一護は振り向きざまに、浦原特製の呪具を放った。空中で4つに分かれたそれは、地面に触れるなり、強固な結界となった。四角く切り取られた空間の中で、一護は虚に迫った。

「邪魔すんな!」

 どこでどう回復したのか、ひとつだったはずの触手は3つに増えていた。背後を気にしながら戦っているせいで、一護の注意が逸れた。瞬間、頬に熱い痛みが走って一護は舌打ちした。
 触手を一本斬り落として、一護は虚に向き直った。そして、再び懐を探ると、邪魔な触手を避け、本体めがけて呪具を打ち込んだ。網目のように鬼道が広がり、虚の動きを妨げる。のたうち回っている虚を置いて、一護は駆けた。鬼道を掻い潜った触手が、一護の動きを阻む。それを避けながら、一護はもつれる足を懸命に動かした。
 

「……お、ふく、ろ」

 雨の中に、一人の母親が倒れていた。いや、まだ倒れきってはいない。両肘で身体を支え、彼女は僅かに上体を起こしていた。雨の匂いに混じって、血の匂いが鼻につく。身体が、がくがくと震えた。悪夢が、繰り返されようとしている。
 まだ生きている、まだ助かる。一護は震える身体を叱咤し、母に駆け寄ろうとした。けれど、足を踏み出した瞬間に聞こえた声に、まるで縫いとめられたように、それ以上動くことはできなかった。

「一護。一護。聞こえる?」

 瀕死の声は、土砂降りの雨の中で、恐ろしいほど鮮明に一護の鼓膜を打った。
 母親は、腕の中の子供に語りかけていた。その口調はいつもの優しい母のもので、一護はたまらなくなった。

「一護。下を向いては駄目。後ろを向いても駄目。さあ、行きなさい。大丈夫よ。どこに行っても、あの子が守ってくれるから。」

 母は、不思議なことを話していた。その意図がわかりかねて、一護は息を詰めて母親の言葉を待った。雨の音は、絞り出すような最期の声を、妨げはしなかった。

「一護。良い名前ね、一護。その名前は、あの子がくれたの。名付け親ね。一護はね、生まれたその日に、たわけって怒られたの。知らないでしょう」

 そんなことは、知らない。名付け親のことなど、聞いたことがない。
 一護はその場に立ち尽くしていた。母親の後ろ姿しか見えなかったが、その顔がいつもと同じ笑顔であることを、不思議と確信していた。

「どんなことがあっても、必ず守るって。いつだって、ひとりじゃないから、安心して進みなさい。心の出した答えを信じればいいの。あの子が、そうしたように」

 優しい言葉は続く。途切れぬ声は、死に瀕している人間とは思えない。母親はおそらく、自分に残された生命を、そのまま声にしていた。母親は、ほう、と息を吐いた。

「ああ、幸せね。私の夢は、家族と、あの子が叶えてくれたの。一護も、幸せになれる。だって、私の息子なんだから。悲しまないで、笑っていて」

 腕の中の息子の額に、血の気のひいた唇を押し当てるのと同時に、母親の手から、ずるりと力が抜けた。そのまま力尽きる母親を、一護はただ見守っていた。身体が動かない。声もでない。目の前で、殺してしまった。また。何も、できなかった。
 ぞろり、と背後で虚が動いた。弾かれたように、一護は振り返った。必死に前へと進もうとしていた虚は、方向を変えて、また中空へと飛び立とうとしていた。がむしゃらに触手を動かし、虚を覆っていた鬼道の網が壊れた。

「逃がすかよ!」

 空へと突進した虚の先で、空間が歪む。それを追って、一護もまたねじれた空間へと飛び込んだ。虚を追いながらも、母親の言葉が頭をちらつく。遺された言葉の、意味はまだわからない。けれどその言葉はたしかに、一護の背中を押した。一護は瞬歩で虚の背中に着地すると、その速度に飛ばされぬよう、しっかりと虚を掴んだ。再び、どこかへと連れてゆかれる。
 母親の言葉とともに、離れ離れになった相棒のことが脳裏を横切った。聞きたいことはたくさんある。けれど本当は、ただ、顔が見たかった。そうすれば大丈夫なのだと、勝手に信じていた。




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