どうすればいいのかわからないまま、日々は過ぎた。一護は、ここに来た時に辿り着いた、埃だらけの倉庫に身を潜めた。自宅には寄り付いていない。その姿をもう一度見てしまえば、どうなるかわからない。考えるだけで身がすくんだ。
 刻一刻と、時間が過ぎていった。あと少しで、あの人は死んでしまう。強くて優しい、母親が死んでしまう。喉がひりついて、一護は拳で床を叩いた。

「見殺しにしろって言うのかよ……!!」

 過去を変えてはいけないと、頭ではわかっている。けれど思いがけず示された可能性に、一護は唇を噛んだ。
 助けるための、力ならあるのだ。
 一護は幼い日のことを思い出していた。幼い頃、守りたいのは母親だった。その願いは叶わずに母親は死んでしまった。悔しくてならない。あの時の絶望は、たしかな痛みとして今でも一護と共にあった。
 
 止まない雨が恐ろしかった。昔、この街で、何度も眠れぬ雨の夜を過ごしたことを思い出した。雨の日に、眠れるようになったのはいつからだろう。そう思った瞬間、一護の脳裏に、相棒と過ごしたあの6月17日の記憶が、洪水のように溢れ出した。眠れるようになったのは、あの日の後からだ。脳裏に、ワンピースを着ているルキアの姿が翻った。

『おやすみ、一護』
『おー、おやすみ』

 雨の夜、自分たちはいつもと同じように、それぞれの場所で床についた。いつもより少し早かったが、いつも通りの声が出せたはずだ。押入れがパタンと閉まる音がした後は、雨の音しか聞こえなかった。
 いつも、夜が更けるとともに頭は冴えていった。覚醒する意識を持て余し、天井を睨んだ。いつも通りの、眠れぬひとりの夜にちがいなかった。
 頭の中には、母の仇のことが浮かんでは消えた。飛び起きて、叫びだしたい衝動を抑える。母の仇を討てぬことが、悔しくてならなかった。倒すべき相手を見つけても、雨の夜は、悔恨で自分をゆっくりと押し潰していた。
 逃れるように布団を被り、細く息を吐いてから、ふと、押入れの中のことが気になった。
 物音は何も聞こえなかった。眠りにつく、安らかな息遣いのひとつさえ聞こえなかった。そういえば、雨の夜に、押入れから物音の聞こえたためしが無いことに、はじめて思い至った。
 この生活が始まった頃は、好都合だと思ったような気がする。奇妙な死神は、こちらの気も知らずに呑気に寝こけているのだと思っていた。そうして、雨に怯え、ひとりの夜を過ごしてきた。
 不自然なほどの静寂に、眉をひそめる。そっと横を向いて確かめれば、そこには、しっかりと閉まった押入れがあるだけだ。彼女が起きているのか、確かめることはできなかった。雨が苛むこの部屋で、声を出せば、全てが砕けてしまうような気がしていた。
 彼女は、きっと起きている。
 妙な確信があった。けれど、きっとこれからも、確かめることはしない。眼を閉じて、押入れの中で、ひとり息を潜めている小さな死神の姿を想像した。頭がくらくらする。眠気は微熱のように、とろとろと身体を這い登った。
 まぶたの裏に、眠れぬ夜を過ごす死神の姿をはっきりと見た。ばーか、と声にならぬ声で呟いたところで、自分は眠気に身を任せることができた。次に目を開けたのは朝で、少し驚いた。

『おはよう、一護』
『おー』

 陽光の差し込む部屋の中で、ルキアの挨拶はいつもと何ら変わらなかった。日の光に目を細める彼女の姿からは、眠れぬ夜の匂いなどしない。目の下にうすい隈ひとつ浮かんではいなかった。全てをさらけ出す陽光さえも、ルキアは完全に欺いた。けれど、それは嘘だと確信した。

『目が赤いぞ、たわけ』
『ウルセーよ』

 自分よりも眠っていないはずの女は、不器用なことだ、と笑いながら自分の眉間をつついた。不器用なのはどっちだ、と思わず零れかけた言葉は、何故か出口を見失って、喉の奥でこごった。
 同じような傷を抱えていた。それを知らずに、ずっと一緒にいた。

 彼女はどうなるのだろう、と一護は思った。今ここで自分が運命を変えれば、自分と家族の心の傷は生まれない。けれどそんな世界の片隅で、不器用な死神は、ひとり雨に怯え続ける。それを想像すると、たまらなくなった。
 母親を助けても、彼女に出会えるだろうか。運命の変わった世界で自分がどうなるのか、想像はつかなかった。

 一護は、ふらふらと外へ歩みだした。自分が何をしようとしているのか、わかってはいなかった。思考は曖昧で、熱にうかされたように靄がかかっていた。
 ふらつく頭で、残してきてしまった相棒のことを考えた。彼女がここに居れば、何と言うだろうか。自分を叱り飛ばして、いつものように、強制的に前を向かせてくれるだろうか。自分の道を、指し示してくれるのだろうか。
 彼女はいない。自分はひとりだ。もう、前がどちらなのかも判別が付かなくなっている。
 暗く沈んだ空から、雨が滴り落ちている。雨は、傘など持たぬ一護の身体を容赦無く濡らした。気がつけば、川原に来ていた。川の水は増水して、不気味にごうごうと唸っていた。一護は濡れるのも構わず、川原に腰を下ろした。時間を確認する気はなかった。どうせ、長い時間ではない。
 待ち続ければ、幼い自分が、ここに駆けこんでくるはずだった。その直後の記憶は、自分の頭の中にはない。
 一護はどこか虚ろな目で、目の前の川を見つめ続けた。斬月を握り締めている自覚はなかった。どれだけ目を凝らしても、自分の進むべき道は、どこにあるのかわからなかった。

「駄目! 一護!」

 強くなる一方だった雨音の中で、遠いはずのその声ははっきりと聞こえた。弾かれたように、一護は立ち上がった。脳裏に、鮮やかにあの日の出来事が蘇る。自分に覆い被さるようにして、母は冷たくなっていた。

 見殺しにすることなど、できると思うのか。

 一護は走った。そして次の瞬間、驚きと絶望に目を見開いた。

「何でだよ……! 何で今なんだよ!」

 自分が追い詰め、この時間に辿り着くと同時に消えてしまった虚の気配が、背後に迫っていた。
 このままでは間に合わない。また、この手から取りこぼしてしまう。
 一護は顔を歪めて吠えた。ざあざあと、雨の音が煩い。




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