「……気が済んだか」
「ああ。すまぬ」
「いいっつってんだろ」

 一護はルキアの額を軽く叩いた。苦笑する彼を、ルキアは信じられない思いで見つめた。そして、ルキア自身も、ぎこちなく笑った。ほう、と息を吐けば、強張っていた身体から力が抜けていく。

「あら、仲良しっスねえ」

 背後から呑気な声がかかり、一護とルキア、コンは振り向いた。空中に、黒い外套を纏った男が立っていた。狐の面は右手の中で、今は素顔を晒している。
 そっと繋いでいた手を離すと、一護とルキアは呆れたように目を細めた。そこまで驚いていない自分たちが、まるでこの男を信じていたように思えて、少しばかり屈辱的だった。

「何でアンタも来てんだよ。そっちは終わったのか?」
「何の話でしょ。キミ達を送り出して、アタシは今から向かうトコなんスけど」

 浦原の言葉に、一護とルキアは怪訝な顔をした。この浦原は、あの時間に置き去りにした浦原よりも、前の時間の浦原らしい。なんだか、分かり辛い。

「今から、行く? それで、どうしてここにいる」
「虚の気配を追っかけてきたんスけど、虚倒されちゃうし。あと、帰る方法もなさそうだし。どうやって帰るつもりだったんスか?」
「あー」
「それか」

 浦原の質問に、一護とルキアは顔を見合わせた。あの時代に帰る術は持ち合わせていない。けれど、そのうち浦原が迎えに来るものだと勝手に思っていたし、それがダメなら、他の手もないわけではない。

「最悪、あと八十年も待てば、元いた時代に帰れるだろう」
「その辺、案外朽木サンざっくりっスよね」

 ルキアのあんまりな回答に、浦原は苦笑した。

「二百年……、ここからだと百二十年くらいっスかね? そこで良ければ、一緒に行きましょ。そしたら、全部が終わった後、また元の時代に戻してあげる」
「……アンタ、何企んでんだ」
「吐け。とてつもなく胡散臭い」

 真顔で睨み据えられ、浦原はやれやれと肩をすくめた。口から出た言葉に嘘はない。ただし、多分本当のことも言ってない。それが見透かされているのをわかっていながら、浦原はフと笑った。想像通り、一護とルキアの眉が苛立たしげに跳ね上がる。

「アタシの術、何か目印がないと使えないんスよ。ここからどんどん虚を追っかけてもいいけど、回り道しちゃうじゃないスか」
「目印?」
「そ。向こうの時間の中で作られたモノ。何か持ってないっスか?」
「んなもん都合よく持ってるかよ。今持ってるモンなんて、全部アンタに貰ったやつだぞ。なんかあるか?」
「心当たりはない……いや、ちょっと待て」

 ルキアは弾かれたように顔をあげると、懐をごそごそ探った。その奥から出てきたのは、一枚の紙。中には、『無事に着いた』の文字とともに、ウサギのイラストが添えられている。はじめてあの時代に降り立った時に、報告書がわりに書いたものだ。自分が元いた時代を思い出すためのお守りでもあったから、ルキアは肌身離さずそれを持ち歩いていた。
 
「これでいいのか」
「バッチリっス」
 
 浦原はにやりと笑うと、ルキアから紙を受け取った。それを天にかざすと、ポウと浦原の手から鬼道の光が灯った。浦原は懐から握りこぶしくらいの大きさの何かを取り出すと、一護とルキアに放る。一護がキャッチした瞬間に巨大化したそれは、見慣れた二人分の黒い外套だった。二人は、無言で袖を通した。二三日前にも着ていたはずだが、感触がなんだか懐かしい。

「んじゃ朽木サン、穿界門開いてください」
「わかった」

 ルキアが空間に刀を突き刺すと、見慣れた穿界門が姿を現した。迷いなく足を踏み入れる浦原に、一護とルキアは慌てて後に続いた。
 穿界門に足を踏み入れる瞬間、どちらともなく、空座町を振り返った。閃光のように翻った霊圧は消えて、静かな夜の気配が、街を包み込んでいる。

「行こう」
「ああ」

 どちらともなく手を取り合って、新しい死神の生まれた街へと背を向けた。

「首尾よく終わったみたいっスねえ」
「何が首尾よく、だ! 大変な目に遭った」
「アンタ知ってんだろ、ふざけやがって」
「いやあ、何のことかさっぱり」

 呑気な浦原の声に、一護とルキアはそれぞれに憤慨した。浦原は相変わらず心の読めない笑顔で、先頭を走っている。
 不意に届いた声音が、妙に切実だったのを、一護とルキアは聞き逃さなかった。

「ねえ、迷った?」
「たわけ。迷ったわ。何度も決心したのに、何度でも迷った。またやり直せば、同じように迷う自信がある」
「じゃあ、この先でどうなっちゃうんでしょ。未来、変わっちゃう?」
「それは後のお楽しみだ。精々ハラハラしとけ」
「はあい」

 一護とルキアはどちらともなく視線を合わせて、お互いにくふりと笑った。コンの頭を撫でながら、ルキアは浦原には伝えなかった言葉を、胸の中で唱えた。一護も同じ気持ちでいることが、ルキアの心を温めた。
 何度迷っても、きっと、それでも、決断は変わらない。
 だから、この男はきっと無駄足だ。ざまあみろ、とルキアは思う。一護も似たようなものだろう。

「止めに来たのだろう。私達を」
「でなきゃ、こんな時間に寄り道する意味がねえ」

 はっきりとルキアが告げた言葉に、一護が続いた。浦原はなにも答えなかった。その無言の意味するところは、多分肯定だ。
 不器用な男だ、とどちらともなく呆れた息を吐いた。自分たちを酷い目に遭わせたという負い目ばかりがあるから、浦原の計算は、こと自分たちに関していつも微妙に狂う。この男をひとつも恨んでいないという事実を、彼はあまり信じていない。

「……やだなあ、そんなこと考えてませんってば」

 浦原がいつも通りの調子で押し出した声は、少しだけ掠れていた。いい気味だ。一護とルキアとコンはほくそ笑む。

「じゃあ、何でさっさとあの時間に行かねえんだよ」
「それは、黒崎サンと朽木サンを送ったのに使ったのが、コレだから」
「……何故貴様がそれを持っている!?」

 浦原が懐から取り出したのは、一枚の紙だった。長い年月を経たように端の方は崩れ、元は白だったようだが、セピアに色づいている。だが、そこに書かれた内容には、嫌というほど見覚えがあった。
 『無事に着いた』の言葉とともに、色褪せたウサギのイラスト。先程渡したのと全く同じ紙が、浦原の手元で揺れている。
 
「説明しろ!」
「ここで黒崎サンと朽木サンに会わなかったら、その紙はあの時代に行かないんスよ。だから、そもそも黒崎サンと朽木サンをあの時間に送れなかった。わかる?」
「わからぬ!」
「ややこしい!」

 いい加減な説明は、一言で切り捨てられた。浦原は苦笑すると、それ以上の説明をやめた。出口が近い。光を纏った霊圧が、強引に道を切り開いて別の空間へと放り出される。放り出された先は真っ暗な闇の中で、一護とルキアは目を凝らした。地面を踏みしめている感触は無い。どうやら、落下している。
 
「よいしょ、っと」
「テメー自分で穿界門開けるじゃねえか!」
「この時間だと、まだアタシは追放されて無いっスから」
「ああ、だからさっきは私に開かせたのか」

 呑気な声とともに、浦原が真下に穿界門をひらいた。落下しながら強制的に門をくぐり、再び断崖に着地する。現世からソウル・ソサエティへの移動に、案内役の霊圧は必要ない。旅禍として追われぬための一手間は、はじめて来た時と同じだ。
 断崖を駆け抜け、その果てにある空間へと飛び出す。目の前に広がっているのはやはり闇で、足元には何の感覚もない。これで二度目どころか、一護にしてみれば割と何度か同じような目に遭っている。

「何でアンタの作るモンは大体高いところから落ちるんだよ! 普通の穿界門だろ!」
「え、楽しくないっスか?」
「楽しくないわ!」
「はい、お静かに」

 人差し指を唇に当てて浦原が微笑む。一護とルキアは不服そうに眉間に皺を寄せたが、無言で着地した。遠くに、人影が見える。それが誰なのかわかって、一護とルキアは目を細め、コンは神妙に黙りこくった。
 歩いてゆく、男と女。女の肩には黄色いぬいぐるみが乗っていたが、やがて荷物の中に押し込まれた。これから彼らを待ち受けている出来事のひとつひとつに思いを巡らせてれば、胸のうちに苦い感情がせり上がった。重苦しい沈黙が続き、最初に口をひらいたのはルキアだった。

「これから、どうするつもりだ」
「あんまり潜入に向いてるとも思えませんしね。ま、手助けを」
「手伝わせるつもりでつれてきたのかよ……」

 今更ながらに浦原の意図が読めたような気がして、一護とルキアはげっそりと息を吐いた。けれど浦原は意外なことに、まさか、と呟いて肩を竦めた。

「ご自由にどうぞ。アタシも自由にしますしね」
「は?」
「え?」
「嘘だろ?」

 全く同じ仕草で首を傾げる一護とルキアとコンに吹き出すと、浦原はそのままどこかへと消えようとした。その黒い外套の裾を、ルキアが慌てて掴んだ。いつも勝手に浦原の計画に組み込まれ、有無をいわさず働かされているのに慣れすぎて、こんな風に放置されるのははじめての経験だ。

「何を企んでいる。吐け」
「どんだけ信用ないんスかアタシ……」
「前科がどれだけあると思っておる」

 睨んで凄んでも、浦原は芝居じみた仕草で顔を覆い、よよと泣き崩れるだけだった。ルキアはひとつ舌打ちすると、浦原を開放した。一護は浦原の行動に何かを察したのか、諦めの境地へ辿り着いたのか、ぬるい目でそのやり取りを見ている。

「なんつーか、臆病だよな、アンタ」
「……はあ? まさか、そういうことか」

 一護に声をかけられ、事の次第を察したルキアは、思わず浦原を視線で追った。逃げるように浦原は背を向けて瞬歩で消えてしまったが、一護とルキアとコンは、一瞬だけ、照れる浦原喜助という世にも珍しいものをたしかに見た。

「高みの見物しとけ。ハラハラしながらな」
「目を見開いて、しっかりと見届けろ」

 何もない空間に、高らかに宣言する。その声はきっと届いたに違いない。一護とルキアとコンは、目を見合わせて笑った。きっと柄にもなく恥ずかしい思いをしているに違いない男には、いい気味だ。ダメ押しのように、コンが呟く。

「ガキか」
 
 どんなことがあっても、納得できなければ大人しく従うような自分たちではないことを、あの男は誰よりも知っているはずだ。それなのに、『手伝ってほしい』とは告げず、自発的な協力を待つのは、珍しくあからさまに晒された、あの男の弱さだった。願い事を口には出さず、ただ大人の目を見つめてじっと待っている子どもに似ている。コンの言葉は的確だったが、子ども姿の浦原喜助を想像するのは心臓に悪かった。恐ろしいものを想像しかけた思考を意識的に追いやって、一護はルキアとコンに向き直った。

「さて。一応、自由にしろって言われたから聞いてみるけど、どうする」
「決まっている。私たちは、零番隊だ。あの時代を守るのが私達の使命だ。何度も言わせるな」
「異議なーし!」

 コンが両手を振って騒ぎ立てれば、一護はどこか小馬鹿にしたようにルキアに視線をやった。けれどその眼差しはやさしい。負けるものかと、ルキアも不敵に口の端を吊り上げた。

「さっきも思いっきり悩んでた奴が、エラソーに」
「たわけ。平然としていられるか。でも、何度でも同じ道を選ぶ。貴様が全てを犠牲にして、斬り拓いた道だ」

 ひとりのやさしい少年が、傷つきながら創り出した未来に、もう一度帰りたかった。あの世界を、ルキアはこよなく愛していた。すまぬ、とルキアは胸中で謝る。あの世界で犠牲になった人たちに、何よりも彼に。それでも、結論は少しも揺らぐことはなく、ルキアの行く道を力強く示した。
 彼に話したいことは幾つもある。けれどそれは、元の世界に戻ってからでいい。

「今度こそ、だ。帰ろう。皆で」

 ルキアは拳を握ると、ぐっと前に突き出した。ルキアよりもふたまわりは大きい握りこぶしが、ルキアの手に力強くぶつけられ、やわらかなフェルトの拳がそれに続いた。


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