ルキアは真っ黒な世界で目を覚ました。ここがどこなのかわからず、暗闇に目を凝らしていると、突然目の前が明るくなった。暗い空間の中で、目の前の四角形だけが明るい。不思議なスクリーンの中に、映画のようにどこかの風景が流れ始める。映しだされているのは、彼の辿った歴史だ。
彼の目の前で、かつて少女の兄だった化物は、少女を襲った。鳥の中に魂を押し込まれた少年が、化物に追い立てられた。傷ついている。苦しんでいる。空の割れ目から、大きすぎる化物が姿を現した。愚かな死神が、捕らえられた。
胡散臭い男が強くなれば良いと笑う。そうして、彼は人から一歩遠のく。
死神たちが彼の前に現れる。髪の先に鈴をつけた、異形の死神が笑う。赤い髪の死神が叫ぶ。誇り高い黒髪の死神が立ちはだかる。
禍の元凶が正体を明かす。そうして、彼は死神から一歩遠のく。
白い仮面の集団は彼を誘った。白い装束の集団は彼の仲間を襲った。少女が連れ去られた。仲間たちは集い、そして戦った。異形の悪魔に、迫る絶望に、少女が涙を流した。そして、叫ぶ。
助けて。
仲間たちが彼を待つ。彼は希望だ。禍は、神になると言って笑った。対抗できるのは彼しかいないと、仲間たちは信じた。
そうして、彼はひとりで犠牲になる。
やめてくれ、とルキアは叫んだ。
やめてくれ、やめてくれ、彼は人間だ。ただの人間だ。まだ大人になりきれない、ただの子どもだ。やめてくれ。
誰かが助けてと叫ぶたび、彼は人から一歩遠のく。誰かが彼を信じるたび、彼は人間から遠ざかる。
彼は夢ではない。彼は希望ではない。彼は人間だ。彼はまだ子どもだ!
やめてくれ、やめてくれと何度も叫ぶと、目の前の景色が歪んだ。
はじまりの光景だ。自分たちが、初めて出逢った瞬間の光景だ。全身から力が抜けて、ルキアは膝をついた。刀が、彼の胸に添えられる。じりじりと近付く。そして、貫く。
ルキアはゆっくりと自分の両手を見た。彼を人間から遠ざけたのは。引き金を引いてしまったのは。
自分だ。
叫びだしたかったが、声は出なかった。手を見つめていると、不意に、誰かの声がした。
(……不幸かしら?)
不幸に決まっている。彼の歩いた道は、誰よりも険しい。流れる血と剣戟。ただの子供に、そんなものを押し付けた。
(それを決めるのは、心だけ)
(あなたの心は)
彼を戦いの中へと突き落とした手を胸に当てる。胸の中から、声が聞こえた。
はっきりとした声に、ルキアは顔を歪めた。
自分の幸せは、きっと彼を悲しませる。
それでも。
願うのか。
私は。
胸に当てた手を握りしめ、ルキアは祈った。こんなにひどいことはないだろうと思った。彼の幸せを祈るのではなく、自分に彼の幸せを祈らせて欲しいと祈った。
その望みは、叶わなかった。ルキアはその間、ずっと彼の不幸を望んでいた。心が叫ぶ。
……逢いたい!
ルキアは目を開けた。呼吸が乱れている。ひどい夢を見ていた。
しばらくは横たわった姿勢で息を整えていたが、意識を失う直前のことを思い出すと、ルキアは跳ね起きた。外套が脱げていれば、自分の霊圧が露見してしまう。咄嗟に自分の服を確認した。どうやら外套は着ていたが、腕を持ち上げれば、黒い外套の下に、むき出しの腕が見えてルキアは面食らった。反射的に視線を下にずらして身体を確認すれば、黒い外套の下に、衣服は何も着ていない。裸に外套という奇妙な格好で、ルキアは真っ白なシーツの敷かれたベッドに寝かされていた。
「な、な……!」
外套の前をかき合わせ、ルキアはあたりを見渡した。懐に仕込んでおいた呪具や薬の類は、サイドテーブルに綺麗に並べて置かれていた。テーブルの隅に、木でできた小さな置時計が置かれている。それは丁度、6時を指していた。
ここがどこなのか、考えるまでもなかった。ルキアはこの場所をとてもよく知っていた。いつか、今自分がいるこの部屋は、長男のものとなる。
「あら、起きた?」
ドアが開き、笑顔の母親が姿を現した。何から尋ねて良いかわからず、ルキアは口ごもる。それを察したのか、彼女は自ら朗らかに種を明かした。ゆるく波打つ髪が、楽しそうに揺れている。
「あなたは、ずっと寝てたの。丸一日とちょっとかな? 黒い服はお洗濯しました。脱がせるときも、ちゃんとコートは着せてたし、見てないから大丈夫。あと、旦那さんは仕事の用事で留守。今日の夜遅くに帰ってくる予定です。私のことが心配だ、泊まりなんて嫌だ、ってゴネるから面倒になって、無理矢理送り出しちゃった。あなたに会ったのもね、送った帰りだったの。で、これ」
真っ白な塊を押し付けられ、ルキアは慌てた。それは、綺麗に畳まれたバスタオルとタオルだった。ほのかに洗剤の匂いがする。
「え……?」
「お風呂、わいてるから。で、その後はご飯ね」
「あの……」
「なに?」
無邪気に首を傾げられ、ルキアはまたしても反応に困った。結局ぼそぼそと口をついて出たのは、割とどうでもいいとさえ思える、ささやかすぎる疑問だった。
「その身体で、ここまで私を運んだのですか? あと、これを着たまま脱がせるって、どうやって……」
「ひみつ!」
母親はうふふと笑った。妙に元気の良い回答を聞けば、いよいよルキアは何も言えなくなって眉尻を下げた。その表情を誤解したのか、母親も不意に困ったような顔になった。
「もしかして、それが脱げないから、お風呂に入れない?」
「……いえ、そういうわけでは」
浦原の作った呪具を横目で見ながら、ルキアは正直に答えた。神妙な顔をしていた母親は、安心したように再び笑顔になった。
「良かった! じゃあ行ってきて!」
「あの、え、あ、はい」
彼女の勢いに引きずられ、ルキアは立ち上がった。どうやら、風呂に入るのは決定事項らしい。外套が脱げるように、気配を消す呪具を選り出しながら、ルキアはちらりと母親を盗み見た。
不思議な女性だ。腹に子どもがいるから、活力も二倍になっているのだろうか。旺盛な生命力は泉のように彼女から溢れ、彼女が入ってきた瞬間、部屋の明るさが倍になったようだった。明るく優しい空気は、ルキアの心を少しだけ温めた。
「あ、そうか。忘れてた。私、真咲。黒崎真咲っていうの。あなたは?」
「ルキアです。……朽木、ルキア」
「綺麗な名前ね」
ルキア、ルキアと何度も呟いて、真咲は膨らんだ腹を撫でた。優しく微笑み、まるで我が子に語りかけるように。
「冬の夜空から落ちてくる星の光をかき集めたら、きっとそんな音になるわ」