勢い良くどこかに叩きつけられ、ルキアはうめいた。恐ろしいほどの時間をかけて断崖を抜け、どこかの空間に出たと思った瞬間、虚はどろりと溶け、再びその姿を隠してしまった。虚に突き刺した斬魄刀で体勢を支えていたルキアは、空中に投げ出された。受け身を取れなかったのは、身体がいうことを聞かなかったせいだ。腕輪を取ってからどれだけ時間が経ったのかわからないが、身体がゆっくりと軋んでいく感触に、ルキアは眉をひそめた。懐から、ひとつの小瓶を取り出す。中和薬というラベルの付いた瓶の中身を、ルキアは一気に飲み込んだ。
「……っ!」
急激に変わった世界に、心臓が脈打つ。自分の鼓動の速さに慣れるのに時間がかかった。なんとか息を整え、目の前にあったものに手をついた。そして、それが何なのかに気づき、ルキアは目を見開いた。目の前に広がっている光景には、見覚えがあった。ルキアが手を付いているのは、空座町に佇む家の塀だ。
全身から力が抜けたのは、身体の軋みだけが原因ではない。
ルキアはその場に座り込んだ。目の前に、空座町の風景がひろがっていた。ここは、いつの空座町なのだろうか。答えは、すぐにもたらされた。背後に人の気配を感じ、ルキアは振り返った。そして、息を呑んだ。
太陽を背にして、ひとりの母親が、ルキアの目の前に立っていた。白い日傘を持つ母親の輪郭は、太陽の光で金色に縁どられている。
いや、まだ母親ではない。彼女は大きく膨らんだ腹を撫でながら、ゆっくりと笑んだ。その目は、ルキアの姿を完全に捉えていた。ルキアは霊体で、しかも霊圧を完全に遮断する外套を纏っているにも関わらず。
うまく息ができない。膝立ちのまま、ルキアは硬直した。けれど、視線は一点に注がれている。それが妹たちである可能性は、少しも考えなかった。見た瞬間に、そこに居るのが、彼であるとわかった。
「どうしたの? ああ、この子。もうすぐ生まれるわ。きっと、男の子よ」
ルキアは口元を覆った。口が開きかけたが、何の言葉も出てこなかった。彼女に何を伝えようというのだろう。そして彼に、何を伝えようというのだろう。
「辛いことがあったの?」
「……何も、できなかった。いつも、私は、何もできない」
自分は殺せなかった、このままでは死んでしまう、優しい人達が。
導かれるように、ルキアの口からは詰まっていた言葉がこぼれた。
「死んでしまった人は、本当に不幸かしら」
死んでしまった人は、首を傾げて尋ねた。何の含みもない声は、無邪気ですらあった。
質問の意味がわかりかねて、ルキアは戸惑った。もう一度、母親は全く同じ言葉を紡いだ。
死んでしまった人は、本当に不幸だったのか。
不幸に決まっている。
「不幸、でしょう。だって、死んで」
「そうだとして、それを決めるのは、何かしら」
「なに、を」
母親は笑った。7月の鮮やかな陽光を受けて、汗ひとつかいてはいなかった。初夏のはずなのに、ほとんど肌寒く感じて、ルキアは無意識のうちに外套の前をかき合わせた。
「あなたは、今、幸せ?」
「……はい」
「何かが変わって、あなたは、もっと幸せになれる?」
「……は、い」
不幸が起きない世界の自分は、きっと今よりもずっと幸福だろう。死んでしまった人たちが、笑っている。自分は死神にならないかもしれない。なるのかもしれない。死神になったとすれば、死んでしまった人たちの横で、自分も笑っているはずだ。
死神となった自分が、隊舎を歩いている。同じように死神になった彼を見かける。彼がこちらに向かって歩いてくる。自分も歩き続ける。距離が近付く。どちらともなく、何となく目が合う。距離は更に近付く。自分も彼も、歩みを止めはしない。
そして、すれ違う。何事も無く。何の感慨も無く。
「嘘」
声は、はっきりとルキアの中身を暴いた。白く細い手が、ルキアの胸の中心に当てられた。軋む心に、直接触られている。その感覚に、ルキアは慄いた。必死に考えて、ルキアはその声に抗った。いくら考えても、他の答えは出なかった。
「嘘、では、ありません。私は、幸せに」
「それは、頭で考えたこと。でも、ここは?」
ぐい、とルキアの胸に添えられた手に力が篭った。相変わらず、彼女はにこにこと笑い、その目はまっすぐにルキアを見ていた。
「幸せか、不幸せか。それを決めるのは、心だけ。死んでしまった人が不幸かは、本人にしかわからない。あなたは、幸せになれる?」
柔らかな声がルキアを撃ち抜く。ぎしぎしと、身体が軋む。違う、軋んでいるのは。軋み続けていたのは、心だ。心が悲鳴をあげている。心はずっと叫んでいた。その言葉から、何度も耳を塞ごうとした。望んではいけないことだと知っていた。
「あなたの心は、何て言ってる?」
駄目だ駄目だ駄目だ。頭が声をせき止めようとしている。けれど声は押し出された。細胞のひとつひとつが、脳の命令に抗った。その言葉は、朽木ルキアという魂が口をきいたようだった。
「あいたい」
呟きと共に、ルキアの表情が壊れた。
たとえ誰が死んでも、誰が不幸になろうとも、たくさんの悲劇の果てで自分たちが出逢ったのだとしても、ルキアは幸福だった。そして、死んだ人が生き返っても、辛いことなどひとつもなくても、出逢えぬのならば、それは不幸だった。
逢いたい、どうしても逢いたい。逢えなかった時の自分など、想像すらできないから。それくらい、自分の記憶は、魂は、オレンジ色で埋め尽くされていた。
自分に出会ったら、彼は不幸になってしまう。彼はまるで生贄のようだ。この世界の全てのために、全ての命のために捧げられる。けれど。それでも。
「逢いたい……」
魂は、自分勝手な願いばかりを吐き出した。封印していた心を解き放てば、もう、止めることなど出来なかった。
「一護……!」
くしゃくしゃに顔を歪めて、ルキアは目の前の女性に縋った。母親は笑みを絶やさずに、それを受け入れた。膨らんだ腹に頬を押し付け、ルキアは強く目を閉じた。頭の上に、手が置かれる感触があった。頭を優しく撫でる手を感じながら、ルキアの意識は闇に呑まれた。