「……痛ってえ」
身体中に衝撃が走り、一護は呻いた。全身をしたたかに打ちつけて、すぐには動けず、そのまま固い地面にごろりと横になった。日が落ちかけているが、空はまだ薄明るい。
虚に連れて行かれた場所は、どこなのかわからない。けれどとりあえず、どこかには着地した。着地と同時に、虚の気配がぷつりと消えた。この空間に入った瞬間、虚の身体がどろりと溶けたのを見た気がした。あの虚は、どこかに逃げてしまったのだろうか。
痛む身体をさすりながら、一護は周囲を見渡した。断崖の中で、意識を失わなかったのは幸いだった。もしあの場所で彷徨うことになれば、いつ帰れるのかわからなかった。今の状況でも、十分どうやって帰ればいいのかわからない状態だが、そこは考えないことにした。
大の字に横になったまま、視線だけを動かす。鈍い色に染まる空の下には、街並みがあった。頼りなくちらつく街灯の明かりに引き寄せられ、羽虫がゆらゆらと舞ってる。そのまま視線を下にずらしたところで、一護は飛び起きた。
「……っ!」
立ち上がり、周囲を見渡す。先程まで自分が横たわっていたのは、むき出しの地面ではなく、舗装されたコンクリートだった。一護の視界一面に、かつての空座町の懐かしい景色が広がっていた。
一体自分がいつの空座町に飛ばされたのか、一護は考えを巡らせた。しかしその思考は、背後に響いた声によって、あっさりと打ち消された。その声が聞こえた瞬間、一護は渾身の力で、近所の屋根に飛び移っていた。着地の瞬間、身体が軋む。遠のきかける意識に、悪夢を見ているのではないかと思った。
「母ちゃん! 早く!」
「はーい」
「今日のごはんは?」
「えーと、カレーライス!」
「やった!」
オレンジ色の髪をした子どもが、薄暗い道を楽しそうに歩いている。その後ろに続く楽しげな母親の姿に、一護は息をするのを忘れた。
じっとりと、湿気が一護の肌に貼りつく。ここがどの時間なのか、本能で察した。こみ上げる吐き気に、一護は口元を覆った。そのまま、小さく蹲って吐き気と轟く感情とをやり過ごすと、一護はのろのろと動き始めた。それは、意識した動きではなかった。一護の頭の中では、先程の何気ない母と子のやりとりが、繰り返し再生され続けていた。
埃の積もったどこかの倉庫に辿り着くと、一護はそのまま前のめりに崩れ落ちた。視界が暗い。どこにも、光は見えない。生きている、ここにいる、死んでしまう人が。本当は叫びだしたかったのに、悲鳴をあげる力すら残ってはいなかった。意識を失う直前、暗い世界の中に、一瞬だけ残してきた相棒のことが頭をよぎった。けれど、脳は考えることを放棄した。心身はともに限界を訴え、一護はそのまま泥のように眠った。
「……戻ってる、ワケ、ねえか」
薄く目をあけた一護は、自分が相変わらず、一人で蹲っていることに気づいて薄く笑った。上体を起こすのに、かなりの気合が必要だった。それでも何とか起き上がると、倉庫のシャッターの隙間から、太陽の光が挿し込み、舞った埃がきらきらと光った。
両手で顔を覆って、一護は眠る前に見た出来事を反芻した。幻であってほしいと願う。だが、現在の状況全てが、そんなささやかな願いをせせら笑っているようだった。
ひとまず倉庫を出ると、誰も居ない公園の水飲み場で喉を潤した。ついでに頭から蛇口の水を浴びて、一護はため息を吐いた。どれだけ集中しても、虚の気配は掴み取れない。今が何日なのか、確認するのがおそろしかった。もしあの日に遭遇すれば、大切な何かが決壊してしまうに違いない。
懐から、小さな瓶を取り出した。ラベルには強欲商人の手で、『非常食』と書かれている。この手の用途のわからないものについては、念の為いつも身につけていたが、まさか活用することになるとは思っていなかった。中身は何の変哲もない錠剤で、試しに一粒噛み砕いて飲み込めば、驚くほど腹の中に力が満ちた。その胡散臭いほどの効果に、思わず眉をひそめる。
「何入ってんだ、これ」
一護は、公園のベンチに座った。うず高く埃の積もった場所で眠っていたので、頬を風が撫でてゆく感触は快かった。
どうしようか、とどこか他人事のように一護は思った。虚はどこかに隠れ、それを退治するまでこの場所を動くわけにはゆかない。仕方なく、立ち上がって歩き始めた。漆黒の外套を、身体に巻き付けるようにして歩いた。自分の姿が、道行く人間の姿とあまりにも違いすぎるのに、違和感を覚えた。自分がもう人間でないことが、不思議でならない。かつてと変わらぬ街並みは、今まで過ごしてきた時間を、朧に隠してしまっていた。
歩いていると、一際強い、一陣の風が舞った。その風は、一護の目の前にあった家のカーテンを揺らめかせ、一瞬だけ室内の様子をあらわにした。そこに、ひとつの日めくりカレンダーがあった。
カーテンが揺らめいたのは一瞬。けれど、カレンダーの数字は、一護の目にはっきりと焼き付いた。
「タチ悪すぎんだろ」
浮かべたはずの苦笑は、歪んで笑みにはならなかった。身体にじわりと貼りつく湿気が不快で、一護は両腕で自分の身体を抱きしめた。身体が震えている。それを認めるのが癪で、ぐっと奥歯を噛みしめようとした。けれど歯はカチカチと鳴って、自分が震えていることを、更に浮き彫りにするだけだった。
6月13日。
はるか頭上に、くろぐろとした雲が広がりつつあった。もうすぐ、雨が降る。そして、その雨が明日も明後日も、その次の日も止まぬことを一護は既に知っていた。
この年の梅雨明けが果たしていつだったか、一護には記憶がない。このまま永遠に雨が続くような気がして、一護は慄いた。
おろそしいところに、歩み込んでしまった。