、一護までもが呼ばれたわけがわかった。友達は、ひとりでも多いほうがいい。
それでは、これは彼の心を傷つけてしまうのだろうか。そう心配するのと同時に、心は勝手にここではない時代の出来事を再生する。
桜の大木が見事な花を咲かせていた。地面は絨毯のような苔でみっしりと覆われていて、柔らかな緑色の上に、優美な模様を描きながら花弁がひらりひらりと落ちた。風で飛ばされたものは池にまで辿り着き、ゆるい漣となって水面を撫でる。
はじめて見た時、ルキアは飼い猫だと揶揄される己の境遇を忘れるほどに、絵画のように美しい光景に見入った。思えば、それは不器用な義兄なりの気遣いに違いなかったのだが、その頃は表情を崩さぬ義兄の心の内を忖度することなどできなかった。
けれど、今は、できる。
毎年の恒例行事として朽木家が催す花見の宴は、桜など咲いていなくても良いのではと訝しむほどつまらぬ貴族との社交の場に過ぎなかった。何日も前から大掛かりな準備がはじまり、屋敷の中が慌ただしい気配に包まれる頃、義兄はひっそりとルキアを呼んだ。義兄に呼ばれるがまま後に続けば、菓子とお茶だけの小さな膳が用意されていて、二人しかいない花見の宴をしてくれた。屋敷の気配に呑まれていたルキアは、ほうと息を吐いて、ようやくゆっくりと桜を眺めることができるのだった。義兄は甘いものが好きではないから、用意されているのはルキアのためのもので、それがとてもくすぐったい。会話らしい会話はほとんどない。ただ桜を眺めて、花弁が揺れ動くのを目で追う。桜はとても美しく、それを眺めている義兄の横顔は芸術品のようだった。
毎年、毎年、義兄は同じ事をしてくれた。美しい桜の木と、普段よりも少しだけ緩んだ義兄の表情を、ルキアは心から愛していた。この人がよく笑う人ならば、瀞霊廷じゅうの女性死神が放ってはおかぬと確信する。それはあまり面白くなかったので、やはりこのままの義兄がいい、とルキアは毎年思うのだった。表情を崩すことは滅多に無いが、あんがいズレていて優しい人だと知っている。
最近では、宴の次の日に、有志による酒宴がひらかれている。これは有り余る前日の食べ物目当てで、寄ってくるのは貴族に尻込みなどしない隊長格たちだった。庭に勝手に緋毛氈を敷き、勝手に持ち込んだ酒で勝手な宴会がはじまる。前日に負けず劣らず桜はないがしろにされがちだが、前日と徹底的に違っているのは、騒がしい笑い声がそこかしこで響いていることだった。時折阿鼻叫喚も混じったが、それすら笑い話になった。奔放な隊長格を、義兄は放置しておいた。追い出せぬわけでは無いだろう。迷惑そうな溜息をつきながら桜に目をやる義兄の横顔を見るのが好きだった。花見の季節には、義兄はいつもと違う表情を幾つも見せてくれる。
ルキアはというと、オレンジ色の髪をした己の隊の隊長が、その馬鹿騒ぎの中にしっかり混じっているものだから、どちらの味方もできずに、大騒ぎを眺めて苦笑することしかできなかった。
知らず積み重なっていた、幸せな記憶だ。ルキアは、暗闇に紛れて震える息を吐いた。今まであったこと全てが、はっきりと自分の居場所を教える。
なにもかも、なかったことにはできなかった。たくさんの人の大切な記憶を、ルキアは既に積み重ねていた。それを全て失えば、自分が自分でいられるはずはなかった。
「ごめんなさい」
ルキアは暗闇の中で、艶やかな笑みをつくった。自分の居場所は、ここではない。胸に降り積もる大切な記憶は、ルキアの中で輝いていた。
いつか、遠い未来で。声に出さずに呟いて、ルキアは幼い義兄に背を向けた。厚い雲は月を覆い、闇はルキアの姿をひっそりと隠した。
振り返らずに歩き続けると、暗闇の中に見知った気配を見つけた。霊圧を遮断する外套を纏っているが、間違いはなかった。あんがい心配性な上司に、苦笑を漏らせば、唇を尖らせる気配があった。全ては、闇の中の出来事だった。心配をかけたな、と声は出さずに伝える。ぽんと頭に手が置かれた瞬間、ルキアははっきりと笑った。