彼の優しさを思い出すのが少し苦しくて、ルキアは息を吐いた。励ますように、頭の上で手が動く。その手は、今まで考えもしなかった本心を、たやすく引き摺り出していく。
「救われたいわけではありません。もう、何度も救われています。私が、救いたい」
ルキアは両腕に微かに力を込めた。この手は、彼からたくさんのものを奪った。彼の手は、全てを与えてくれたというのに。
この手で、何が出来るのだろう。どうすればいいのだろう。自分は、彼に。
「笑っていて、欲しい」
自分と同じだけの幸福を、彼にも届けたかった。この手が彼を生贄の祭壇に捧げたと知りながら、それでも。たとえ、もう、二度と。
「会えなくても?」
ルキアの思考を読んだように、まぼろしの母親が問いかけた。どうしても、頷くことはできなかった。
「会いたいんでしょう」
意地を張った子どもを諭すような声に、ルキアは不意にたまらなくなった。唇を噛み締めて、やはり、頷くことはできなかった。
「会えたら、どうするの」
「……きっと、殴ります。私が見張っていないと、すぐ落ち込む癖があります」
ルキアの大真面目な声が意外だったのか、母親が頭の上で小さく吹き出した気配がした。
「大事なことは言わなくていいの?」
「そんなものは、会うだけで、伝わります」
「素敵」
穏やかな笑い声に合わせて、しがみついている身体が揺れた。穏やかな揺れを頬に感じながら、ルキアはたゆたう思考の中で、かつて大切な事を口に出したことはあっただろうか、と考えた。
さよならもありがとうも、簡単には言えなかった。しんみりした空気の中で素直になろうとしても、照れが勝ってしまう。おそらくお互いに、そうだったのだろう。
そして、視線を合わせるだけで、大切な事はすぐに伝わった。
ルキアは微かな痛みをこらえるように、眉根を寄せた。胸の中で、彼と共に過ごした、かつての幸福が燃えている。
「貴方は、幸せなのですか」
「ええ。とても。そしてきっと、これからも」
「これからも?」
「ええ。きっと死ぬまで幸せね。いいえ、死んでからも」
目を上げなくても、彼女がにっこりと笑っていることがわかった。ルキアは、滲む涙をぐっと堪えた。彼女を憐れむのは傲慢だ。彼女は、幸せなのだから。
「この子も、きっと幸せよ。だって、私の息子よ!」
ルキアは、強く強く目を閉じた。堪えていても、口から細く漏れた吐息が震えた。押し付けた顔から、巡る命の音がする。ルキアはぼんやりと、彼と出逢った日のことを思い出した。
今まで、あの瞬間が全てのはじまりだと思っていた。けれど今この瞬間にも、彼の物語は紡がれている。はじまりだと思っていた瞬間は、きっと、本当は結末だった。たくさんの思惑が、たくさんの物語が、あの瞬間を目指して走った。
「何を考えてるの」
「出逢った時のことです。あれがはじまりだったのか、終わりだったのか」
「どちらだと思うの?」
「心、次第なのでしょう」
「そうね」
やさしく抱きしめられながら、ルキアはまぼろしの母親の匂いを嗅いだ。
自分は、母親を知らない。顔すら覚えていないのだから、寂しいと思ったことはない。けれど、もし居たとしたら、こんな感じなのだろうか。甘くて、安心する匂いだ。
「あなたの心は?」
「……わかりません。矛盾することばかりを、身勝手に願っています」
誰も死んでほしくない、彼に幸せになってほしい、彼に笑ってほしい。それもまた、本心だ。けれど、彼に会いたい。
「何故なのでしょう」
「それが、心だから」
「ええ、きっと」
ルキアは頷いた。それきり、二人は無言だった。
しばらく黙りこくっていると、電話の音が鳴り響いた。そっとルキアを起こして、はいはい、と呟きながら、真咲は電話に駆け寄った。その足取りは、羽が生えたように軽い。
「え? もう着くの? はーい、わかりました」
その内容から、もう一人の住人が帰ってくるのだと納得する。ルキアは、畳んで置いてあった外套に手を伸ばした。電話を切った真咲は、残念そうにルキアの傍に寄った。
「やっぱり、行っちゃうの?」
「ええ。お世話になりました」
「行くところはあるの? ご飯は?」
「何とでもなります」
ルキアは微笑むと、自分が寝かされていた部屋へと向かった。黙って荷物をまとめていると、どこかへ行っていた真咲が、再びルキアの傍へと来た。その手の中には、畳まれた死覇装があった。
「ありがとうございます」
死覇装を渡されたルキアは、その場で着替えようとした。けれどその手は、真咲の手に押しとどめられた。妙に真剣な表情をした彼女に、ルキアは少し驚いた。
「その服、あげる。それと、いつでも来ていいから。昼は、大体私一人なの。お昼ごはんを食べて、お風呂に入っていって」
「な……そんな迷惑はかけられません」
「一人は寂しくて、ストレスできっと胎教に悪いわ。そうに違いないわ。可哀想な子。ごめんね、駄目な母親で」
腹を撫でながらハンカチで涙を拭われ、ルキアは慌てた。よく考えれば、彼が元気に生まれてくることなど誰よりもよく知っていたはずなのだが、そこまで頭が回らなかった。
「わ、わかりました!」
「ほんと!? やった!」
ルキアが了承した瞬間に、流していた涙は跡形もなく消えてしまった。無邪気な笑顔に、ルキアはハメられたことを知ったが、もうどうすることもできなかった。
妙な具合だ。調子が狂う。この親子には、弱いのかもしれない。
「……来れたら、です」
「うん。待ってる」
恨みがましく見つめながら、悪あがきのように放った言葉では、彼女の笑顔は崩せなかった。全てを諦めると、白いワンピースの上に黒い外套を巻きつけて、立ち去る支度を整えた。人目につけば、ただワンピースが浮いているように見えるはずだ。想像して少し笑うと、誰の目にもつかぬように、ルキアは瞬歩で立ち去った。