目を開いたら、見覚えの無い部屋に寝かされていて、ルキアは飛び起きた。
僅かに開いている障子の隙間から、月明かりが差し込んでいる。障子の向こう、縁側に誰かが座っているのに気がついて、ルキアはそっと近寄った。
「起きたか」
「ああ。……すまぬ。迷惑を、かけた」
「別に、迷惑じゃねぇよ」
ルキアの気配に気付いたのか、月を見ていた一護がちらりと振り返り、ふっと目尻を細めた。ルキアは障子を開くと、一護の背中にぽすりと額をあてた。そのまま一護の着物を掴めば、まるで背中にすがりついているような格好になった。
「……ここに、いるな」
「いるよ。心配かけたな」
「……心配など、しておらぬ。私は、貴様の心配など、しなかった」
一護の背中に押し付けている額越しに、僅かに熱が伝わる。目を覚ました時、再会は夢でだったのかもしれないと、恐怖で心が凍った。今でも、触れていなければ不安になる。
ルキアは目を閉じて、今までのことを思い出した。心配しなかったというのは、強がりではない。一護の心配はしていなかった。取り残される、自分の心配ばかりしていた。そして、運命を変えることを拒んだ。
「俺もだ」
静かな声がした。ルキアは、体勢はそのままに、目を開いた。着物越しの体温から、彼の感情が伝わる。彼に伝える言葉が形にならずに、ルキアは唇を噛み締めた。自分と同じように悩み、自分と同じ選択をしてくれたことを、内心では喜んでいた。悲劇を繰り返す選択だというのに、ただ、嬉しかった。
頭の中に、かつての想像が蘇った。運命が変わった世界。悲劇の起こらなかった世界。自分たちは、もしかしたら死神同士として出会うかもしれない。想像の中で、隊舎を自分が歩いている。前方から、一護が現れる。一歩ずつ、二人の距離が縮む。そして、何の感慨もなくすれ違う。他の死神と同じ程度の、目礼くらいはするかもしれない。悲劇が消えるのと引き換えに、二人で乗り越えたことも、笑いあった日々も、全てまぼろしになってしまう。
自分の想像に、ルキアは心底怯えた。不幸と知らなくても、それは不幸だ。二人で一緒にいない世界は、恐ろしかった。
「笑っていてほしかった」
ぽつりとルキアは呟いた。それもまた本心だ。彼の不幸を取り除いて、ほんとうの笑顔で生を謳歌して欲しかった。ルキアは、一護の服を握り締める手に力を込めた。一護の背中に額を預ける姿勢では、表情は読めない。けれど、きっと相変わらず眉間に皺を寄せているのだろう。
「でも、できなかった」
一護が何か言おうとした。それを気配で制して、ルキアは言葉を続けた。脳裏には、彼の母親と過ごした夢のような時間の記憶が蘇っていた。まぼろしの母親が、柔らかく笑う。
悲劇の果てに掴みとった未来が本当に幸せなのか、頭で考えてもわからなかった。今でも、わからずにいる。けれど一護と再会して、自分の選択が間違ってはいなかったと信じることができた。
ほんとうの笑顔が見たいと願いながら、共に過ごした日々を、駆け抜けた世界を、眉間に皺を寄せた不器用な笑顔を、心から愛していた。無かったことになどしたくなかった。彼と出会ってから、ゆっくりと育んできた愛情は、もうとっくに大輪の花を咲かせて、ルキアをしっかりと支えていた。
心は、このぬくもりを失いたくないのだと叫んでいた。失えば、もう自分ではいられなくなるにちがいなかった。
「私は、会いたかった。同じものを見て、同じものを守りたかった。何を犠牲にしても、一緒に居たかった。……貴様を、守りたかった。そうして、今、ここにいる。これからも、ずっと」
ルキアはか細い息を吐いた。
「すまぬ」
「……ばーか」
微かな声に、ルキアは薄く笑った。言葉とは裏腹に、一護の背中はルキアを少しも責めていなくて、それがたまらなかった。
「……私が居ないと貴様はすぐへこたれるからな。仕方がない。すまぬ。だから、諦めてくれ」
「なんだよ、それ」
「そばにいる」
ようやく喉の奥から押し出した言葉は、思ったよりもずっと切実な響きを帯びていて、ルキアは唇を噛んだ。
愛の告白よりも強欲で、罪の告白よりも身勝手な宣言を、彼はどう受け止めただろうか。
「そんなの、当然だろ」
「……いい、のか」
「お前が居ないとどうしようもないって、自分で言ってただろうが」
顔は見えないが、一護が口を尖らせた気配があって、ルキアは微かに肩を震わせて笑った。少し前に一護が言った、『俺もだ』の意味を、ルキアは考えなければならなかった。
彼もまた、運命を変えようとしたのだろうか。悩み、葛藤して、二人で共に生きる今を選んでくれたのだろうか。信じてくれたのだろうか。二人の手で掴み取る未来が、最善の道であることを。
「……一緒だな」
「……ああ」
確かな罪を、共有している。罪悪感とひそやかな喜びが、ルキアの胸の隙間を埋めた。
ごめんなさい、ごめんなさいとルキアは心の中で何度も謝った。まぼろしの母親は、自分のことを許してはくれなかった。本当に謝りたいのが誰なのか、彼女は知っていた。
かつて、たしかに彼を生贄の祭壇に捧げた手で、彼を後ろから抱き締めた。一護は穏やかにそれを受け止めた。不意に、ルキアは彼の母親の前で泣き崩れたことを思い出した。もしかしたら、離れていた間、彼も泣いたのだろうか。傷ついた彼の隣に居られなかったことが、悔しくてならなかった。もう、二度と離れたくはなかった。衣服越しに伝わる彼の体温と同じだけ、自分の体温が彼に伝わっていることを祈った。
ルキアは、副隊長になった日をぼんやりと思い描いた。金色の月が照らし出す光のなかに、一瞬だけあの時の青空の色を見た。あの日、自分の胸を埋めていたものは何だったか。あの時、守りたいと誓ったものは、何だったか。
「私たちは、守りに来た。あの世界を」
「そうだな」
「全てが終わってから、守ったあの世界で、思い切り楽しいことをしよう」
「いい案だな。温泉とか行きてぇ」
「終わったら、慰安旅行だ」
もう長い間帰っていない本当の世界を思い出して、一護とルキアは笑いあった。笑いは二人ともどこか歪んでいたけれど、それでも十分だった。
後ろから回されたルキアの腕を、そっと一護が掴んだ。そのぬくもりに、ルキアは涙がこぼれ落ちそうになるのをこらえた。胸につのる愛しさは言葉にならず、ルキアは無言で一護の背中に頬をすり寄せた。
「一つを護るって名前だからな。一つの世界しか護れねぇ。お前な、もうちょっと考えて名前つけろよ」
「え? な、ぜ、知って」
「おふくろに言われた。遺言だ。お前が守ってくれるから、心のままに進め、だとよ」
一護は、母親の最後の瞬間を思い返した。母親は笑っていた。一護がルキアのことを待ち続けられたのは、この言葉があったからだと、今にして思う。
「だって、私は記憶を消して……」
一護の言葉に、ルキアはひどくうろたえた。最後の記憶置換は、彼の母親に使ったはずだ。何故それが失敗してしまったのか、ルキアにはわからなかった。
あの時、虚の気配を感じて、ルキアは振り返った。彼女は全てを了解した顔をして、記憶が消されるのを待っていた。さよなら、の一言とともに、ルキアは彼女の記憶を奪った、はずだ。
そう昔のことではない記憶を掘り起こそうとすると、不思議と曖昧にぼやけた。思い出せ。自分の中の、どこか頼りないこの記憶は何だ。思い出せ。断片的な記憶が、ルキアの脳裏を次々と横切った。カーテンの隙間から差し込んだ月明かり、虚の気配、彼の母親と交わした最後の言葉。彼女に最後に伝えた言葉は、本当にさよならだっただろうか。
彼女には、記憶置換を使っていないと仮定する。では、最後の記憶置換を使われたのは誰だ。
焦点の定まらぬ記憶の向こうで、相変わらず母親は笑っている。くるくるまわる白いレースの日傘、話しながら膨らんだ腹を撫でる美しい癖。記憶が、ルキアの頭の中で踊る。登場人物は少なく、記憶置換を誰に使ったのかを想像するのはたやすい。だが、理由はまだわからない。
不確かな記憶を手繰り寄せて、あの瞬間までの自分の思考を追う。虚が現れ、一護が消え、自分は一人になった。そして、自分も虚と遭遇し、あの場所から離れた。
あの虚と戦った場所には、自分以外の死神の姿があった。夜一と海燕。何かが引っかかる。過去の自分も、そう思い至ったはずだ。
曖昧な別れの記憶とは対照的に、虚の記憶は鮮明だ。そうして、再会の瞬間に一護が葬った虚の動きを思い出す。ああ、きっと、自分は同じ事に気付いた。それならば、消された記憶の向こうで、自分が何をしていたのか、手に取るようにわかった。
「……ああ……」
腑に落ちて、ルキアは息を吐いた。ひどくギリギリの賭けに出たものだと、過去の自分を笑う。記憶は、まだ曖昧にぼやけている。ならば、自分は賭けに勝ったのだろう。
「一護。私たちは、勝ったぞ。多分な」
「は? 何でだ」
「貴様はしばらく手を出すな。もう、罠は仕掛けた。……最後だけ、頼んだ」
「わかった」
理由も何があったのかも、一護は聞かなかった。それが心地よくて、ルキアはうっすらと笑った。いつか、離れていた間に何があったのかを、話したいと思った。彼ももしかしたら、同じように話しだすのかもしれない。いずれにせよ、全てを解決した先にある、遙か未来の話にはちがいなかった。遥か未来、この仕事を終えて温泉に慰安旅行に出かける自分たちを想像すれば、ルキアの笑みは深まった。
今は、もっと別に、問い質さねばならないことがある。一護の背中にもたれかかりながら、ルキアは閉じていた瞳をうっすらと開いた。普段なら慌てて一護から離れるところだが、今はそうする気が起きなかった。どうせ会話ははじめから盗み聞きされていたに決まっているので、今更羞恥心も沸かなかった。それは一護も同じようで、ルキアの手に自分自身の手を重ねたまま、誰も居ないはずの闇夜に向かって声をかけた。
「で、アンタはいつまで隠れてんだ」
「とりあえず、会話が一段落するまで?」
「もうとっくに一段落した。全く……貴様、私達に隠していたことが山ほどあるだろう。吐け」
「えー。ちょっと今更感無いっスか? それに、ネタバレすると面白く無くなっちゃうじゃないスか」
「たわけ! 貴様が何も言わぬから、こっちは一々新鮮な気持ちで酷い目に遭わねばならなかったのだ」
「しかも何なんだよそのふざけた仮装は」
黒衣に白い狐の面を被った男は、ひらりと面を取って悪びれずに笑った。そこには案の定、よく見知った浦原の顔があって、一護とルキアは一斉に不満を訴えた。黒い外套を纏って現れた男は、足元にどさりと人の頭ほどある荷物を置いた。
「え、だってアタシ、顔出したらバレちゃうじゃないっスか。黒崎サン達に渡した腕輪、顔の造りまでは変えられないし。あと声も」
「問題はそこじゃねえ。来るなら来るってはじめに言っとけ。あと、荷物も全部使うことになるってアンタ知ってただろ」
「まあ、そりゃ順当に行けばそうなるのは知ってましたけど」
「けど、何だ」
「未来、変わるのかな、って思って」
へらりと笑って告げられた言葉に、一護とルキアは黙り込んだ。崩玉を作った張本人の言葉は、意外なほど重く一護とルキアにのしかかった。死んでしまう人だけではなく、浦原の苦しみもまた、繰り返す道を選んだ。自分たちの、願うままに。
一護とルキアの沈黙の理由を正確に察して、浦原が苦笑した。相変わらずやさしすぎるのだと、その表情が告げていた。
「正解っスよ、多分。アタシにしたら、ですけど。あの人が居なかったら、あの場所に居るのは、きっとアタシだった」
「そんなワケ、」
「どうっスかね。アタシとあの人、結構似てるんスよ。認めるのは癪ですけど」
ね? と浦原が首を傾げれば、一護とルキアはぐっと言葉に詰まった。出会ってからかなりの年数が過ぎたが、まだこの男の子供扱いには慣れずにいる。しかも、この男はそれをわかっていてやるから性質が悪い。いいように転がされている自覚があって、一護は浦原をぎっと睨んだ。肩の後ろから、ルキアも同じように浦原を睨んでいるのは、簡単に想像がついた。子供扱いに慣れはしないが、場数を踏んで、少しばかりはこの男の考えがわかるようになっていた。
「未来は、変わんねぇんだよ。で、さっさと隠してたこと話しやがれ」
「あら、ごまかされてくれません?」
「ごまかされるか。コッチ来る前に何も言わなかった理由は、さっきので百歩譲って納得してやるよ。でもどうせまだあるんだろ」
「まあ、無いことは無いっスけど。一番の秘密は、もう朽木サン気付いちゃったっぽいっスし」
「貴様、知っておったのか!?」
「当然じゃないっスか」
小馬鹿にしたように肩をすくめる浦原を、ルキアは怨念を込めて睨みつけた。いつもの調子をすっかり取り戻したやりとりに心中で笑うと、浦原は清々しく開き直った。
「大体、アタシが大切なことを事前に話したことが、今まで一回でもありました? 諦めてくださいな。今回も、後ろから見物させて貰いますヨン」
言うだけ言って、浦原は一護とルキアに荷物を押し付けた。その中には、案の定、ルキアが意識を失う直前に持っていて、二番隊に捕まる前に忽然と消えてしまった荷物が入っていた。荷物の中に小さく折りたたまれた白いワンピースを見つけ、ルキアはそっと安堵の息を吐いた。これが無事でよかった。
「アンタな……」
「じゃ、この辺で。やることがありますんで」
「それを教えろと言っておるのだ、たわけが」
ルキアの言葉に返答はなく、浦原はその場所から瞬歩で消えた。聞こえなかったはずはなく、ただ無視しただけだと一護もルキアも確信した。けれど、どれだけ罵っても、本人にはもう届かない。届いたとしても、きっと効かない。
「……何をする気なんだか」
「考えても仕方ねぇだろ。あの人の場合」
「そうだな。……ところで、コン。いつまで、そこでそうしているつもりだ」
「……難しい話が終わるまでっスかね」
「もう終わったぞ」
ずっと屋根の上で寝転がっていたコンは、ルキアの言葉に引き寄せられて、屋根から飛び降りた。ぽすりと軽い音がする。やっぱりこのぬいぐるみの身体が一番落ち着くと、コンは実感した。このぬいぐるみの身体で、この二人の傍にいる時が、きっと一番落ち着く。一護の後ろからルキアが抱きつくという、まったく許しがたい体勢で、二人はコンを待っていた。普段なら泣きわめいて飛びついて無理矢理引き剥がして阻止するが、さすがに今日は何も言う気にならなかった。一護もルキアも、そしてコンも、今日はどこかおかしい。
「コン。すまぬ。ずっと、謝らなければならないと思っていた」
一護の身体から片腕をほどくと、ルキアはコンの頭を撫でた。コンの目から涙が零れそうになったが、ぐっとこらえる。コンの脳裏に、あの日の記憶が蘇った。コンにとって、それは最悪な一日だった。
「コン。私は殺さない。そして、選んだ。貴様と、共にある道だ」
「ネエさん……。ネエサーン!!」
コンは結局大量の涙を流しながら、ルキアに縋った。一護もルキアも苦笑して、それを受け入れた。二人とも口には決して出さないが、コンの反応に救われていた。
自分たち出会わなければ、救えなかった命がある。思えば、コンは自分たちが掬い上げた、はじめての命だった。それが、とても嬉しかった。
二人と一体でぴったりとくっつきながら、誰ともなく、帰ってきたのだと感じた。この場所が自分たちの帰る場所だと考えるようになってから、どれくらいの時間が過ぎたのだろうか。普段の憎まれ口はなりを潜めて、欲求のままにずっと密着していた。ひとつの団子のように丸まっている姿は、同じ隊の仲間という言葉で括るには、少しばかり無理があった。月明かりに照らされて、いびつな団子の影は、後方に長く伸びていた。