ルキアは、震える身体を抱きしめながら、じっと時が過ぎるのを待っていた。準備は整えた。自分の身体に紐で固く括りつけたコンは、もう何も言わなかった。すまぬ、と心のなかで何度も詫びた。けれど、余計な言葉を口にすれば、たちまち決心が鈍ってしまうことが分かっていたから、はっきりと口に出してコンに詫びることはできなかった。
 動くなら、皆が寝静まった深夜がいい。きっとあの男は、その時間帯を狙ってこそこそと動きまわっているはずだ。
 ルキアの背中を押すように、誂えたような曇天が頭上に広がっていた。月の光は地上まで届かず、息の詰まるような暗闇がルキアを包んでいた。
 どれくらいそうしていたのだろう。ずっと集中して追っていた気配が、不気味な素早さで移動をはじめて、ルキアは顔をあげた。
 気配は、誰も居ない森の中へと吸い込まれていった。ルキアは両足に力を込め、その場所へと駆けた。一度走りだしてしまえば、身体の震えはぴたりとおさまった。

(……見つけた)

 黒い外套の下から目を凝らし、ルキアはその男を確認した。自分もあの男の始解を見てしまっているが……あれは、本物だ。ルキアの喉元に、苦いものがせり上がる。男は笑っている。その瞳は、淀んだ欲望でぬらぬらと輝いていた。

「……無茶を、するぞ」

 ここにはいない隊長に、ルキアは小さく呟いた。無茶をする時は、十秒前までに事前申告するのが、零番隊の掟だ。
 きっちり十秒を数えてから、ルキアは懐に忍ばせた小瓶を握り締め、中身をぐっと一息に煽った。超人薬を呑んだ途端、世界が一変した。
 世界が止まった。ルキアは、まずそう思った。木の葉はそよとも動かず、何の音もしなかった。慣れぬ世界に戸惑っていると、ぞぞ、と低い唸り声のような音がどこからか聞こえた。それが風の音だと気付くまでに、とても長い時間がかかった。けれどそれも傍から見たら、一瞬の葛藤だったに違いない。
 ルキアは、己の腕から銀色の腕輪をもぎ取った。身体中に力が満ちるのを感じながら、斬魄刀を抜き、標的へと疾走した。

「……ッ!」

 標的まで、あと少し。けれどその瞬間、ルキアの感覚に引っかかった気配があった。
 なぜ、どうしてよりによって、今、この瞬間に。
 どうすべきか、という迷いは、はやり刹那の出来事だったのだろう。鋭く舌打ちして、ルキアは身を翻した。消えてしまったはずの、倒すべき虚の気配が、もどかしいくらいゆっくりと、鮮明になってきている。倒せるとは思っていない。けれど、行かねばならなかった。その仕事は、自分と彼と、あのぬいぐるみとで受けた任務なのだから。
 虚に向かってルキアは走った。その先に、見知った気配が2つあることに気づき、表情を曇らせる。だがそれも、ルキアの動きを妨げはしなかった。

「な、なんじゃ……!?」
「虚……!?」

 夜一と海燕は、突然現れた虚の気配に瞠目した。不気味な触手を持った虚は、現れるなり、夜一に攻撃を繰り出した。

「くそっ」
「水天逆巻け! 捩花!」

 触手を紙一重で避け、夜一は体勢を整えた。海燕も斬魄刀を開放し、虚に斬り込む。だが、虚に効いた気配はほとんど無かった。予期せぬ手応えの無さに、海燕は一歩引いた。
 その違和感は、虚の身体に蹴りを叩き込んだ夜一にも同様に伝わった。眉をひそめ、自分を狙う虚の攻撃を躱しながら、少し距離をとる。どうする、と思案していると、虚の上に、小さな黒い影が出現した。夜一は目を見開いた。
 これは、虚ではない。
 虚を足場にしてこちらを見下ろす影は、まるで虚を操っているかのように見える。影は身を翻し、己と虚の間に、音もなく着地した。その身に気配はない。

「何者じゃ!」

 黒い影は、何も言わなかった。味方とは思えない。ちらりと横目で確認すれば、海燕の目にも剣呑さが増している。

「答えろ! 答えぬなら、敵とみなすぞ!」

 ルキアは、どうすべきか考えていた。
 何故この場所にこの二人がいるのか。自惚れでないなら、おそらく自分を心配して、作戦会議でもひらいていたのだろう。
 二人が自分を見ている。その間にも、ルキアの足元では虚が夜一を襲おうとしていて、ルキアはひとまず、夜一と海燕の動きを止めることに決めた。
 顔を見られてはならない。残された記換神機は一回分だ。
 今更ながらに、砕蜂に記換神機を使ってしまったことが悔やまれた。
 夜一の口がゆっくりとひらかれる。ようやく自分の耳に届いた、地鳴りのような低い唸りは、彼女の声なのかもしれない。だが、何を言っているのか、ルキアにはわからなかった。

 無言で襲いかかってきた黒い影に舌打ちすると、海燕は影を斬りつけた。だが、素早い動きでかわされる。まるで、こちらの太刀筋を知られているかのようだった。その瞬間に、影の纏う外套の下から白い手首が覗き、海燕はわけもなく動揺した。あまりにも華奢で白い。子どもか、小柄な女の手に違いなかった。
 海燕の攻撃を避け、影は飛び退く。その着地地点には、同じタイミングで夜一が飛び込んでいた。
 いける、と確信を込めて放った夜一の鋭い突きは、影の身体にめり込んだ。影の身体から血が吹き出し、影が前のめりに倒れる。終わった、と思って動きを止めたところで、背後でひゅう、と空を切る音がした。飛び退くと、倒れたはずの影は真後ろにいた。影の倒れたはずの場所には何も無く、ただ草がそよそよと揺れている。

(これは、空蝉……?)

 何故この影がその技を使えるのか。改めて放った突きが、虚しく空を切った。驚くべきことに、小柄な影は、瞬神と謳われる夜一の攻撃を完全に見切っていた。
 舌打ちをして、夜一は身体をひねると、回し蹴りを繰り出した。その足の先に、一瞬だけ小さな手がふたつ添えられた感触がして、次の瞬間には、その白い手が目の前にあった。影は、夜一の蹴りを起点にして身体を翻し、息がかかりそうなほど間近へと詰め寄っていた。
 やられる。夜一は咄嗟に腕を交差させて頭を庇った。けれどあったのは予想していた衝撃ではなく、何かが一滴、頬に触れる感触だった。
 穿点か、と悟った瞬間にはもうどうすることもできず、夜一は崩れ落ちた。それを確認もしないまま、影は海燕に飛びかかった。虚の伸びた触手を踏み台にするその動きは、あたかも、虚を意のままに操っているかのようだった。

「ふざけやがって……!」

 海燕は捩花を大きく回転させて、影を振り払おうとした。けれど回転のさなか、捩花に軽い衝撃が走った。目を見開くと、影は捩花の刃先に軽やかに着地していた。そのまま、捩花の上を影はまっすぐに走った。すぐに捩花を振り回して影を追い払おうとしたが、遅かった。顔に液体がかかる。どうすることもできなかった。意識が、影と同じ真っ黒な闇へと引きずり込まれる。

 海燕が倒れたのを認め、ルキアは大きく息を吐くと、目の前の虚を睨んだ。紅い瞳は、暗闇のなかで漆黒の外套を着ているルキアを、はっきりと捉えていた。
 夜一と海燕を庇うようにルキアは立った。自分に何ができるかはわからないが、この二人は絶対に守らねばならない。
 ルキアは、虚の懐に入り込み、その身体に斬魄刀を突き立てた。予想通りほとんど効かず、すぐに触手に弾かれたが、立ち上がり、また虚を斬りつけた。どれくらい時間が経ったのか、超人薬に侵された感覚ではわからなかったが、何度でもそうした。
 何度となく効かない攻撃を繰り出していると、虚はふるふると震え始めた。この動きは、見たことがある。ルキアは咄嗟に、虚の身体に斬魄刀を突き立てた。するとその瞬間、虚はルキアごと空中に向かって突進した。
 あの時の一護のように、ルキアの背後で空間がねじれた。そしてルキアは、虚と一緒にねじれた空間の奥へと押し込まれた。


 有無を言わせぬ力で断崖を引きずられ、ルキアは目を細めた。体力は限界に近付き、斬魄刀を支える手が震えた。けれど、ここでこの手を離せば、ひとり断崖に取り残されてしまう。ルキアは歯を食いしばって衝撃に耐えた。
 目の前に、信じられないものを見た。
 今自分が斬魄刀を突き刺している虚と、全く同じ虚が、前方から突進してくる。その虚にも、自分と同じように、黒い外套を纏った死神がぴたりと貼りついていた。外套からこぼれる髪の色に、ルキアは息をするのを忘れた。

(一護!)

 もどかしいほどゆっくりと、二つの虚はすれ違った。その瞬間、たしかに自分たちの目が合った。ルキアは叫ぼうとしたが、声は出なかった。一護の口も開いている。何かを言っている。だが、聞こえない。

 地の底から這い上がるような響きが、おそらく彼の声なのだろう。その声を聞きたいと思った。けれど、何を言っているのか、どんな風に叫んでいるのか、どうしてもわからなかった。
 ルキアは斬魄刀から片手を離し、自分の懐を乱暴に探った。身体に紐で括りつけられていたぬいぐるみを取り出すと、一護に向けて、思い切り放り投げた。

「ギャー!!」

 強すぎる力で投げられたそれは、まっすぐに一護の手の中に収まった。一護との距離は、どんどん遠くなっていく。一護が必死に後ろを振り向いているのが見えた。
 ルキアは、少しだけ笑った。また遠くはなれてしまうことよりも、刹那でも巡り会えたことが、嬉しくてならなかった。




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