大きなクッションを抱きしめて、夜一は隊首室で横になっていた。この上なく寛いで見えるが、表情は固い。苛々とクッションの布地を引っ張っていると、間近で声が聞こえた。近づいてきているのは知っていたので、夜一は突如現れた闖入者を、ちらりと横目で眺めた。

「澱んでますねえ、空気」
「ノックをしろと何度言えばわかる。プライバシーの侵害じゃ」
「そんなモノしなくても、気付いてたじゃないッスか。あと、職場に自分の家と同じレベルのプライバシーがあるとでも思ってるんスか?」
「うるさい」
「不機嫌っスねえ。何が気に食わないんスか」
「何もかもじゃ。何もうまくゆかぬ」

 抱えていたクッションを浦原に投げつける。寝転がったままだったので、クッションは浦原の膝のあたりにかるくぶつかっただけだった。足元のクッションを拾い上げると、浦原は面倒くさそうな気配を隠そうともせず、その場に腰を下ろした。

「……何じゃ」
「別に。ボクがいないと愚痴も吐けないなんて、面倒くさい隊長だなんて思ってないスよ」
「莫迦にしておるのか」
「してますよ。皆が心配して仕事にならないじゃないッスか。で? 忠誠なる部下の皆サンを遠ざけてまで、何を考えてるんスか?」

 はじめから夜一の癇癪に付き合う気がない浦原は、さらりと本題に斬り込んだ。夜一の表情から子どものような苛立ちが消えて、何かを思案する表情に変わる。長い付き合いだ。子どものような癇癪が、実は隊員を寄せ付けぬためのポーズであることを、浦原はとっくに見抜いていた。
 がばりと身を起こした夜一は、軽く握った拳を口元に当て、妙なことがある、と呟いた。

「夜一サンがあっさり負けた虚の件っスか?」
「腹の立つ言い方をするな。報告書は回っているだろう。虚ではなく、妙な影法師にやられた。あっさり、な」
「ああ、そうそう。まさか、その影法師が、遠ざける理由?」
「そのまさかじゃ。報告しておらぬことがある」

 夜一の顔は忌々しげに歪み、浦原は次の言葉を待った。

「……その影法師は、空蝉を使った」
「隠密歩法、っスか」
「それだけではない。……吊柿まで使いおった」
「だから、っスか」

 吊柿は、夜一の生み出した技だ。それを知り、なおかつ使用できる者は、二番隊の隊員以外には考えつかなかった。浦原が頷いたのを見て、夜一はがしがしと頭を掻いた。腑に落ちぬことは、それだけではない。

「喜助。儂と席官……それも、副隊長になろうかという席官を同時に相手にして、顔も見せず、一切の攻撃も受けず、倒すことができるか」
「無理ッスね、多分。海燕サンはともかく、夜一サンが辛い」
「だが、あの影はそれをやった。儂の部下に、そんなことができると思わぬ。だが、あの技を使えるのが、全く知らぬ者であるとも思えぬ。誰か、力を隠して潜んでいる者がいるのかもしれぬ。そうやって、あやつらを疑わねばならぬのが、つらい」

 浦原は無言だった。その沈黙の意味を哀れみととった夜一には、同情するなと睨まれた。けれど実際には、浦原の脳裏に浮かんでいたのは、席官ですらない隊士の姿だった。
 力を隠して、潜んでいる。その言葉が、浦原の中で疑惑ですら無かった小さな感情とぴたりと一致した。

「……そういえば、浅野サンと小島サンって、どうなりましたっけ?」
「なんじゃ、突然。お主が人の名前をちゃんと覚えるのは珍しいの。……あっちもうまくいかぬ。全く、やりきれぬことばかりじゃ」

 隊長が虚に襲われる、という緊急事態の数日後、そのニュースは唐突に舞い込んだ。二番隊が緊張に包まれていたなかでの明るいニュースは、少しだけ隊士の心を軽くした。
 浅野太郎が、戻った。
 虚に跳ね飛ばされ、流魂街で意識を失っていたらしい。見つかった場所は、虚が出た場所からずっと離れていたが、彼にはあの瞬間の一切の記憶がなかった。
 何が起きたかわからないというところも、ずっと意識を失っていたところも、あの時前線に出た他の隊士や、小島花子の症状と一致していたため、夜一はその報告を信じた。
 彼の姿を見たとき、夜一は胸のつかえが下りるような心地がした。すぐに小島に会いに行くことをすすめ、これでひとまず安心した、と喜んだ。
 しかし、この件はそう簡単には収まらなかった。浅野太郎が戻った直後、小島花子が体調を崩し、倒れた。
 元々、身体の具合が良くなかったらしい。思えば、浅野太郎が戻る数日前から、夜一には彼女を見た覚えがなかった。それでも仕事はこなしていたらしいのだが、ここ数日は、完全に臥せって、部屋から出られずにいる。

「こんなことになるとは思わなんだ」

 彼が戻れば、彼女は元気になると思っていた。安心したせいで、今まで無理をしていた身体が一気に悲鳴をあげたのだと人は言う。まったく、やりきれない話だ。
 浅野の方はといえば、こちらは体調を崩す気配も見せていない。せめてもの救いだ。

「ふうん」
「お主から聞いておいて、気のない返事じゃの。何かあるのか」
「いーえ、別に」
「そうか」

 浦原が夜一の真意を見抜いたように、夜一もまた、浦原の気のない返事は、何かを考え込んでいるのだと悟っていた。しかしそれ以上の詮索はせず、夜一は自分の考えに没頭した。現れた正体不明の虚に、気絶させられる死神。そして、現れた気配のない影法師。

「……同じ虚かもしれんな」

 それからしばらく、二人の幼馴染は無言で考え込んでいた。




<前へ>  / <次へ>