浦原は四楓院家から出ると、自分の居室には戻らなかった。一緒に飲まないかと誘ってくる夜一を無視して向かったのは、切り立った崖の中腹。誰の目にも留まらぬような場所に、誰の目にも留まらぬような足場と、岩壁に擬態した扉が取り付けてある。ソウル・ソサエティのそこかしこに点在する、隠し部屋のひとつだ。
本当は全員泊まらせる予定だった夜一は拗ねてしまったかもしれないが、明日の朝食に機嫌を良くしていたので大丈夫だろうと頭の隅で考える。お気に入りのおもちゃである朽木の御曹司も一緒ならば、尚更だ。きっと今頃、御曹司は牛乳でもてなされていることだろう。酒があまりつよくない彼女は、酒の席に牛乳を持ち込む癖がある。
どうでもいいことを考えながらそっと扉を開くと、予想外の事態に浦原は固まった。浦原以外誰も知らないこの場所に、先客がいた。思わず、息が止まった。
殺気を飛ばしても、動じる様子はない。見つかったことすら気にしてはいないようだった。浦原のこの部屋での定位置、椅子の上に、まるで浦原そのもののように寛いだ格好で座りながら、漆黒の外套に狐の面をつけた男がいた。男、ではないのかもしれない。浦原は、目の前にいる誰かの声を聞いたことがなかった。死神かどうかすらも、怪しいところだった。
「……何してんスか。ここは、アタシ以外立ち入り禁止っスよ」
目を細めて声をかければ、狐の面が振り向いた。表情もなにもあったものではないが、何故かひどく面白がっていることが、浦原にはわかった。そして、狐の面は予想外の行動に出た。狐の面に手を置いて、素顔を晒そうとしている。こぼれ落ちた金髪に、浦原は息が止まった。あり得ぬものを見ている。その思考は、一秒で打ち消された。そうか、不可能ではない。
「じゃあ、アタシは入っていいってことっスね」
今の自分よりもいくらか老けた、それでも間違いなく自分と同じ顔をした男が、自分と同じ声を出した。その間、浦原の頭脳は必死に解答を模索していた。
この男は誰だ。……自分? 仮説の背中を押すように、目の前の男は黒い外套を脱ぎ捨てた。途端に背筋が凍りつく。間違うはずもない自分自身の霊圧が、目の前に存在していた。
「……断崖?」
「二百年もしたら、わかるんじゃないっスかね」
時間を超えるためのキーワードを、目の前の自分が笑う。朽木ルキアを拘束した時、自分が預かって隠しておいた外套を、何故盗み出すことができたのか。知ってしまえば、答えはシンプルなものだった。彼らの仲間に、自分自身がいた。
目の前の浦原喜助はにやにやと笑っている。なんて嫌な奴なんだろう、と思って、それが自分自身であることに絶望した。目の前の男は、あまりに性質が悪すぎる。絶対に仲良くなどなれそうにない。
なんとなく情けない結論は見ないふりをして、浦原は考えなければならないことに思考を巡らせた。零番隊の二人と共にこの男はやってきた。それならば、あの二人は。思考を正確に読んで、目の前の男は一層笑みを深めた。
「ま、そういうことっス」
「成程。で、何の為に来たんです? まさか、驚かせるためなワケは無いでしょう」
「驚かしに来たって言ったら?」
「未来のボクは相当腑抜けたんだなと思うだけっス」
自分自身の思考回路は、自分がよく知っている。何の目的も無しに、ここで自分を待ち構え、正体を明かすことなどするはずがなかった。それは自分への信頼に近い。
案の定、目の前の男は肩をすくめた。机の上に置かれた端末を起動させ、鮮やかにロックを解除する。モニターには、ひそかに記録しておいた、零番隊隊長の霊圧の数値データと、彼が虚を屠った時の映像が映し出された。
「さっすが浦原喜助。仕事が早い」
男はおどけたように笑う。相手の意図が読めずに、浦原は目を細めた。無言の警戒を察して、男はより笑みを深める。効かないと悟りつつ飛ばし続けている殺気は、相変わらず何の効き目もなかった。
「気付いたでしょう? あの子の霊圧」
「……虚」
「そう。だから、彼は強い。誰よりも、何よりも」
ほとんど隠れているが、たしかに彼の霊圧からは、虚の匂いがした。勝手に霊圧の分析をして、予想は確信に変わった。虚の力を併せ持つ死神の存在は、信じがたい。けれど、彼は奇跡のように存在した。それを知った時、浦原の胸は興奮に満ちた。目の前の男が、笑みを深めながらゆっくりと口を開く。
「……アタシが創った」
目の前の男の声に、興奮は陶酔へと変わった。ざわりと全身が総毛立つ。死神と虚、窮屈な境界を取り払う力。そんなものを、己は創り上げたという。それは、素晴らしいことだ。
「激励に来たんスよ。虚と死神の垣根を壊すモノは、作れる。だから、さっさと開発してください」
そう言うと、男はカタカタと手元の端末を操作して、幾つかの数字を打ち込んだ。忙しなく機械は動き、数字が敷き詰められた背景が、点滅を繰り返す。
「あと、ついでに卍解も覚えてください。どうせ、3日くらいで覚えられる」
「そりゃどうも。何のデータを入れたのか知らないですけど、ご協力感謝しますよ」
にやりと笑えば、男も同じように笑った。全く悪趣味な図だと、頭の端で考える。笑いあう自分たちは、夜一が見れば、げっそりした息を吐くかもしれない。
「これで用事は終わりっスか? どうせなら、アナタが盗んだ外套の作り方も教えて欲しかったっスね」
「ああ、あれはアタシじゃない」
「え?」
「ま、今後のお楽しみってことで」
零番隊の二人も、外套を盗んだのは目の前の男だと信じているようだった。それが本人によってあっさりと覆されて、浦原は眉間に皺を寄せた。
目の前の男は、随分と楽しそうにくふりと笑う。その笑顔は思いがけず優しくて、我ながら、少し面食らった。とても正直に言うならば、気味が悪いとさえ思った。そんな浦原の感情を察して、男が笑う。現実離れした光景に、目眩がした。
「結構、変わるモンんスよ。特に、向こう見ずなお子様たちと一緒にいるとね」
「子供っスか。さっきから、随分彼と親しげっスね」
「まあね。あの子は、最初で最後の弟子だ。置いていかれないように、努力することっスね」
そこまで言うと、男は外套を纏い直した。相変わらず一歩も動けないままでいる自分に、少し困ったような顔をして笑う。その表情もまた、浦原の知らないものだった。未来の自分は、随分と表情豊かになっている。
「アタシの顔よりも、あの二人を目に焼き付けたほうがいい。あの二人は、目に見える希望だ」
「……随分、ロマンチックになるもんスね。気持ち悪い」
遂に正直な言葉を口に出し、浦原は僅かに眉を潜めた。目の前の男は、狐の面をつけて、そのまま立ち去った。
オレンジ色の髪をした死神は、天地を逆さにして、乱暴に揺さぶったような衝撃だった。興奮と疑問が渦巻いて、浦原はしばらく立ち尽くした。今までの常識とともに、自分の脳細胞すら、崩れてしまったようだった。
死神と虚の境界を崩壊させる力。そして、目に見える希望。興奮はさざなみとなって、浦原の細胞を揺らし続けている。