黒髪の死神は、地下牢への階段を下りると、囚人の元へと向かった。滅多に笑顔を絶やさぬ顔からは笑みが消え、緊張した面持ちで囚人へと近づいた。

「……あら。珍しいお客様ですこと。ごきげんよう。海燕殿」

 囚えられた女は、ふわりと笑って客人を迎え入れた。あまりに場違いな笑顔に圧倒されて、海燕は暫くの間、無言で立ち尽くした。
 何故ここに来てしまったのか、理由はわからぬままだった。夜一には止められ、一度は納得したはずだ。だが、自分自身の目で見極めたいと、何故か強く思っていた。

「お前が、やったのか」
「ええ。私ですわ」

 問いかけるのに相当な精神力を要した質問は、あっさりと肯定された。それを認めるのに、罪の意識は無いようだ。

「なんで」
「死神が、憎くて仕方がありませんの」
「アイツも、同じか」
「どうでしょう。興味ありませんわ。あんな男のことなんて」
「嘘だ」

 海燕は唇を噛み締めた。女は、見たこともないような顔で笑っている。この前会った時のことが、脳裏に蘇った。あれが演技だとは、思いたくなかった。目の前の女が、あの時の女と同一人物だとは、どうしても思えなかった。

「ええ。全て、嘘ですわ」

 女の声に、海燕は弾かれたように顔をあげた。女は意味深に笑った。悪趣味なことに、海燕の反応を楽しんでいるようだった。

「なにもかも、全て。あなたの目に写っているのは、偽物です」
「どういう、意味だ」
「さあ。ご自分で考えたらいかがです?」

 芝居がかった口調は、掴みどころがない。何もかも、問い詰める前にするりと腕を通り抜けてしまう。

「ねえ」

 甘えるような声で、女が言った。つくりもののような女だ。夜一が、自分に『会うな』と言った理由を、海燕は悟った。だが、もう遅い。

「ここから出して下さいません? 反省しておりますの。もう何もしないと、約束しますわ」

 椅子から立ち上がった女が、一歩近づく。海燕は一歩退いた。脈絡なく、必死だ、と思った。何故わかったのかはわからない。だが、目の前の女は、本当は余裕など少しもない。
 息を飲んで立ちすくんでいると、場違いに呑気な、第三者の声が響いた。

「……何でアナタがいるんスか? まあいいか、ソッチの人に聞きたいことが……え?」

 ガシャン! と響き渡った音は、浦原喜助が鉄格子を掴む音だった。浦原は階段から一瞬で牢の前へと移動すると、目を見開いて、目の前の女を凝視した。力を込めすぎた鉄格子が、不気味な音を立てて軋んだ。
 突然のことに、海燕は言葉を失った。黙りこくっていると、女は目を細めて笑った。

「あら、どうされたのです? らしくないですわね。顔色を変えて」
「いつ、一体どうやって……」

 何の話をしているのか、海燕にはわからなかった。だが女にはしっかりと伝わっているようで、一層笑みを深めた。

「本当に一瞬で気づくなんて、変態ですわね」

 ガシャン、ともう一度音がした。それは、浦原が鉄格子を拳で叩く音だった。
 その音と同時に、女の表情が変わった。相変わらず笑っている。だが、唇を歪め、少し眉間に皺を寄せると、先ほどまでとは違う、全く別人の表情が浮かび上がった。

「残念だったな。ネエさんならもう逃げちまった後だぜ」
「……義骸……」

 浦原の呟きの意味がわからず、海燕は女を凝視した。顔を歪めて嗤う女は、生きているとしか思えなかった。こんな精度の義骸を、見たことがない。
 がらりと口調が変わった女を、海燕は呆然と眺めていた。

「私の演技、いかがだったでしょうか?」

 女は、儚げな笑顔で深窓の令嬢のように小首を傾げると、すぐにいびつな笑顔に戻った。

「なんてな。何ボサッとしてんだ。俺様はちゃんと言っただろ? 全部嘘だってな」
「偽物、なのか。本当に」
「アンタにこれが本物だと思われるのはゴメンだな。あ、そこの変態。テメーは別に構わねぇぜ」

 ケラケラと女は笑った。女は殺気立った浦原の視線を受け止めると、片方の口の端を一層吊り上げた。

「で? 何の用だ? テメーの作った隠し部屋から、マントと眼鏡と腕輪を盗んだ泥棒は俺じゃねぇぞ」
「でも、犯人は知ってるんスね?」
「知らねえな。わかったらさっさと帰れよ。バレたらここにいる意味もねえし、俺も逃げるわ」
「させると思うんスか?」
「止められると思ってんのか?」

 再度、耳障りな音が響いた。それは浦原が鉄格子を叩く音ではなく、女の形をした何かが、手錠を外して、床に無造作に落とした音だった。

「動くな!」

 刀に手をかけて、海燕は叫んだ。浦原もまた、腰の斬魄刀に手をかけている。
 女は、臨戦態勢に入った二人を、まじまじと観察していた。二人の席官が発する霊圧が、電流のように女の頬を灼く。

「大人しく椅子に座れ。席官二人じゃ、相手が悪いだろ」
「割とどうにかなるかも知れねぇぜ?」

 海燕は、相手の霊圧を注意深く読み取った。大した霊圧ではない。普通の義魂丸と変わらない。戦えば、間違いなく勝てる。だが、相手の余裕が妙に気になった。
 ちらりと横目で確認すると、浦原は殺気を抑えようともせず、囚人を凝視している。

「ちょっと無茶するぜ」

 唐突に、囚人が呟いた。海燕と浦原は身構えたが、何も起こらなかった。
 息の詰まるような沈黙が続いた。時間の感覚が麻痺して、どれくらい続いているのかわからない。一秒か、一分か……十秒くらいなのだろうか?
 不意に、女の形をしたものが、にやりと笑った。
 大きく息を吸い込んで、吐き出す。

「思い出せ! 浦原喜助!」

 囚人の絶叫に、海燕は面食らった。鬼道の詠唱ですらない、ただの大声だ。
 しかし本当に驚いたのは、囚人が叫んだ瞬間、浦原の体勢が崩れたことだった。

「……な……!?」

 浦原はひどい目眩を感じて、その場に両膝をついた。頭の中を、素手で乱暴にかき回されたようだった。ぐるぐると記憶が巡る。覚えのない情景が、脳裏に次々と浮かび上がる。
 そうだ、自分はこの義骸を知っている。
 そう自覚した瞬間、全ての記憶が繋がった。義骸であることに気づいて、部屋へと乗り込み、そしていいようにあしらわれた。そうだ、この義骸に入っている義魂丸は、ただの義魂丸ではなかった!

「待て!」

 浦原が混乱した一瞬の隙を突いて、囚人は自分の真後ろの壁を蹴った。崩壊して大穴が開いた壁の向こう側には、真っ暗な道が繋がっていた。
 予想外の動きとその威力に目を見開いたのは、海燕と浦原、二人共だ。地下牢で、壁を壊しても意味が無い。その先には、固い地盤があるだけだ。そのはずなのに、壁の向こうには、外へと続く穴がぽっかりと口を開けていた。

「行くぞ!」

 囚人は、驚くべき速度で穴の向こうへと移動している。まだ固まっている浦原に声をかけて、海燕は囚人の後を追いかけた。すぐに、浦原も続く。
 脱出のための洞窟を駆け抜けながら、海燕は眉間に皺を寄せた。女が義骸にすり変わっていたと知った瞬間から感じていた違和感が、洞窟に足を踏み入れて、一層大きく膨らんでいく。
 こんな抜け穴が、すぐに準備できるはずがない。これでは、まるで。

「何もかも、仕組まれてたみたいじゃねぇか」

 海燕は小さく吐き捨てた。浦原は何も言わなかったが、おそらく、同じ事を考えているのだろうと海燕は思った。
 こんなことが、あの二人だけでできるはずがない。
 小さく舌打ちをして、海燕は走った。抜け穴の出口まで、あと少しだ。



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