鮮やかな匂いが鼻につく。不意に部屋に流れ込んだ花の匂いに、一護はうっすらと目を開けた。部屋の中は明るく、朝の気配に満たされている。一度瞬きをしてから目を開けると、目の前にはルキアはいなかった。けれど、気配は近い。
一護は上体を起こすと、目をこすりながらあたりを確認した。目的の人物はすぐに見つかった。部屋の障子は開け放たれ、大きな池がある庭が見渡せる縁側で、死覇装姿のルキアは、立ち尽くしたまま空を見上げていた。池のほとりに咲きこぼれる花菖蒲も、白い山芍薬の群生も、ルキアの目には入っていない。
「何してんだ」
「何に見える」
ルキアが答えを求めていないのは明らかで、一護は無言で肩を竦めた。寝起きで乱れた浴衣の間を、花の香りが撫でていくのがくすぐったい。現実逃避、と正直に答えたら、朝食抜きでは済まされないようだ。自分と同じタイミングで起きたらしいコンも、不安げにルキアを見ていたが、何も言えずに布団に潜った。
「すまぬ」
花の匂いのする風に乗って、小さくルキアの声が聞こえた。何に対しての謝罪なのかはわからない。一護は眉をひそめたが、それでも声は出なかった。頭に、今までの出来事が横切る。
昨日一日かけて尸魂界中をめぐり、状況を整えた。打ち捨てられた家屋と風雨に晒された岩しかない、流魂街の一角を戦いの場所に定めて、結界を張る呪具を幾つも埋めた。
今日、全てが終わるはずだ。未来に置いてきた日常に、ようやく戻る日がやってくる。
「朝食はできている。さっさと着替えろ」
ルキアは振り向いて少し笑うと、そのまま立ち去った。一護はしばらくその後ろ姿を見送ったが、頭を掻くと、もそもそと着替えを開始した。
視界の端に、もう見ることはない時代の青空がちらつく。そよ風に吹かれて、庭の中で一際目立つ、大きな楓が葉を揺らした。鮮やかな緑の葉は、秋になれば、さぞかし美しく色づくのだろう。けれど、それを眺めることはできない。
これが、最後の日になる。鮮やかな新緑と花の匂いが、一護の眠気を拭い去った。
「準備はできていますか」
「無論じゃ」
「勿論」
細かな砂を含んで、どこか埃っぽい風が巻き上がる。一護とルキアにコン、そして、この時代の協力者たちは、流魂街の外れに集合した。その集団から少し離れるようにして、大人の男の背丈ほどもある岩の上に、狐の面の男が佇んでいる。男のことはまるで視界に入っていないように、一護は作戦を説明した。作戦とは言っても、虚を呼ぶから本命以外は任せた、という適当極まりない指示がひとつ飛んだだけだった。
「白哉は、コンから離れるな。ジイさんは、隊舎で待機。んで、アンタは適当にやっとけ」
最後にどこかげっそりしたように一護が告げれば、高い位置で集団を見下ろしていた仮面の男は肩を竦めた。その正体を知る浦原がそっと目を細めたが、誰も気づく者はいなかった。
ルキアが懐から小さな丸薬を取り出した。それをそっと一護の手の中に転がす。先日コンが使ったものよりもずっと強力なそれを、一護が神妙な面持ちで目前にかざすと、集合した死神たちは、それぞれに戦闘態勢をとった。びゅうびゅうと鳴る風の音以外に、音が途絶えてしまったように空気は張り詰め、ちりちりと、それぞれの殺気が肌を灼く。総隊長だけが、くるりと踵を返した。
「儂は戻る」
「ああ。色々、ありがとな」
一護の言葉に、ぴくりと片眉を跳ね上げて、総隊長は一瞬でその場所から消えた。一護は誰もいなくなった空間をしばらく見つめ、さすがの瞬歩だと感心して、我に返った。ガラにも無く、少し緊張している。すると、とん、と背中に軽い衝撃があった。確かめるまでもなく、それはルキアの体重だった。一護と背中合わせになって、ルキアは斬魄刀を構えているに違いなかった。背中で主張する存在に、口の端が吊り上がる。身体中に、得体の知れぬ興奮が駆け巡った。勇気よりもずっと凶暴な感情は、確信に近かった。
おそろしいものなど、何もない。
「じゃあ、遅れんなよ」
その言葉と同時に、一護は手の中の丸薬を握りつぶした。丸薬は砕け散り、一瞬ののちに、吹き荒れる風に混じって不穏な気配が立ち昇った。晴れていたはずの空に、急速に雲が集まって青空を覆い隠してゆく。
ソウル・ソサエティに異常を告げる鐘は鳴らない。全てがこの場所で完結するように、持っていた全ての呪具をつぎ込んで、半径三百間を空間凍結するとともに、揺れる霊圧を外に漏らさぬ結界が張り巡らせてある。
「来たぞ!」
夜一が叫ぶのと同時に、空間にひび割れが走った。ひび割れの中からぬるりと身体を滑り込ませようとする虚の白い仮面を、夜一の拳が粉砕する。仮面の右半分に強烈な一撃を喰らった虚は、その姿を完全に晒すこと無く、霧散して風に溶けた。別のひび割れの前では、浦原と海燕が、それぞれに虚に攻撃を繰り出していた。
一護とルキアもまた、目の前に出現したひびの中から現れる虚に刃を繰り出していた。空間につくられるひびの数は増え続け、数分後には、完全にひびのなかから抜けだすことに成功した虚たちが、それぞれに牙を剥きはじめる。戦いの余波で、岩は抉られ、打ち捨てられた民家は、半分ほどが砕かれた。
「瞬閧!」
「月牙、天衝!」
「啼け、紅姫!」
「次の舞、白漣!」
「水天逆巻け、捩花!」
複数の虚を相手取り、次々と虚が殲滅されていく様を、白哉はなかば放心しながら見つめていた。ここにいる死神は、全員が十分に隊長格の力量を持っている。死神たちは目にもとまらぬ速度で弾丸のように動きまわり、そこかしこで爆発を起こし、その度に虚が消えた。唯一得体の知れぬ黒衣の男も、素手のみで次々と虚の仮面を叩き割っていた。
自分だけが、足手まといだ。
心を覆う惨めさに、白哉はひっそりと唇を噛み締めた。強くなりたいとこんなにも願ったのは、はじめてだ。
「……わっ……!」
考え事に気を取られていたら、虚への反応が遅れた。襲いかかる虚の爪に、思わず両目を閉じると、懐から何かが飛び出す気配があった。
「させるかぁ!」
バチン、という大きな音と共に、虚の爪が弾かれて、白哉は目を丸くした。懐から飛び出したのは『真の零番隊隊長』を名乗るぬいぐるみで、腰を抜かしてへたりこんだ白哉の前に、空中で華麗に一回転して軽やかに着地する。
「今のは……」
「スゲーだろ! ネェさんが、昨日身体にお守りを縫い込んでくれたんだよ! うらやましいだろ!」
「ありがとうございます。ということは、あなたを抱えていれば、攻撃は当たらないと思って良いのでしょうか」
「ん? そうなるな。ってオイ! なんだよいきなり!?」
コンの言う『お守り』の効能を確認した白哉は、コンを左手で鷲掴むと、立ち上がって走りだした。途中、虚の牙に襲われそうになるのを、左手に持ったコンをかざすことで凌ぐ。ギャー、とコンが涙目で悲鳴をあげた。
「ちょ、お前、無茶すんな! 当たらなくてもコエーだろ!」
コンの泣き言は無視して、白哉はルキアのところへ走り寄った。ルキアは、大きな虚を二体一緒に相手にしているところだった。舞うように戦うルキアの背後に、僅かな霊圧の歪みを感じて、白哉は目を細めた。僅かな歪みはあっという間に大きなひび割れへと変貌し、中から虚の白い仮面が覗く。その爪先は、目の前にいるルキアを狙っている。
「破道の四! 白雷!」
白哉が叫ぶと、破道が虚の右目をきつく灼いた。既に目の前の虚二体を片付けたルキアは、背後からの思わぬ援護に目を丸くする。一瞬で状況を把握したルキアは、僅かに口の端を吊り上げた。刀を構えたまま後方宙返りするような格好で、刃を背後の虚に突き立てると、次の瞬間にルキアは白哉の真横に着地していた。片膝をつく格好で、立ちすくむ白哉を見上げる。
「ありがとうございます。助かりました」
白哉と目を合わせ、にっこりと笑う。こんな時ですら、彼女の纏う石鹸のような花のような香りが漂った気がして、白哉は思わず顔に血が昇りそうになったが、口を真一文字に引き結んで耐えた。
本当は、自分の助けが無くても、彼女が自力でなんとかできたことはわかっている。それでも、少しでも補助をするのが、唯一自分にできることだった。
左手のコンをぎゅうと握り締めると、少しでも虚にダメージを与えようと、走りだす。その背中を微笑ましく見送って、ルキアもまた新たな虚と対峙した。狙いの虚は、まだ現れない。
ごり、と空から形容しがたい音がした。一護とルキアが思わず上を見ると、かつて何度も対峙した触手が、分厚い雲で覆われた空の割れ目からぬるりと顔を覗かせた。ようやく現れた姿に、一護とルキアの眉間に、深く皺が刻まれる。
「真打、登場か」
「一護! しばらく手を出すな!」
「おい、来たぞ!」
反射的に飛び出しかけた一護を、ルキアが制した。虚は姿を現すと、真下に落下するような形で、海燕に向かって突進をはじめた。思わず海燕が応戦しかけたが、伸びた触手をルキアが弾いた。思わぬ邪魔が入り、虚は空中で一瞬静止した後、もう一度空へと浮かび上がった。
これ以上逃げられてはたまらない。ルキアは片目を細めると、単身虚の元へと突っ込んだ。
「何をしている! 貴方でないと倒せないのだろう!」
「手を出すなって言われたからな」
せっかく目当ての虚が現れたというのに、動く様子が全くない。焦れた白哉は、零番隊隊長のもとへ駆け寄った。途中、幾つもの妨害にあったが、コンをかざして防ぐ。ぬいぐるみはもう悲鳴をあげる気力すらなくなったようで、白哉には好都合だった。
眉間に皺を寄せながら、一護は目の前の虚を屠っている。どこか苛立ちをぶつけるような太刀筋に、白哉は片目を細めると、まじまじと零番隊隊長を見上げた。隊長格に言うべきではない、あまりに正直すぎる感想が、気付けば口から溢れていた。きっと、呆れているのもありありと伝わってしまったにちがいない。
「……貴方は不器用だな」
「うるせぇよ」
目の前の虚を、横薙ぎの一振りで消し去った一護は、真上を睨んだ。そこでは、目指す虚へと副隊長が肉薄していた。
もう何度も対峙した触手が、ルキアに襲いかかる。心臓を狙った触手を、ルキアは身体を少しだけ右にずらして避けた。そして、次の瞬間、ルキアは避けたはずの触手を、右手で正面から鷲掴んだ。掌が触手に貫かれ、血が滴り落ちる。けれども、ルキアは手の力を緩めなかった。虚の触手が、不気味な発光をはじめる。ルキアの目は煌々と輝いて虚を見据え、口の端が歪んだ笑みを形作った。
「ルキア!」
予想外のルキアの行動と、流れる血に、一護は叫んだ。真上で流れた血が一滴、ぽとりと落ちて一護の頬を汚した。その間も、ルキアは一心に虚を睨み据えていた。ルキアの手を貫いている、触手の先端から始まった青い発光は、根本に向かって広がり続けている。発光が触手の全体に及んだ瞬間、虚の様子が変わった。ぶるぶると痙攣するように震える虚に、ルキアは大きく息を吸い込み、口を開いた。笑顔はいびつに歪んだまま、ルキアの顔に貼りついている。
「私の記憶が見えたか? 私が、貴様を殺しているのが見えたか? 私は貴様の名を知っている。……久しぶりだな、アーロニーロ!」
ルキアの声は、巻き上がる風に邪魔されることなく、はっきりと一護の耳に届いた。もう死んでしまったはずの十刃の名に、一護が目を見開く。
虚はどこか慌てたように、ルキアから触手を引き抜いた。手を貫いていた異物が消え、ルキアの手から血が吹き出す。それを鬼道でぞんざいに止血して、ルキアは虚の後を追った。
「行くぞ、一護!」
ルキアの言葉に弾かれるようにして、一護がルキアの横に着地した。その背中に当然のように飛び乗ると、ルキアは左手を斜め後ろに目一杯伸ばした。
「コン、来い!」
「ネェサーン!」
白哉に掴まれていたコンは、身体をよじって自由の身になると、地面を蹴って思い切り飛んだ。勢い良く飛びついたコンを、ルキアの左手がキャッチして、コンはそのままルキアの肩によじ登った。
「おい! あとは任せた!」
一護は、白い面に黒衣を纏った男に一声叫ぶと、そのままルキアの指示通り、虚を追った。
「おい、あいつの名前! どうして気づいたんだよ」
「ただの虚にしては、能力が多すぎる。記憶を読んで、気配を消して、分裂して、そんな虚が、藍染とてそう多く作れるとは思えぬ。そして、分裂してから、何故か執拗に海燕殿を狙い続けていた。最後に、かつて虚圏で奴と戦った経験からくる勘だな。おそらく、アーロニーロの一部が暴走しているのだろう」
「最後は勘かよ!」
「当たったのだから、文句を言うな! 最後の方では確信していた!」
ルキアの説明に、一護はかつて退治した、大量のヒルをまき散らす虚を思い出した。あの虚が連れていた、ヒルを吐き出す小さな虚と同じだと思えば、十刃のスケールに舌打ちしそうになる。本体の一部ですら、この大きさだ。普通の大虚よりも何倍も大きい。
「で、お前、何したんだよ!」
「私の記憶を見せただけだ! あの虚は、貴様の記憶を見て、貴様しか自分を倒せぬことを知り、貴様を狙っていた。貴様が無防備になる時間に移動して、な」
一護は目の当たりにした過去を思い出していた。忘れられない雨の日。そしてルキアが飛んだのは、おそらく自分が生まれた時。どちらも、母親の庇護を無くした瞬間だった。
「そして今、奴は私の記憶を見た。遠い未来で、自分の本体が、私に倒されることを知った。ならば、私と貴様とを同時に倒せる場所に、移動しようとするはずだ!」
「じゃあ、あいつ、どこに行くんだ!」
上空に打ち上がった虚は、空間に割れ目を作り、どこかの時間へと移動しようとしていた。ルキアの説明に、脳が高速で回転をはじめる。そして、今から向かう時間に思い至り、一護は目を見開いた。
「たわけ! 貴様と私が、同時に、同じ場所で無防備になった瞬間が、一度だけあっただろう!」
頭の中を、かつての記憶が横切る。その光景は、一護の頭の中で、未だ鮮明に焼き付いている。忘れられるはずのない記憶の場所に、今、向かおうとしている。凍りつきかけた身体に、走れ、と逆らうことのできない指示が飛ぶ。
「私達が出会い、死神の力を譲渡した瞬間だ!」
予想通りの答えを、ルキアが叫ぶ。その瞬間、一護の死覇装を握りしめた指先が震えた気がした。唇を噛み締めて、一護は一歩前へと飛び出した。
その刹那、一護の頭の中に、かつてと同じ疑問が横切る。以前、ふわりと浮かんで消えたはずの小さな問いが、はっきりとした形を持って、一護の背中に押しかかった。
忘れられるはずがない、あの日の光景。死神。胸を貫いた斬魄刀。初めて握りしめた、守るための力。
彼女と出会ったのは、はじまりだったのか、おわりだったのか。