虚の背中を見失わぬようにしながら断崖をくぐり抜け、たどり着いた先はよく知っている場所だった。
 あの日の風が、一護とルキアの頬を撫でる。ルキアの身体は小刻みに震え始めた。

 ああ、かえってきてしまった。

 感傷にしては重すぎる感情が、一護とルキアの胸を焼く。この日から、全てがはじまった。けれど、この日のために走り続けた物語があることを、もう知ってしまった。
 断崖を抜けた瞬間、一護とルキアは、一瞬だけ虚のことを忘れて、その場に立ち尽くした。これはあの日だと、本能的に悟った。変わらぬ一日になるはずだった、平日の夜。昼は少し蒸し暑く、夜は肌寒い、季節の変わり目。どこかで車が走る音と、犬が吠える音。舞い上がる風に混じる、アスファルトと緑の匂い。まとわりつく空気。なにも、なにも忘れてなどいなかった。
 魂が震える。この場所で出会った。

「一護……!」

 どこか遠くへ飛んでいた一護とルキアの意識は、虚の叫び声で戻った。一護の背中から降りたルキアが、ひらりと一護の横に着地する。
 視線の先では、一足先に現世へと辿り着いた大虚が、鬼道の罠に絡め取られてもがいている。ちらりとルキアを確認すれば、してやったりの顔で頷いた。副隊長殿特製の、渾身の結界が、予想通りの獲物を絡め取っている。
 暴れる虚の近くに降り立って、一護とルキアはそれぞれに虚に語りかけた。言葉など通用しないとわかっていても、愚痴をこぼさずにはいられなかった。

「……ったく。テメエのせいで、散々だ」
「そういうことだ。少しは行いを正せ。他には、欠片はいないのだろうな?」

 虚が鬼道の隙間を探り当て、一護とルキアにひゅうと音を立てて爪先を伸ばした。けれど爪先は、ばきんと無様な音を立てて、一護の手前で無色の壁に阻まれる。
 最後の一矢のように放たれた触手を防いだのは、ルキアの鬼道だった。微動だにしなかった一護に、ルキアは目を細めた。まったく、自分が防がなかったらどうするつもりだ。勿論そんなことはあり得なくて、無言の信頼が肌に心地よかった。
 ホラ行け、の気持ちを込めて、ぽんと背中を押せば、そのまま一護は無言で刀を振り上げた。一護の背中に、ルキアはかつての出来事を見ていた。忘れられぬ雨の日、あの人のかたちをして現れた虚。思いがけず辿り着いた過去。
 あの背中を追って、ここまで来た。そう自覚した瞬間、ルキアの思考は止まった。

「月牙、天衝!」

 ルキアの鬼道に拘束された虚は、一護の霊圧で綺麗に分断される。季節はずれの雪のように、はらはらと消えて行く虚の欠片を、一護とルキアは見守った。
 終わった、という感慨はわかなかった。舞い散る虚の欠片を見ながら、ルキアはわずかに目を細めた。したことは、それだけだった。かつて恩人の形をして現れた虚との、数百年の時を駆け抜けた戦いが終わろうとしている今でも、ルキアの思考は停止していた。
 ふつり、とルキアの結界が消える。ルキアは、不安気に空を見上げた。音はなかった。風の音すら、しなかった。いずれ迫る嵐を誰よりも知っていたから、静寂はルキアの心をざわめかせた。
 今まで空座町をひそかに守っていた術は掻き消えて、無防備になった重霊地に、ひらりと一体の虚が横切る。その姿を捉えた瞬間、ルキアが硬直した。

「いち、ご」

 あの虚の行く先を知っている。あの虚が狙う相手と、それを倒すために派遣された死神が、誰なのか知っている。あの虚をここで倒せば、運命は変わる。
 はじまってしまう、もうすぐ全てが。
 それがわかっていて、ルキアは唇を噛み締めた。
 細かく震える手が、一護の死覇装の袖をぎゅうと掴んだ。
 一護は、朝方目にした、ルキアの姿を思い出していた。夜一の家で、小さく呟かれた謝罪の意味を、一護は考えなければならなかった。
 もうすぐ、あの瞬間がやってくる。一護もルキアも、忘れるはずがなかった。世界がめまぐるしく変容し、なにもかも変わってしまう瞬間を、始まりだと思っていた。
 ルキアは、自身のもうひとつの罪を目の当たりにする覚悟を決めていた。決めていた、はずだった。
 頭の中で、やさしい母親の記憶と、彼の戦いの歴史がせめぎ合う。会いたいと言って泣いた、巻き込んでしまったと言って泣いた、そのどちらも本当のことだった。彼の笑顔が見たいと願った、共に歩きたいと願った、どちらも、切実な祈りだった。
 覚悟を決めたはずだった。けれど、やはり平静ではいられない。この期に及んで軋む心を、ルキアは嗤った。往生際が悪い。これは未練だ。彼が、手に入れられなかった日常への。
 終わってしまう、もうすぐ全てが。
 ルキアの口が、震えながらちいさくすまぬと動いた。それでも、ルキアは動くことができなかった。ルキアの足を押し留めていたのは、あの時、生まれたばかりの赤子に貰った、なけなしの勇気だった。
 戦わないでほしい、傷つかないでほしい、笑ってほしい。それでも、会いたい。
 感情が吹き出して、崩れおちそうになった瞬間、ルキアの視界は突然黒く染まった。驚いて瞬きをしても、目の前は黒いままだった。そして、なんだか息苦しい。一護の胸に、頭を押し付けられている。そうわかったとき、ルキアの顔はくしゃりと歪んで、細い腕が一護の腰に巻きついた。

「バカが。何また同じ事で悩んでんだよ。一人で勝手に決めんな。俺も選んだっつっただろうが。俺達が守るのは、あの世界なんだよ」
「たわけ。莫迦は貴様だ。この、莫迦者が」

 一護の体温を感じながら、ルキアは動かない身体を罵った。彼の優しさが、ルキアの体温に驚くほど馴染んだ。
 呆れたように頭を軽く叩かれ、ルキアは泣きながら笑った。この世界の厄介事を一身にひきうける羽目になった死神は、きっと眉間に皺を寄せながら、不器用に笑っている。
 笑うのか、それでも。
 心の中から押し出された声は、音にならずに喉の奥にこごった。
 彼は、この世界でいちばん不幸な生贄にちがいなかった。
 ただの人間の子供に、どれだけの存在が、勝手に夢や希望を託したのだろう。信頼という鎖で縛り付けたのだろう。
 ただの、人間の子供だ。
 それなのに、何度も救われた。
 彼のやさしさが、変わらぬ心が、世界中を変えていくのをルキアは見ていた。その世界を、守るのだと二人で誓った。そばにいて、今度は自分が彼を救うのだと誓った。
思い出せ、とルキアは自分に言い聞かせた。思い出せ。今まであったこと全てを。絶対に離れないと、心が決めた。

「一護、コン、もう大丈夫だ」
「嘘くせー。まだ震えてるぞ」

 ルキアの肩にしがみついていたコンに微笑みかけると、ルキアは一護から身体を離した。少し気恥ずかしい。一護を見てどこか照れたように笑う。

「だけど、手を繋いでいてくれ」
「見るのか」
「ああ。私の罪だ。見届けよう」
「ネエさん……」
「貴様もだ、コン」

 コンは頷くと、ルキアの左手にしがみついてぶら下がった。一護は、ルキアの右手を握りしめた。
 ルキアは、かつての自分が作った、崩れ果てた結界を眺めた。この街の誰にも気づかれないまま、虚が退治できるように組んだ特製の結界だ。虚を倒して大部分が崩れ去ってしまったが、霊圧をひそめた死神二人と改造魂魄の気配を隠すことくらいはできる。

 ひらり、と視界の端に漆黒の蝶が横切る。それを追うようにして現れた黒髪の死神の背中を見送って、ルキアは目を伏せた。
 祭壇に生贄を捧げる準備は、整いつつある。一護とコンと繋がっている手に、ぎゅうと力を込めた。視線を上向ければ、先程まで無かったはずの雲が、月をそっと覆い隠そうとしていた。薄い雲越しに、月がぼんやりとまるく光っている。きれいな夜だ、とルキアは思った。
 停止した思考は、ブロック塀の砕ける音で現実に戻った。はっと息を呑んで下を見れば、彼の家に大穴が開き、虚が彼の家族を傷つけようとしていた。ぴくり、と動いたのは一護の方だった。ルキアは唇を噛んで、一護の手を握りしめた。大丈夫だ、と伝えたかった。
 オレンジ色の頭をした少年が、虚の前に現れる。黒髪の死神が、彼を虚から庇う。だらりと血が流れて、死神はブロック塀にもたれかかる。
 すう、と死神が、少年に刀を向けた。ルキアは堪えきれず、目を閉じた。この瞬間に至るまでに紡ぎだされた物語が、次々と頭の中で再生される。優しい人がいた。その人をこの手で刺し殺した。全ての元凶を殺そうと誓った。けれど、できなかった。
 頭の中で、まぼろしの母親が笑う。遠い過去で、月明かりの下で誓った。そばにいる未来を選ぶのだと。

(この子も、きっと幸せよ)

 彼女はきっと最後まで、それを疑っていなかった。彼女の笑顔をはっきりと思い浮かべて、ルキアは目を開いた。
 次の瞬間、閃光のような霊圧が迸った。
 霊圧は薄い雲を払い落として、遮るもののない月の光が鮮やかにその姿を照らし出す。
 手を繋いでいて良かった、とルキアは思った。そうでなければ、きっと立っていられなかった。
 生まれたばかりの死神が、刀を振り下ろす。その剣圧は空まで届いて、ルキアの髪をはためかせた。

 はじまってしまった。
 おわってしまった。

 急に身体の力が抜けて、ルキアは目を伏せた。握っていた手に力が込められて、ルキアは一護を見上げた。


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