白哉が目を覚ましたのは、自室の布団の上だった。飛び起きようとして上体を起こし、激しく咳き込む。身体がまだ、あの女の手の感触を生々しく記憶していた。
「起きたか、白哉坊」
「……何故、貴様が、ここにいる」
襖を開けて部屋に入ってきたのは、夜一だった。いつも子どものような顔ばかりしている女の、表情は厳しい。いつもは何を考えているのかすぐにわかるのに、今は全くわからなかった。
「危ないところじゃったの」
「……危ない……。そうだ、あの女は」
「安心しろ。檻の中じゃ」
「な……!? どうして」
「あの女が全て吐いた。虚を使って死神を襲っていたことも、お主を殺そうとしたことも」
夜一は、驚愕する白哉の頭を撫でた。かつて自分の部下だった女の豹変は、夜一の心にも暗い影を落としている。
忘れもしない虚の気配と共に、得体の知れない霊圧が巻き上がったのは、丸一日前のことになる。
駆けつけた夜一は、そこに倒れ伏す二人を見た。見覚えのある黒衣を纏った白哉の首筋には、くっきりとした手形。それをつけた犯人と思しき死神の顔には、嫌になるほど見覚えがあった。霊圧も髪型も髪の色も違う。だが、間違い無い。その予想を裏付けるかのように、彼女の懐からは、見覚えのある腕輪と黒縁の眼鏡が転がり出た。総隊長の指示で、女はすぐに一番隊の地下牢へと幽閉された。
外傷のない女の目覚めは、数時間後のことだった。檻の前に立ち尽くす夜一に浦原を見て、女は艶やかに笑ってみせた。その笑顔は、夜一の背を凍らせた。
「こんばんは、皆様。ごきげんうるわしゅう」
「……全く、最悪な気分じゃ」
心のどこかで、慌てふためいた彼女が、誤解ですと叫んでくれることを期待していた。けれどそんなささやかな願いをよそに、部下であった女は肩をすくめた。
「捕まってしまうなんて、不覚ですわ」
「お主に、聞きたいことがある」
「何でしょう?」
「儂と志波海燕を襲ったのは、お主か?」
「もう、わかっているのでしょう。それとも隊長は、のろまな上に、頭の回転まで遅いのですか。可哀想なこと。もう一度、襲いかかって差し上げましょうか。私に倒されるのと、虚に倒されるのと、どちらがお好みです?」
「……空蝉と吊柿は、どこで覚えた」
女が、夜一をひたと見据えた。面白がっているような、不思議な実感の篭った声で、女は答えた。
「勿論、あなたから、ですわ」
見ただけで、覚えてしまったということだろうか。殺気立った視線を投げても、妖しく微笑むだけで、女は何も答えない。夜一は、質問を変えた。
「浅野はどうした?」
「あら、逃げてしまったのですか?」
さして意外でもなさそうに、女は笑った。自分たちの鈍さを笑っているのだろう。夜一は奥歯を噛み締めた。
「お主の部屋にも、あやつの部屋にも何もなかった。追手がかかるころにはもう消えていた」
「まあ、臆病者だこと。使えるかもしれないと思って、流魂街で拾った男ですわ。それなりに役には立ってくれましたが、ここまで、というところですわね」
「恋人同士では、なかったのか」
絞り出すような声が出た。いつも見ていた、二人の部下の姿が瞼の裏に蘇る。いつもあの二人は一緒だった。二人でこっそり夜食を食べていた姿。片方が消えて、憔悴していた彼女の姿。あれが嘘だとは、思いたくなかった。
女はまた笑った。心をざわめかせるような笑みだった。
「ああ、それ。隊長のお力添えのお陰で、とても動きやすくなりましたわ。ありがとうございます。ここから出して頂けるのなら、また夜食をお作りしますわ。出して頂けません?」
「ここから出る時は、貴様が死ぬ時じゃ」
「まあ。怖い」
「貴様はっ……!」
「夜一サン。落ち着いて下さい。アナタらしくもない。……小島サン」
「……何でしょう?」
思わず爆発しかけた感情は、浦原の視線に宥められた。夜一を女の視線から守りながら、浦原は女に呼びかけた。無理に平静を装っているのだと、夜一にはすぐにわかった。それは女も同じようで、女はくすくすと堪えきれぬように笑った。
「珍しいですわね。そんなに感情を表に出すなんて。隊長を莫迦にされたことが、そんなにもご不満ですか」
「ボク達を怒らせて、何を企んでるんスか?」
「さあ。白哉様も殺し損ねてしまったし、どうしましょう」
にこにこと笑いながら、女は芝居がかった仕草で小首を傾げた。その姿は、とても囚われているようには見えなかった。悪い夢でも見ているような、胸のむかつきを覚えて夜一は細く息を吐いた。
「……アナタは、何者です。あの外套と腕輪は、どうやって手に入れたんスか?」
「……それだけ、ですの?」
一瞬だけ、女の笑顔が吹き消えた。予想外に現れたほんとうの表情に息を呑むと、すぐにまた、人をくったような笑顔が浮かび上がった。
「拾いました。道で、偶然」
「そんな言い訳が通るとでも思っておるのか」
「通りません? では、私が作りました」
「ふざけるな!」
夜一が声を荒げれば、女は不意に真顔になった。その顔は、朽木白哉に驚くほどよく似ている。自分が女に対して非情になりきれない原因のひとつは、それだろうと思う。
何もわからなかった。隊長格の霊圧を持っているこの女の正体も、持っている道具も、目的すらも。