視界の端に断崖の裂け目を見つけた一護は、黄色いぬいぐるみをしっかりと握りしめると、襲いかかる衝撃に耐えた。
どこかの空間へと放り出される。構えていても、全身を押し潰されたような衝撃がきた。
「……ぐ、ッ」
放り出された瞬間、しっかりと突き刺していたはずの斬魄刀から手応えが消えた。二度目の感触に、一護は刀を振り回した。しかし、虚を捉えることはできなかった。虚は再び輪郭を崩し、気配を消していずこかへと消え去った。
「くそっ!」
一護は苛立ちのままに舌打ちして、周囲を確認した。重い雲の垂れ込める、不気味な夜だ。何気なく視線を落とした足元に、死神が二人転がっている事に気づいて、一護は目を見開いた。
「な、んで」
「ネエさんだ!」
手の中のぬいぐるみが騒ぎ出し、一護は視線をそちらにうつした。コンは衝動の赴くまま、一護の手をぽかぽかと殴っている。まるでダメージは無いのでそちらは放置し、とにかくコンに説明を促した。
「ネエさんは、藍染を殺そうとしたんだよ! でも、虚が出て、来てみたらこいつらがいて…… ネエさんがこいつらの動きを止めた」
「じゃあ、ここは今までルキアがいた場所ってことか……」
一護は片手で顔を覆うと、考えを巡らせた。ルキアは消えてしまった。そして、今倒れている二人の記憶は消えていない。自分の持っている記換神機で、とも考えたが、2回しか使えない記換神機を、今ここで使い切ることは躊躇われた。
「コン、ルキアの義骸に入れ。んで、しばらく部屋に引きこもってろ。俺は流魂街にしばらく隠れてから、そっちに戻る」
なるべく、虚と自分たちは無関係だと思われたかった。怪しまれれば、動き辛くなる。
一護の簡単な指示に、コンは鼻を鳴らした。そして、一護の頬を思い切り殴った。ぽふん、と音がして、ダメージは露ほども与えられなかった。
「引きこもってろだ? ふざけんな! 俺様もネエさんと一緒に修行してたんだよ! ネエさんの代わりくらい、誰にも見抜かれずに、完璧にやってやるよ!」
「は? オマエそんなことしてたのか?」
「当ったり前だ! まあ、テメーの義骸だったら、女風呂覗いたり女の尻もんだりしてやるけどな!」
「……」
「痛い痛い何しやがる! 綿が出る!」
「……任せる」
「何神妙なツラしてやがる。心配しなくても、こいつらとか、あの変態下駄帽子の前には出ねえよ」
コンは、ぷいと一護から視線を逸らした。コンの姿に何故か違和感があって、一護は怪訝そうな顔をした。
「おい、どうした」
「……ネエさんは、殺そうとしたんだよ。よりによって、俺様の前で、殺そうとしたんだよ! ふざけやがって! 認めねえぞ! 殺すのなんか認めねぇし、過去を変えるのだって認めねぇよ。だって、俺様は、俺様は、テメーらが助けてくれたんじゃないのかよ! 過去が変わったら、テメーらに会えねえじゃねえかよ。ふざけんな」
最後の声は、ほとんど消え入りそうだった。コンの言葉に、一護は目を見開いた。何と声をかければいいのかわからない。叶わなかったとはいえ、自分もまた、彼女と同じように、過去を変えようとした。変わればいいと願った。
「それ、あいつに言ったのか」
「言わねぇよ。言えるわけねぇだろ、クソ」
自分の目の前で、殺すという選択をしたルキアを、責めることはできなかった。あの時のルキアの絶望と葛藤は、細かく震える彼女の姿から伝わった。そして、彼女は自分にそばに居てくれと言って、ぎゅうと抱き締めた。変わってしまう未来が、恐ろしかったのは彼女も同じだ。絶対に離れぬように、自分を己の身体に括りつけたルキアを、思いとどまらせることはどうしてもできなかった。
仕方が無いのだと、頭ではわかっている。けれどコンの心は、ルキアの選択を嘆いていた。未来が変わってしまうなんて嫌だと叫んでいた。
「それ、あいつに会ったらちゃんと言ってやれよ」
「わかってるよ。ホントは言わなきゃいけなかったってこともな。……ああウゼエ! しんみりした顔すんじゃねぇよ! 気色悪いな! さっさと行け! 俺様も行く!」
似合わぬことを言ってしまった自覚があるのか、コンは突然大声を出して会話を打ち切った。一護は苦笑して、そうだな、とだけ言った。
本当は、コンにありがとうと言いたかった。それをしないのは、コンへの礼儀だ。
「……無茶すんなよ」
「もう十分無茶だっつーの。まあ、これ以上無茶するときは、十秒前には教えてやるよ」
「……おう」
コンの言葉に、零番隊の掟を思い出す。少しだけ、足元が定まった気がした。自分たちには、あの虚を倒すという任務がある。他のことを考えるのは、もう少しだけ後でいい。
「じゃあ俺様は行くぜ。もうすぐ、ここにも誰か来ちまうだろ」
足音も立てず、ぬいぐるみは隊舎の方角へと消えていった。一護もまた、無言でその場所を後にした。
移動しながら、一護は何となく自分の胸に手をあてた。その中に、母の言葉がひそやかに息づいている。
母親を守れなかった。だからいつも、無力感に苛まれていた。いつかこの絶望が、終わる日を夢見ていた。時間を時計ではなく感覚で測るのならば、母が死んでから死神の力を手に入れるまでの六年間が、おそらく一番長かった。
一護は、はじめてこの場所に辿り着いた時のように、周囲を見渡した。この世界の全てが、あやうい均衡を保ちながら、あの瞬間に繋がっている。
遙か先にある未来の光景を、全てのはじまりの瞬間を、一護ははっきりと思いだした。その刹那、脳裏を横切った疑問がある。
彼女と出会ったのは、はじまりだったのか、おわりだったのか。