ルキアは、日付を確認した。7月15日。意外なことに、小雨の降る肌寒い日だった。彼はよく晴れた日に生まれたとばかり思っていたから、ルキアは素直に驚いた。
 考えられる準備は、全て終わった。終わっていないのは、心の準備だけだ。心はまだ、まとまらずにルキアを悩ませた。
 幸せよ、と母親が笑う。会いたい、と心が叫ぶ。だけど、死なせたくない。
 堂々巡りだ、とルキアは自嘲した。
 公園でルキアは膝を抱え、目を閉じた。ずっと、飽きることなくそうしていた。風はそよとも動かない。不思議なことに、物音ひとつしなかった。
 不意に、プランターに植えられた赤紅のゼラニウムがルキアの目を惹いた。小雨にけぶる世界の中で、その鮮やかな赤色だけが浮き上がっているようにみえる。
 じっと見つめていると、風はないはずなのに、赤い花がふるりと揺れた。
 それを合図にして、木々が一斉にざわめく。まるで纏わり付く水滴を払い落とすかのように、一陣の風が吹き抜けた。

 瞬間、ルキアは弾かれたように顔をあげ、立ち上がった。思わず口元をおさえる。風は天を衝いて、淀んだ雲を割った。割れた雲の隙間から、濃く力強い青空が覗いた。雲で隠されていた光の帯が地表に届く。日の光に晒され、水滴はきらきらと輝いた。
 ざわざわと、木々の喝采は続く。木も草も花も、力いっぱいに揺れて彼の誕生を祝福した。真っ赤なゼラニウムが、ルキアの目を灼いた。
 この街にいる全ての霊力のある者は、異変に気づき、空を見上げた。地縛霊や浮遊霊ですら、そうした。

 彼が生まれた。

 吹き荒れる風に髪を晒して、ルキアは立ち尽くした。心をうずめる感情が言葉にならない。泣くかもしれない、とルキアは思っていた。けれど、涙すら出なかった。
 彼の名前を呟く。

「一護」

 この世界のすべてが、彼の誕生を寿いでいる。
 ルキアは天を仰いだ。雲が割れ、急速に晴れ渡ってゆく青空の真ん中に、鮮やかな虹が架かっていた。


「遅いじゃない」

 真咲は、現れた黒衣の侵入者を優しく睨んだ。窓の外を見れば、もうとっくに日は落ちている。ルキアは、困ったように首を傾げた。

「人がいました」
「そうね。感激するわ男泣きするわで大変だったわ。全然病室から離れないし。ここのお医者さん達とも知り合いだから、周りは妙にあの人に甘いし。父親になったんだから、もう少し落ち着けばいいのに。おかげで全然ゆっくり休めないのよ」
「今はどちらに?」
「甘いものが食べたいって我侭言って、追い出しちゃった」

 子どものように舌を出す姿は、相変わらず少女のようだ。ルキアが苦笑すると、真咲は微笑んだ。その表情は母親そのもので、ルキアは少し驚いた。

「抱いてあげて」
「……いいんですか?」
「勿論。そのために、来てもらったんだもの」
「……はい」

 横のベビーベッドに寝かされていた小さな赤ん坊を、母親は優しく抱き上げた。赤ん坊は健やかに眠っていて、起きる気配も見せない。

「はい、どうぞ」

 母親は、ルキアの腕の中に、小さな生命を預けた。その重みを、ルキアはしっかりと受け止めた。とても重い。温かい。生きている。服を通して、彼の鼓動が伝わるようだ。

「……あ……」

 彼を腕の中に抱いた瞬間、ルキアの中に、感情の嵐が吹き荒れた。これがどんな感情なのか知らない。今まで流れることのなかった涙が、堰を切ったように溢れた。

「ありがとう。……ありがとう、ありがとう」

 ぼたぼたと涙を流しながら、ルキアは何度も腕の中の命に礼を言った。何故自分が、そんなことを口走ったのかは知らない。身体中の細胞が、彼に感謝していた。
 その瞬間、赤ん坊がうっすらと目を開いた。ブラウンの瞳が、はっきりとルキアを捉える。そして。
 ……笑った?

「……たわけ。莫迦者。どうして、貴様は、いつも」

 ルキアの表情は、くしゃくしゃに歪んだ。
 貴様なんか、ただの人間だ。ただの子どもだ。しかも今は、生まれたばかりの赤ん坊だ。それなのに、貴様は、また。
 私を、救うのか。

 この瞬間、心に灯された感情の名前を、ルキアは知っている。勇気が身体中を巡っていくのを感じながら、ルキアは前を見据えた。
 赤ん坊を母親に返すと、ルキアはくしゃくしゃになった顔を、服の袖で乱暴に擦った。真咲は、赤ん坊をベビーベッドに寝かせると、ルキアの腕を強くひいた。バランスを崩し、ルキアは真咲の胸へと飛び込んだ。そのまま、頭を固定される。

「答えは、出た?」
「はい」
「心は、何て言ってるの?」
「会いたい、いいえ、会いに行きます。たとえ何があっても」
「会って、どうするの」
「一緒に居ます。どれだけ辛くても、一緒に居ます」
「一緒に居られなくなったら?」
「それでも、心は一緒に居ます。私が一緒に戦えなくても、心だけは、共に飛びます。何があっても」

 どれだけ人間から離れても、自分とは異質な存在になっても、心だけは共に居られるはずだ。彼は、山ほどの人を助ける。世界を救う。誰よりも強くなる。自分はそんな彼を、何度でも蹴飛ばしてやる。時にはビンタだってくれてやる。
 そうして、何度でも、彼が黒崎一護なのだと、思い出させてやる。戦闘では、力が及ばないかもしれない。けれど、心は。彼の心だけは。

「私が守ります」

 話しているうちに、顔に再び涙と鼻水が滲んだ。このままでは、真咲の服を汚してしまう。しかし、顔を離そうとしたルキアを、真咲は許さなかった。

「服くらい、いくらでも提供するわ」

 結局ルキアはされるがまま、真咲の胸に顔をうずめた。優しくルキアの髪を撫でながら、彼女は小さく呟いた。

「あなたが幸せにならないと、私は不幸だわ。きっと、あなたの大切な人も」
「はい」

 あたたかく抱きしめられながら、ルキアは思い切り泣いた。涙の理由は説明できなかった。やさしい母親の胸に縋って、少女のように泣きじゃくった。




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