涙が落ち着くと、ルキアはそっと真咲から身体を離した。

「行くのね」
「はい」
「……消さないの?」
「……はい」

 心から不思議そうに首をかしげる真咲に、ルキアは苦笑した。懐で、記換神機を握り締める。残量は少ない。あと一人分の、記憶しか消せない。そしてその相手は、もう決まっていた。

「ご自分で努力して、忘れてください」
「できないわ。多分、いつかこの子にも言っちゃう」
「我慢してください」
「じゃあ、ギリギリまで頑張るわ」
「はい」

 ルキアはベビーベッドに歩み寄ると、眠る赤ん坊をそっと撫でた。あどけない姿に、たわけ、という言葉が思わず漏れた。母親は、いたずらっぽく微笑んだ。

「今のも伝えるわ」
「やめてください」

 ルキアは、顔をあげた。そしてゆっくり、窓の方を見た。真咲も全く同じタイミングで、窓を見据えていた。
 ルキアは窓を開いた。室内に風が入り込み、カーテンが揺れる。その隙間から、月明かりが差し込んだ。真咲は、ルキアの方を見なかった。ゆるく重ねあわせた自分の手を見つめながら、そっと呟く。ルキアもまた、振り向かなかった。心の中で、彼に与えられた勇気が燃えている。彼と共に、自分は生きる。

「いってらっしゃい。心のままに」
「はい。いってきます。……ありがとうございます」

 さよなら、とは、口にできなかった。言葉をさがしあぐねて、口からは出てきたのは一言だけだった。自分の心を癒し、背を押してくれた偉大な母親の気配を、精一杯に噛み締める。
 ルキアは、窓枠に足をかけ、外の世界へと身を躍らせた。先程一瞬だけ虚の気配がして、すぐに消えた。この病院を守るように仕込んだ呪具による結界が、発動している。地面に着地すると、ルキアは記換神機を目前に掲げた。そうして、迷うこと無く、自分自身に向かって弾いた。ぼん、と爆発して、意識が遠のく。
 数分後、目を覚ましたルキアは、結界に虚が引っかかっていることに気づき、走った。

「行かせぬぞ」

 虚を目前にして、ルキアは銀色の腕輪を外した。霊圧で黒い外套が翻る。巻き上がる霊圧が風となってルキアの髪を揺らした。風は、病院の木々をざわめかせながら奔る。ルキアは、前を睨んだ。
 心に迷いはなかった。あるはずがなかった。もっとずっと大事なものを、偉大な母親から受け取っている。
 ルキアは、姿を現した虚を斬りつけた。ここに来る前にそうしたように、何度も、何度も斬りつけた。破道も放った。
 虚の目が紅く光っている。ルキアは、その瞳に斬魄刀を突き立てた。目を潰され、悶えた虚はぶるぶると震え、空間の裂け目へと逃げようとしている。ルキアは、虚の身体に斬魄刀を突き立てると、柄を両手でしっかりと握りしめた。そのまま、虚とルキアは、空間の狭間へと消えた。


「おーい、買ってきたぞ。甘いもの」
「ありがとう。食べたかったの」

 ベッドと一体化したテーブルの上に、山ほどの菓子が積まれて、真咲は嬉しそうに笑った。無邪気な様子に、彼女の夫も嬉しそうに笑った。
プリンにヨーグルト、団子に大福、芋ようかんもある。半分以上は自分で食べるつもりで買ってきた、と真咲は見当をつけた。それでも、小さな机を菓子がうずめる光景は、おとぎ話のようで、真咲の心は弾んだ。
 品定めをするように、人差し指を付き出して、真咲は口を開いた。細い指先が、菓子の上で踊る。

「ね、退院したら、服を買いに連れてって」
「服ゥ? いいけど、何だよ急に」
「白いワンピースが欲しいの。夏だし」
「白いワンピース? 持ってるだろ。すごい気に入ってて、アレがあるから他のはいらないとか言ってたじゃねえか。ずっと着て、いつか娘にも着せるのが夢とかなんとか」
「ああ、あれ。あげちゃったの」
「あげた!? 誰に」
「可愛い女の子」

 どこから問いただしていいかわからず、彼女の夫は目をぱちくりとさせた。それに構わず、真咲は菓子の山のうち団子を選ぶと、封を開けてぱくぱくと食べ始める。食べながら、真咲はにっこりと笑った。丁度目の前にあった苺のプリンを撫でる。これは、明日にでも食べようと思う。

「あとね、名前も決めたの。この子」
「へ?」
「一つを護るって書いて、いちごって読むの。一護。可愛いでしょ?」

 相変わらず、彼女の夫は展開についていけないままだ。けれど、妻の出した名前を口の中で反芻し、ひとつ頷いた。
 一護、一護。その名前は、誂えたようにしっくりと響く。

「そりゃいいな」
「でしょ」

 夫婦は大いに笑った。真咲はこれ以上ない幸せを噛み締めて、我が子を見つめた。
 生まれ落ちたばかりの我が子は、すこやかな寝息を立てている。彼の将来に思いを馳せることは、言いようのない幸福だ。
 一瞬だけ、真咲の瞳は翳った。翳りは、すぐに跡形もなく消えた。

「大丈夫よ」

 真咲は、小さく息子に呟いた。ほとんど声に出さぬ呟きは、彼女の夫にも拾われることはなかった。

「だから、笑っていて」

 真咲の脳裏には、自分の夢をあっという間に叶えて消えていった、まぼろしの少女の姿が翻っていた。自分は、彼女に貰った以上のものを返せただろうか。不意に室内に入り込んだ風が答えをくれた気がして、真咲は微笑んだ。




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