自室に戻ったルキアに駆け寄ったのは、黄色いぬいぐるみだった。コンは、ネエさん、と一声叫ぶと、その肩に飛び乗る。ルキアは反射的に、柔らかな身体を撫でた。そうやってコンの存在を確かめることが癖になっていることに、自覚はない。
「変わりはないか?」
「無いっスよ。なーんにも」
コンの口調はいつもと同じだが、表情は暗い。一護がいなければ、あの虚を倒すことはできない。あの日消えていった虚が、もう一度現れても、できることはせいぜい追い払うくらいのもので、この生活は、真綿で首を締められているようなものだった。
ルキアは、机の上に眼鏡を置いた。薄い硝子が無くなれば、簡単に手で顔を覆うことができた。両手で顔を覆って、悲鳴のような吐息を漏らし、ルキアはぺたりと座り込んだ。
「ネエさん……」
「大丈夫だ」
大丈夫ではない声音に、コンの顔が歪んだ。けれど、コンは何も言わなかった。そんなコンの優しさに甘えて、ルキアは何も告げはしなかった。
一護が消えてしまってからも、頑なにこの生活を続けているのは、彼を失ったことを自覚するのがおそろしいからだ。
『朽木ルキア』ならば、平静ではいられない。その確信が、ルキアを頑なに『小島花子』のままにした。
そうして今、眼鏡を外してほんの少しだけ顔を出した『朽木ルキア』を持て余し、声にならない声でルキアは呻いた。身体の中で、軋んだ音が聞こえた。ぎしぎしと、心が軋んでいる。一護が居ない。どこかの時間にさまよいこんでいるのならまだいい。断崖に閉じ込められたとしたら、きっともう、会うことはできない。
(これから、どうすんだ)
優しい声が、耳の奥に蘇る。いっそこのまま、小島花子になってしまおうか。そんなことを考えて、少しだけ心を慰めた。これからのことを考えると、昏い穴の底を覗き込んでいるような心地がした。世界が色を失い、空気が重く澱んで、息を吸うことさえ苦痛を伴う。このままで、いられないことはわかっている。
瞳の奥に、先程の光景が蘇る。死んでしまった人が笑っている。慣れ親しんだ、気持ちの良い笑顔だった。その顔に、不器用な、オレンジ色の影が重なった。
「……っ!」
ルキアは息を詰めた。思い出してはいけない、全て、全て。思い出したら、世界が壊れてしまう。理性が、頭の奥で警鐘を鳴らしている。けれど頭は勝手に、オレンジ色の輪郭をなぞった。
ルキアは口に手をあてて、零れ落ちそうになる名前を必死に押しとどめた。
これから、どうすればいいのだろう。彼の居ない世界で、どうやって生きればいいのだろう。何ができるのだろう。何もできない。任務を遂行することすらできないはずだ。彼にしか、虚を倒せないのだから。
思い出してはいけないと思うほど、幻は鮮明になっていった。眉間に皺を寄せたまま、不器用に笑う彼の姿を、ルキアははっきりと見た。
「……そう、だ」
頭の中に、途方も無い考えが浮かんだ。虚を、倒せるかもしれない。自分は、不幸の元凶を知っている。
きっと、考えてはいけないことに違いなかった。ルキアが為そうとしていることは、ひとつの魂がやろうとすることの範疇をこえていた。
ルキアは震える手で、荷物を探った。『超人薬』と書かれたビンを、強く握りしめる。思いつめるほどに、歯の根が合わず、全身がガタガタと震えた。強く握りしめた拳は、氷のように冷たかった。
(あの男を)
不幸の元凶が無くなれば、繋がって複雑にもつれ合ったひとかたまりの不幸は、どれもこれも無くなってしまうはずだ。あの男を殺せば、倒すべき虚は消える。そして、あの人は死なない。きっと、彼の母親も死なない。そこまで考えて、ルキアは強く両目を閉じた。
ルキアは、今までに彼が立ち向かった、立ち向かわざるを得なかった困難をひとつひとつ思い浮かべた。そのどれも、ひとつの魂に押し付けるには、あまりに理不尽でむごかった。何故彼は、何度も戦い、傷つかなければならなかったのだろう。眉間の皺が取れない、不器用な笑顔を思い出せば、言いようのない感情に胸がつまった。
「ネエさん……? 何考えてるんスか! 姐さん!」
「コン。私の傍を離れないでくれ。ずっと」
ルキアの気配を悟り、コンが叫んだ。けれどルキアは、コンを強く抱きしめてその口を塞いだ。じたばたと暴れるコンを無視して、ルキアは、今までの自分の道のりを思い出していた。
ひゅう、と悲鳴のような息を呑み、ルキアは唇を噛み締めた。
あの男を殺して未来が変われば、今の自分がどうなるのか想像もつかない。今の自分は、たくさんの不幸の行く先にあった。運命が変われば、変わらぬ運命を生きた自分は、どこに、どうなってゆくのだろう。彼は、どうなってゆくのだろう。
不意に、まぶたの裏に、過去の光景が鮮やかに思い浮かんだ。まだ彼と自分が出会ってまもない頃だ。彼は机の前で、自分は仰向けに寝転んだベッドの上で、それぞれ同じことがプリントされた紙を見ていた。
カーテンの閉まっていない窓の外では、たそがれ時の気配が世界を薔薇色に染め上げている。
『進路希望調査。大変だな、学校というものは』
紙に書かれた文字を読み上げながら、ルキアは横目で一護を確認した。一護もそれほど真剣ではないのか、どこか面倒くさそうにその紙を見ている。
『貴様は何と書くのだ?』
『んー、どうすっかな。まだ先の話だしな、こんなの』
想像つかねえな、と言って一護は神妙に首を傾げた。年端も行かぬ少年が、真剣に未来に思いを馳せているのを見るのは微笑ましい。ルキアは少しだけ口の端を持ち上げて、紙から手を離した。重力に押されて、白い紙は、ひらりとベッドの上に着地した。その瞬間にとても良いことを思いついて、ルキアは仰向けの姿勢から、がばりと半身を起こした。
『どうせなら、死神と書いておくのはどうだ?』
『アホか。お断りだ』
にやりと笑うルキアに、一護も同じように口元を緩めた。しばらく見つめ合った後、一護とルキアは何だかおかしくなって、肩を揺らして笑った。死神が進路を考えているという状況は、冗談以外の何物にも思えなかった。
『私は何を書こう』
『何でもいいだろ。適当に書いとけ』
シャーペンをくるくると回して何事かを考え込んでいた一護は、よし、と小さく呟くと、さらさらと紙に何事かを書き付けた。
『あ、ずるいぞ』
『うっせ』
先に進路希望を書き終えてしまった一護は、そのまま部屋を出た。おそらくジュースかコーヒーでも持ってくるつもりだろう。アイスティーかもしれない。バタン、と小気味よい音がして、ルキアは一人、部屋に取り残された。仕方なく、ベッドの上に投げ出された紙を指でつまみ上げる。何と書けば良いだろう。少し迷ったが、数秒で面倒になった。立ち上がると、一護の机の上にある白い紙を見る。シャーペンも、一護のものを勝手に拝借した。
ルキアは、一護のものと全く同じ語句を、自分の紙に書き連ねた。名前の違う全く同じ内容の進路希望を少し眺めると、ルキアは満足して紙を自分の鞄にしまった。
少しの間に窓の外の世界は青みを帯びて、何気なく目をやると、窓ガラスは出来損ないの鏡のように、ルキアの姿を反射した。
自分の行為が後日、クラス中で余計な噂の種になることはまだ知らない。偶然一護とルキアそれぞれの進路希望を見てしまった啓吾が、涙目で一護に問い詰めるのがおかしくて、困り果てて恨みがましい視線を送ってくる一護に悪いと思いながらも、ルキアはずっと笑いをこらえていた。
あの紙に、彼が何を書いたのか、どうしても思い出せない。
「コン。思い出せぬ。……思い出せぬのだ」
悲劇の起きなかった世界を生きる彼を、想像できないのが寂しかった。想像できないほど、彼の人生は、縺れ合う悲劇のただなかにあった。何も知らなかった頃、彼が平凡に思い描いていた未来が何だったのか、ルキアはもう忘れてしまっていた。薔薇色の世界が青く染まってゆく瞬間を、あんなにもはっきりと覚えているのに。
あの少年が、自分に出会う必要はない。ルキアはそう思った。
想像はできないけれど、安らかに人間としての生を終えた後に、正規の手順で死神になるのがいい。きっと、たくさんの仲間に囲まれて、立派な死神になるだろう。隊長にだって、きっとなる。その時隣に立っているのは、自分よりももっと相応しい副隊長だ。
どうして、彼は自分を選んだのだろう。ルキアははじめてそれを考えた。告げられたときは、そんなことを考える余裕がなかった。そして今までも、その理由を考えることなく、慌ただしく日々が過ぎていった。まるで、自分が副隊長になることが、当然だとでもいうように。
きっと刷り込みのようなものだ、とルキアは思った。自分である理由など、本当はどこにもない。今のルキアには、それがとても有難かった。理由があれば、きっともっと辛かった。
みしりと心が音を立てる。分不相応なことを成す、恐怖のためだろう。
自分に殺せるだろうか。隙をついて、霊圧を消す外套を纏って、超人薬を呑み下せば、きっと殺せる。
ルキアは、彼と過ごした日々を思い出していた。出会い、死神となってしまった彼の背に飛び乗って、きらきらと輝く夜の街を駆けた。晴れの日も、雨の日も共に居た。これからも、ずっと一緒に居るのだと当然のように思っていた。共に過ごした日々の輝きは、ルキアの心を突き刺した。
ルキアは、こみ上げる感情を飲み込み、強く目を閉じた。真っ黒な視界の中に、オレンジ色の髪をした少年が、眉間に皺を刻んだまま、不器用に笑っている。その笑顔を見るのが、ルキアはとても好きだった。けれどそれは、彼のほんとうの笑顔ではないはずだ。
未来は変わる。忌まわしい出来事はかき消え、犠牲となった命は生き延びるだろう。身を切るような苦しみも、凄惨な戦いも、何もかも存在しない未来に。
……身体に厄介なものを埋め込まれた、愚かな死神になど、出会わずに。
もし、あの男を殺したら。優しい両親のもとで、普通の人間として学校に通い、刀を取ること無く生き続けていけるのだろうか。
他の人間と何も変わらぬ、平凡な毎日を楽しく過ごしてくれるのだろうか。たくさんの友達と騒いで、文句を言いながら勉強して、部活動に精を出して。案外、静かに過ごせる雨の日が好きになるかもしれない。身体にしなやかな力を漲らせて、きらきらと輝く青春を送ってくれるだろうか。そして、他の人間と変わらぬ健やかな未来を、選んでくれるのだろうか。
優しい、屈託の無い、眉間に皺などない、彼本来の、ほんとうの笑顔で。
彼は、笑ってくれるだろうか?