頭は働かないまま、操られるようにしてルキアは脱衣所へと向かった。バスルームの四方に、かつて二番隊隊舎で使っていた呪具を仕込んでから、ルキアは外套を脱いだ。外套の下は元より裸だったので、風呂に入る支度はすぐに終わった。
こんなところで、自分は何をしているのだろう。湯船に浸かりながら、ミントの匂いのするお湯を両手ですくい上げ、ルキアは自問した。薄青く染まったお湯は、ぴちゃりと音を立てて、すぐに手から溢れ落ちる。何も答えは出ない。身体を包むお湯の温度に、頭がうまく働かない。とりあえず、ルキアはそれ以上考えるのを諦めた。
何も考えずに頭を洗い、身体を洗っていると、脱衣所から声がかかった。
「着替え、置いとくから!」
「……ありがとうございます」
優しいが、有無を言わせぬ声にルキアは苦笑した。シャワーで花の匂いがする泡を洗い流し、再び薄青色のお湯の中に身体を滑らせる。目を閉じれば、もうずっと忘れていた現世の音が、優しくルキアを包み込んだ。
遠くで犬が吠えている。車が通る音がする。通りを誰かが歩いている。
そして、すぐ近くで、楽しげに包丁を動かす音がする。まるでリズムを刻んでいるようだ。時折聞こえる足音は、出産間近の妊婦とは思えぬほど軽やかに跳ねる。ミントの香りに混じって、ふわりとカレーの臭いがした。無意識のうちに微笑んでいる自分に気づく。ルキアはバスタブに両腕を預けると、その上に頭を載せた。ほう、と息を吐けば、身体中の力が抜ける。
この場所がこんなにも安心するのは、彼女がいるからだろうか。それとも、彼がいるからだろうか。ずっと抱いていた心の澱が、とろとろととろけていくようだ。
湯船から出て脱衣所に入ると、そこに置いてあったのは、死覇装ではなかった。新品の下着と、白いワンピース。ここに来たときのように、裸に外套を着る気にはなれなかったので、ルキアは仕方なくそれを身につけた。ワンピースを着たのは久々だ。身体を動かすと、むきだしの脚や腕を風が撫でる。その感触が懐かしい。
ワンピースの上から外套を羽織ると、ルキアはダイニングへと向かった。カレーの匂いが強くなる。扉を開ければ、満面の笑顔に迎えられた。
「はい、コート脱いで座って! あ、ワンピース、サイズ大丈夫? 私のだから大きい? ん、大丈夫そう」
「あ、はい」
「似合ってる。良かった」
無邪気に褒められて、何と答えて良いのかわからない。結局、よく分からぬ言葉をぼそぼそと呟いて、ルキアは小さく頭を下げた。顔が赤くなっていたかもしれない。
バスルームと同様、外に気配が漏れないようにしてから、ルキアは外套を脱ぐ。テーブルの上には、夕飯の準備が万端に整えられていた。カレーにサラダ、スープ。何故かひじきの煮物がある。表情に出たのか、『昨日の残りよ』と真咲は舌を出して笑った。
「どうぞ」
「いただきます」
手を合わせてから、ルキアはカレーをひとさじ掬った。おいしい。その味は、どこか彼女の娘が作ったものに似ていた。そして、瞳を輝かせながら、ルキアを凝視している表情も、彼女の娘そのものだ。
「おいしいです。とても」
「良かった!」
安心したのか、真咲は自分もカレーを食べ始めた。食卓にはあまり会話がなかったが、それが苦にはならなかった。次に会話らしい会話が生まれたのは、食器の片付けの時だ。食事の礼にと皿洗いを進み出たルキアに、真咲は気にするなと言って笑った。けれど良心が咎め、少しの問答の末、二人で一緒に食器を洗った。
「名前、決めてないの」
真っ白なサラダボウルを拭きながら、真咲がぽつんと呟いた。蛇口から流れる水の音に紛れて、ルキアはその声を一瞬聞き逃した。
「え?」
「この子。候補は幾つかあるんだけど、ピンとこないのよ」
「やっぱり、大層な意味のある名前にした方がいいかしら? でも、そうすると本当に名前通りに育ってくれるか不安じゃない。ね、名前の通りに育った人って知ってる?」
ルキアは皿を洗いながら、身近な人の名前を反芻した。自分も含め、どうしてその名前になったのかは知らない。知っている一人の事を考えるのは、少し勇気が要った。一瞬だけ目を伏せ、ルキアは問いに答えた。
「……知りませんね。一つのものを護る、という大層な意味のある名前を持った者がいましたが、一つどころか、山のように護ってばかりいる、大莫迦者になってしまいました」
「そうなの? やっぱり、うまくいかないのね」
口を尖らせて、真咲は重ねた皿を食器棚にしまった。全ての食器を洗い終えたルキアも、皿を拭く作業に合流する。そう多くない食器は、すぐに拭かれ、しまわれた。
お茶でも飲もうか、と誘われ、今度は二人でソファに移動した。冷えた麦茶を啜っていると、ほう、と真咲が息を吐いた。
「生むのは楽しみで早く会いたいんだけど。出てきちゃったら、私が守ってあげられないから。不安ね」
彼女は、困ったように笑いながら、膨らんだ腹を撫でた。思えば、彼女はことあるごとに、語りかけるように腹を撫でている。きれいな癖だとルキアは思う。それだけに、胸がつまる。
「あの。……触っても、いいですか」
「ええ。勿論」
一瞬驚いたように瞬きをした後、真咲はすぐに笑って頷いた。その言葉に誘われ、ルキアはおずおずと手を伸ばした。そっと触れる。思ったよりも柔らかい。服のせいだろうか。
両腕でぺたぺたと撫でる。ぎこちなく触っていると、突然両腕で抱え込まれた。腹に顔を押し当てる姿勢になる。膨らんだ腹に縋っていると、ふわふわと頭を撫でられて、ルキアは目を閉じた。
いのちの、音がする。
それが彼の命なのか、それとも彼を守る母親の命なのか、ルキアにはわからない。
「これから、どうするの」
「まだ、わかりません」
「そう」
ゆらゆらと、頭の上で白い手が踊る。押し付けた耳からは、はっきりと命の脈打つ音が聞こえる。ルキアはどこか夢見心地で、言葉を紡いだ。この場所に来てからの何もかも、現実感が無かった。死んでしまったはずの、まぼろしのような人と一緒にいる。
「あなたを、許すわ」
不意に落ちてきた声に、ルキアは伏せていた目を、少しだけ持ち上げた。笑いになり損なった吐息を漏らして、ルキアは口を開いた。
「心にもないことを、言ってはいけません」
「バレた?」
ふふ、とまぼろしの母親は笑った。その心の動きが、何となく伝わってくるのは不思議だった。彼女は、しんから面白がっている。
「それが言えるのは、私じゃないもの」
「……ええ」
許しを与えられるのは、彼以外にはあり得ない。そしてそれは、もう与えられていた。
ルキアはぼんやりと、過去の記憶を追った。彼に出会った頃、彼と離れた頃、そして、再び出会った頃。隊長と副隊長になった頃。出会うたびに、何度でも救われた。