真夜中の雑木林の中で、男は手の中に収めた石を、飽かず眺めていた。木に遮られて月明かりはほとんど届かず、あたりは死覇装よりもなお黒い漆黒の闇に包まれている。ただひとつ、男の手の中に収まる石だけが、ぼんやり発光しては明滅を繰り返し、男の輪郭を儚く照らしていた。
 足りない。まだ、足りない。頭の中に響き渡るのはその一言のみで、一体どれほどの魂を喰らえばその石が満たされるのかもわからないまま、ただひたすらに強い魂を求めた。いつかこの石は満たされる。無限など、この世界にありはしない。だから、必ず夢は叶う。男は闇の中でひっそりと笑った。いつも柔和な笑みばかり浮かべているはずの顔が、重力に逆らうように引きつって不気味に歪む。それが、この男のほんとうの笑顔だ。全てを偽って生きている男は、誰もいない闇の中でしか笑うことができない。

「……さて、君を満たしてくれる魂を探そうか」

 生きているように明滅を繰り返す光を眺めてゆるりと息を吐くと、死神たちの集う場所へと視線を向けた。本当は、隊長格の死神を残らず実験台にしてやりたい。けれどそれは、まだ早い。いつの日か、と男は思った。
 瀞霊廷に注意を向けた瞬間、ひらりと男の神経に何かが障った。瀞霊廷の奥深くに、なにかおかしなモノが居る気がする。笑みをかき消し、神経を集中させようとしたところで、こつりと音がして集中が途切れた。反射的に振り返れば、何もいない。風に煽られた小石が、樹の幹に当たったのかもしれなかった。気を取り直して集中してみても、もう不自然な気配を追うことはできない。男は少しだけ眉間に皺を寄せると、その場から消えるように立ち去った。
 あたりに静寂が落ちてしばしの時間が過ぎた後、木の影に潜んでいた漆黒の影法師がふたつ、もぞりと身動きして、やはりその場所から一瞬で姿を消した。



 ルキアは鍋の火を消すと、よし、と呟いて味噌汁をお椀によそった。慣れた手つきでご飯に茄子と玉葱の味噌汁、肉じゃがにかぼちゃの煮物を食卓に並べて、斬月の素振りをしている一護を大声で呼んだ。

「一護ー! 夕飯だぞ!」
「おー、サンキュ」

 すっかり腹を減らした一護は、瞬歩で食卓へと駆け寄った。ルキアの言葉に敏感に反応し、コンも机の上へと飛び乗ると、フェルトの手を口元に寄せて並んだおかず達をじっと覗きこんだ。

「ネエさん! 玉ねぎ入ってるじゃないスか!」
「好き嫌いをするな。それに、その身体ではそもそも食べられぬだろう」
「義骸! 義骸に入れて下さい!」
「たわけ。もう無い」

 再び辿り着いた過去の世界で、一護とルキアとコンは、思いがけず穏やかに生活していた。ちらりと視線を上に持ち上げれば、雲ひとつない青い空が目を刺す。とはいえ、これはまがい物で、岩壁を繰り抜いて作り上げた部屋の天井には、一面が青空にペイントされていた。かつての勉強部屋を思い出すつくりの部屋は、勿論浦原喜助が作り上げて、放置した隠し部屋のひとつだ。この時代に来る前から浦原に聞いて知っていた空間は、本人曰く『飽きた』というふざけきった理由で使われずに放置されていた。あの男の人間性については置いておくとして、潜伏には格好の場所だ。
 部屋の隅には傷を癒す温泉が湧き、夜一でも招くつもりだったのか、寝る場所もふたつ確保されていた。閉ざされた空間の中で、まるで元の時代に戻ったように、かつての生活を確かめるように、一護とルキアとコンは、夜七時に夕飯を食べ、それ以外の時間もずっと共に過ごした。
 食べ物には困らなかった。一週間に一度、どこから調達したものか分からぬ食材が、隠し部屋の入り口付近に積まれた。犯人は考えるまでもなく、姿を消したあの男にちがいなかった。

「昨日無事配属されたし、そろそろ初仕事も終わった頃か」
「そうだな」

 一護とルキアは、今頃二番隊で生活している自分たちに想いを馳せた。あの頃は必死で、まさか同じ時代に、もう一組の自分たちが潜んでいることなど考えもしなかっただろう。
 はじめて死神として二番隊に足を踏み入れた時、緊張で、一瞬だけ警戒が解けかけた。誰も気づくはずのない霊圧のゆらぎを、遠く離れた場所でしっかりと察知した存在がいたのは、素直に驚く。この世界に戻されてから、昨晩が一番危なかった。そして、これからはもっとあぶないことが待っている。

「地味な仕事だな」
「そう言うな。アレに見つかったら、世界の終わりだ」
「今なら、戦って負けねえよ」
「たわけ。それでも、私達の世界は崩壊だ。未来が変わる」
「……そっか」
「……そうだ」

 神妙な顔をして肉じゃがを口に運ぶ一護を、ルキアは苦笑で窘めた。ここにいると、あの世界は薄氷を踏むようなあやうさで掴み取られたことを、何度も思い知ってしまう。それでも、あの世界を守るという決意は消えるはずはない。闇に潜んであの男の挙動を見張り、今頃二番隊に居る潜入者の存在をひそやかに隠すことが、自分たちで定めた任務となった。監視には、鏡花水月を知らぬ一護の眼が役に立った。あの男は、呆れるほど鮮やかに精力的に、隊舎を抜けだしては悪巧みを繰り返している。

「……こら、暗いぞ」
「お前に言われたくねえよ」
「どうも駄目だな。どうしても、思い出してしまう」
「それでも、」
「ああ。選んだ。大丈夫だ」

 大丈夫ではない顔でルキアが笑う。あの男を追いかけて、誰かが不当に傷つけられるところを何度も目の当たりにした。拳を握りしめ、元の世界を思い出すことで、その衝撃に耐えた。それでも、金髪の少女が地面に横たわっているのを見つめる銀髪の少年を見つけた時、思わずうめき声が漏れそうになった。一護も全く同じ思いを味わっているにちがいなかった。
 記憶よりもあどけないが、ふたりの整った顔立ちには、嫌というほど見覚えがあった。
 銀髪の少年は、ぴくりとも動かずに立ち竦んだまま、乾いた大地に横たわる金髪の少女を眺めていた。そよとも風の動かないよく晴れた昼下がりの、悲しい光景だった。悲しい、この世界ではよくある光景で、世界は誰も少年の絶望を取り合ってはくれなかった。生ぬるい空気は少年を包むようにわだかまり、抱え込んだ干し柿が力を失った腕から転がり落ちた。少女と食べるはずだったそれは、地面に落ちて軽い音を立てた。
 しばらくの後、思い出したようにしゃがみこんだ少年は、そっと少女の着物を引っ張った。少女は動かない。母親に置いて行かれる幼子のようなおぼつかなさで、少年はぺたぺたと少女の肌に触れた。小さく少年の口が少女の名を紡ぐのを見て、一護とルキアは物陰で目を閉じた。あどけなさの残る細い瞳に、憎悪が燃え上がるのをはっきりと見た。かさかさの空気の中で、少年の眼だけが、感情に濡れて輝いている。

 またひとつ、あの世界へと辿り着く物語が生まれてゆく。

 金髪の少女を介抱して、銀色の少年は走りだした。その行く先を、一護とルキアは既に知っていた。
 森の茂みから様子を伺う少年に気づかぬ風に、あの男が現れる。その姿を、瞬きの時間すら惜しんで、銀色の少年は目に焼き付けていた。憎悪は臨界点を超えて、いっそ冷気すら漂わせていた。感情を全て凍らせて、少年はこれからの生き方を自分に定めてしまった。
 一護とルキアに、手を差し伸べることはできなかった。それは、過去を変えられないからではなかった。銀色の少年が必要としている腕は、自分たちではないと痛いほどわかっていた。その腕を、銀色の少年が自ら捨てて生きていくことも、わかっていた。小さな背中に、少年の未来を思い描いて、一護とルキアは、ぎゅうと拳を握りしめて耐えた。それでも足りずに、互いの外套の端を掴んだ。これは一例に過ぎぬと悟っている。自分たちの知らぬところでも、夥しい数の物語が生まれては、消えた。
 そんなことを思い出していると、口数どころか手の動きすら鈍り、完全な無音が食卓を支配した。

「もうすぐ、動くな」
「全く、毎日毎日ご苦労なことだ。あの男は、あんがい努力家だな」

 重い沈黙を破って、一護は目を細めた。まだ、銀色の少年の幻影は消えない。それでも、外に出ないという選択肢は無かった。夕飯後の運動は、腕輪で姿形を変えなければならない上に気が滅入ることも多いが、外を好き勝手駆け回れるのは嫌ではなかった。箱庭のような空間に篭っていると、穏やかすぎる時間が妙な罪悪感に変わる瞬間がある。監視に集中している間は、余計なことを考えずにいられた。
 なによりも、潜入中の自分たちは、とてもじゃないが心もとない。
 次に警戒が途切れるのは、自分がかつての上司に逢うあたりだろうか。ルキアは記憶を掘り起こし、いつのことだったかを心の中で数え始めた。頭の中に、死んでしまった人の笑顔が蘇る。あと、ひと月と半分。不意に胸を締め付けた慕情に、ルキアは目を細めた。


 ルキアは外套を着て、そっと外に出た。銀色の少年との邂逅からひと月と半分を指折り数え、計算が間違っていなければ、今日があの人に再会する日のはずだった。大人しく一護もついてきたので、きっと計算は間違っていないのだろう。
 勉強部屋の偽物の空と変わらないほど冴え渡った青空が、ルキアの遥か上にひろがっている。こんなに晴れていたか、と思って、ひっそりと苦笑した。
 あの人に出会った日の記憶は、いい匂いの石鹸に、あの人の着ていた着物。否応なく蘇った、かつての記憶。血と泥と雨。だから、こんなに晴れているのは予想外だ。てっきり、土砂降りの雨でも降ったのかと思っていた。
 頭の中で、満面の笑みを見せる死神の姿が形を成す。そう遠くない記憶だ。もう二度と会えるはずもなかった人と、思いがけず何度も再会した。物思いにふけっていると、隣にいた気配が身動いだ。

「何妙な顔してんだ」
「ほう。どんな顔だった?」
「半笑い」
「もう半分は何だ」
「俺の嫌いな顔だよ」
「それは、すまぬ」 

 一護は乱暴にルキアの頭をくしゃくしゃと撫でた。腕輪をしているせいで長く伸びた茶色の髪が乱れる。胸に凝った悲しみを、ぐっと呑み込んで目を細めるのはルキアの癖だ。ひどい時は、口元に薄い笑みすら刷いて、聖母さながらの表情になるのだから、いよいよ救いがない。
 吐き出せばいいのに、とも、吐き出せなかったのだろう、とも一護は思う。同じような傷を抱えてずっと生きてきた経験が、一護に彼女の絶望を教えた。胸に淀む感情は、己の血となり肉となり、やがて骨の髄まで染みて、逃れることの出来ぬ呪いとなる。

「幸せだな、私は。あの人にもう一度逢えた。きっと、さよならが言える。ずっと言いたかった」
「全部、終わってからな」


 頭に手を載せたまま、一護は瀞霊廷の彼方を見据えた。一護の記憶は、ルキアのそれよりは幾分正確だ。ルキアが隊舎を出たのがほとんど真昼で、買い物が終わったのが昼下がり。もうひとりの彼女は、今頃一生懸命石鹸を選んでいる。
 これから起こる出来事を思い返していると、手の下の頭がもぞりと動いた気配がした。視線を向ければ、切実な紫の瞳に自分の顔が写り込んでいた。その瞳は、貴様はどうなのだ、と告げていて、一護は目を伏せた。
 頭の中に、あの瞬間が蘇る。母親が最期に並べ立てたのは、どこまでもあの人らしい、希望のかけらのような言葉たちだった。煌々と輝き、一護の心にそっと火を灯す。
 結局、悲劇の起きない未来をどうしても選べなかった理由はこれなのだろうと一護は思う。絶望を血肉として生きた自分たちが、大切な人を喪わない未来を想像できるはずがなく、どれだけ思いを巡らせても、頭に浮かぶ先行きは全てがらんどうだった。悲しまずに笑っていろと母親は教えた。それは、悲しみを忘れてしまえという意味のはずがない。

「俺も、幸せだったよ。さよならは言えなかったけど」

 あの道を歩いたから掴み取れた絆を、苦しみの末に勝ち抜いた世界を、心から愛していた。心のままにと伝えた母親の言葉を拠り所にして、一護は笑った。母親との再会は、一護の背中をたしかに押した。この選択がいいのか悪いのかはわからない。けれど、ひとりだけではないことはわかっていた。
 
「皆で帰るぞ。俺達の家に」
「ああ」

 今度こそほんとうのほほ笑みを貼り付けてルキアは頷いた。ルキアの懐から這い出したコンは、当然だ、とでも言うようにふてぶてしく笑ってみせる。最も一護とルキアの選択に気を揉んでいたはずのぬいぐるみは、今では落ち着いたものだった。コンもまた、一護とルキアの決意を信じたのだろう。その信頼を裏切るわけにはいかない。
 決意を新たにするたびに、頭の中に蘇る光景がある。きっと、ルキアもコンも、同じ光景を思い返しているに違いない。一緒に入れば簡単に思い出せることを、一人になった途端に忘れてしまうのは不思議なことだった。
 目を閉じれば、はじめて隊長になった日の出来事が、ありありと蘇った。澄み渡る青空に、真新しい白い羽織がはためく。ルキアを背中に乗せて、瀞霊廷を駆け抜けた。風の中に土と花の匂いが混じるやさしい季節に、あの世界の何もかもを守ると誓って、あの白い羽織に袖を通した。ルキアもきっと同じ思いで副官章を腕に括りつけたのだろう。あの日風に翻ったのは、新品の隊長羽織と、ようやく掴みとった希望だったはずだ。
 
 一護とルキアは瞬歩で移動すると、大胆に五番隊隊舎の屋根にへばりついた。資料庫になっている目立たぬ建物なので、黒い屋根に張り付く漆黒の影法師が、人目に触れる気遣いはなかった。いくつも並んでいる背の高い広葉樹が青々とした葉をみっしりと茂らせ、ころあいの隠れ蓑となって一護とルキアを守った。
 緑が近いせいで、少し湿った空気が一護とルキアの頬を撫でる。日の差さない場所にある、ほとんど人が近寄らないはずの建物には、その実足繁く通う一人の死神がいた。
 亜麻色の髪をした死神は、黒縁の眼鏡の奥にある目を不気味に歪め、ひとり建物の中へと消えた。誰も来ない建物は、サボりには格好の場所だ。生い茂る木々の影であたりは薄暗く、見咎められても表情が隠せる。とはいえとっさに表情を取り繕うことなど何でもない男なので、じめついた空気が性に合うだけなのではないか、というのは一護の弁だ。あんがいそっちが正解かもしれぬとルキアは思う。
 建物の中にいる死神と、遠くの場所を動いている自分たち、両方の気配に注意を払いながらルキアはじっと待った。もうすぐ、出会う。
 集中していると、遙か遠くで、偽りの自分の気配が面白いほど揺れた。とはいえ、ずっと自分の気配に神経を研ぎ澄ませていなければ察知できない揺れのはずだが、それを足元で悪巧みしている死神が見逃すとは思えなかった。ルキアは自分の気配の揺れを察した瞬間、ごく僅かな力で、儚い鬼道を放った。鬼道はすぐにほどけて風の塊になり、ざわざわと木の葉を揺らした。本来の風と相俟って、注意を逸らすには十分な音がした。
 巻き起こした風が、一護とルキアの外套の裾を揺らす。少しだけ口の端を吊り上げて一護を見れば、一護も小さく頷いた。どうやら、遠くの自分は一護に回収されたらしい。急に安定した霊圧が少し気恥ずかしくて、苦笑が零れそうになる。影法師は、誰にも悟られることなく五番隊隊舎から姿を消した。立ち去る直前、ルキアは少しだけ遠くを見据えた。この場所では、遠いはずの悲しみが簡単に顔を出す。もうひとりの自分は、まさに今、悲しみそのものと対面した。ルキアは唇を噛み締めて、一護と交わした約束を強く念じた。
 
(皆で帰ろう、私達の家へ)

 その言葉は、自分たちを支える呪文となって、進むべき未来を指し示した。



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