コンは大きくため息を吐いた。今までの仕事ぶりに抜かりは無かったはずだが、細い糸の上を歩いているような緊張感はどうしようもない。
「大丈夫か」
「大丈夫じゃねえよ。オラ、行くぞ。さすがにそろそろ行かねえとヤバいだろ」
いかにも気だるそうに頭を振る姿は、演技ではない。ルキアの姿をしたコンを気遣う一護の姿もまた、演技ではなかった。
一人足りない。その事実は、一護とコンを着実に追い詰めている。けれど一護は、この仮初の生活を続けることを選んだ。
コンの姿を見つけ、隊員が気遣う声をかける。それを儚げな笑顔で捌きながら、コンは仕事へと向かった。本当なら、神妙な顔で後ろをついてくる一護に蹴りでも入れたいところだが、ぐっと堪えた。それは、今ここに居ないもう一人の役目だと知っている。
コンを気遣いながら隊舎の廊下を歩いていると、一護の感覚にある死神の気配が引っかかった。まずい、と思った瞬間に、反射的に手が動く。誰にも見えぬ速度で閃いた指先はコンの首筋にあたり、その場で昏倒したコンを、一護は抱え込むようにして支えた。
「おい、大丈夫か」
突然倒れた小島花子の姿に、周囲がざわつく。一護自身も心配するような素振りを見せてから、気絶しているコンを抱え上げると、とにかく部屋に連れていくと言い残して、一護はその場を後にした。背後に、浦原喜助の視線が突き刺さっている。思わずしかめた表情を、周囲は心配しているからだと誤解した。
浦原は、視線の先で起こった出来事をじっと見つめていた。眼鏡の二人組が視界に入った瞬間、片方が倒れた。そして、倒れた相棒の身体を浦原の視線から隠すようにして、背を向けたもう片方は立ち去っていった。
浦原に見えるのは、二番隊の装束に包まれた足先だけだった。二人組が視界から消えても、浦原はしばらくその場を動かなかった。口元に手をあてて考えこみ、何かを納得すると、身を翻して隊首室へと引き返した。先程まで居た場所だ。案の定、主はまだ床の上に転がっていた。
「よーるいーちさん。暇です?」
「はあ?」
「ね、さっき、小島サンが一瞬来てたんスけど、倒れちゃったんスよ。可哀想に。というわけで、お見舞いに行きません?」
「はああ?」
夜一は間抜けな声をあげて、浦原を見た。夜一の記憶によれば、こういった他人を思いやるといった行為は、元来頭から抜け落ちている男である。
浦原の方は、自分の行動の不自然さに気づいていないのか、にこにこと笑っている。しかしその瞳は、煌々と光っていた。
幼馴染の目的はわからなかったが、夜一は頷いた。
この男は、何かを掴んだ。それが、最近立て続けに起きている、厄介な出来事を解決する糸口になるかもしれない。
「……お前ふざけんなよ」
「……悪い。痛かったか?」
ルキアの顔を容赦なく歪めて、コンは一護に毒づいた。首元に衝撃があってからの記憶は無いが、自室に運んだのも布団に寝かせたのも、勿論一護だろう。
コンは首を振った。頭はまだぼんやりしているが、痛みはない。はあ、と息を吐いて目を閉じた。一護が心配そうに自分を見守っているのが気持ち悪い。それを素直に口に出そうとした瞬間、部屋に響き渡った声に、一護とコンは硬直した。
「もしもーし。お見舞いに来ましたヨーン。あ、夜一さんもいます」
呑気な口調が、ここまで凶悪に聞こえたためしは無かったような気がする。気配を探れば、たしかに自隊の隊長と第三席が部屋の前まで来ていた。コンが無言で、どうするんだと訴えている。
「……とにかく、寝たフリしてろ。絶対に起きるな」
「……おう」
外に絶対に聞こえないにも関わらず、潜めた声で会話を交わすと、一護は部屋の隅に仕込んであった呪具を懐に仕舞った。これで、他人もこの部屋に入ることができる。部屋の中まで入れるつもりはないが、何をしてくるか予想がつかない相手ではある。
「……申し訳ないんですけど、今、アイツちょっと寝てて」
「そうなんスか? でもアタシ達、全然彼女の顔見れてなくて寂しいんスよ。ちょっとだけ覗いて行っていいっスか? すぐ帰りますんで」
へらへらと笑いながら、浦原は閉まりかけた襖に手をかけた。笑ってはいるが、襖を開こうとする力には、有無を言わせぬものがある。夜一に助けを求める視線を送れば、諦めろと言わんばかりに肩をすくめられた。数秒考えたが、一護は覚悟を決めた。隊舎で浦原の気配に気付いた瞬間に、括っていた腹ではある。
「わかりました。どうぞ」
「おじゃましまーす」
「邪魔するぞ」
二人の訪問者は、ずかずかと部屋に入り込んだ。荷物の少ない和室の中心には、ルキアの義骸に入ったコンが、言いつけ通り布団の中で寝たフリをしていた。
傍に座り込むと、浦原は口に手をあててしばし考え込んでいた。夜一も浦原の意図を察しかねていたが、黙って好きなようにさせていた。
茶の用意でもした方がいいのか、と立ち上がりかけた一護を止めたのは浦原だった。仕方なく、導かれるままに、一護も浦原の隣に腰を下ろした。
「あ、お茶はいいっスよ。でも、ちょっと聞きたいことがあるんスけど、いいっスか?」
「……どうぞ」
黒縁眼鏡の奥で、一護の瞳が細められた。浦原の目は、不気味に輝いて、相変わらずコンを凝視している。そういえば、この男と本気で騙し合いをしたことはなかったな、と一護はぼんやり思った。いつだって、一方的に騙されて利用されてきた関係だ。
「コレ、どうしたんスか? 誰が作ったんスか? ……こんな義骸を?」
余計な探りを入れず、一気に本題に入った浦原に、一護は戸惑いの表情を取り繕った。咄嗟に夜一が浦原を見たが、コンを凝視し続ける男は、それすら視界に入っていないようだった。
「何のことです? 義骸?」
「見事なモンっスねえ……。 こんなの、ボク以外に作れるとは思えない」
「喜助。それは本当か?」
「ええ。コレは間違いなく、偽物。……ねえ、質問には答えてくれないんスか?」
空気が張り詰め、部屋の隅にあった湯呑みが、ぱしりと音を立てた。一護は、表情を変えずに浦原を見つめていた。夜一が、獲物を狩るときの目で一護を見た。
「……クソッ!」
「!」
張り詰めた空気に、真っ先に耐え切れなくなったのはコンだった。布団を蹴り上げ、そのままの勢いで浦原の頭に蹴りをくれてやろうとしたが、片手で防がれた。それどころか蹴った足を掴もうとする気配を感じて、コンは部屋の角へと飛び退いた。左右の壁を足場にして、巨大な蜘蛛のように壁に張り付く。その頬からは、たらりと血が流れていた。壁に、小さな棒手裏剣がふたつ、突き刺さっていた。
「動くな」
一護を見据えながら、浦原は告げた。全身には殺気が漲り、普段の軽薄さはどこかに消えている。
一護の方は、右手から血を流していた。握りしめた左手首は、夜一によって拘束されている。
「……浅野。説明してもらおうか」
眠っていたはずの病人が跳ね起きた瞬間、夜一は反射的に暗器を投げていた。確実に急所を仕留めるはずだったそれは、横に座っていたもう片割れの手により弾かれ、軌道を逸らされた。
席官ですらない部下の動きは、隊長格と並べても遜色ないものであることを、夜一は認めねばならなかった。何より、この浦原の殺気に眉ひとつ動かさぬ者が、只者であるはずがなかった。夜一の瞳が物騒な色を帯びる。緊迫した空気の中を、浦原の声が通った。殺気だけはそのままに、普段通りの呑気な口調が、かえって不気味だった。
「この威力……。普通の義魂丸じゃ無いっスね。改造してあるんスか?」
コンの蹴りを防いだ手をさすりながら、浦原は笑った。一護はそれを冷めた目で見ていた。態度の変わらぬ一護を、夜一は訝しんだ。
「余裕じゃな。自分の置かれた状況がわかっておるのか? 今に刑軍が駆けこんでくるぞ。儂の霊圧の変化を見逃すあやつらではない」
「ああ、この部屋、外に霊圧漏れねえようになってるから。多分誰も気づいてねえな」
「何!?」
「まったく……」
夜一が驚いた一瞬の隙をついて、一護は握りしめた拳を開いた。それだけで、状況は逆転した。一護の手から落ちた丸薬が煙を吹き出し、夜一と浦原は、その場に崩れ落ちた。意識はある。けれど、身体が言うことをきかない。予想外だったのか、浦原も目を見開いていた。
「なにを、した……?」
「麻酔……? 噴霧型の……?」
一護は大きく息を吐き出すと、身体の力を抜いた。コンも壁から降りると、為す術なく畳の上に転がっている二人を見下ろした。
「……あんな一瞬で気付くなよ、変態」
ぼそりと呟いて、一護は懐から記換神機を取り出した。ルキアと二人で分けた記換神機には、それぞれ2回分の中身しか入っていなかった。つまり、自分の分はこれで打ち止めだ。
コンと共に隊舎を歩いていた時、浦原の気配を感じて、反射的にまずいと思った。そして、意識を失ったコンを抱えて歩きながら、どこかで諦めてもいた。それは、自分の師匠への、信頼にも近かった。
あの男は、気付いた。
一護の確信は果たして正しかった。もっとも、当たっても嬉しくはない。