「砕蜂。もう動いても良いのか」
「当たり前です。あれから何日経ったとお思いですか」
「そうか」
呆れた砕蜂の声音に、夜一は苦笑した。正体不明の虚が出て以来、普段よりもずっと心配性になってしまっている。
あれから数日の間、小島花子は眠り続けた。その他の者らは、一晩も経てば目を覚ましたから、夜一にはそれが心配でならなかった。駆けつけた時の様子から、あの二人が虚と対峙していたのだと確信している。虚が妙な能力でも持っていれば、このまま永遠に目を覚まさないことも有り得た。夜一は、ひどく心を痛めた。それは、彼女の身体を案じたからではなく、眠り続けることが、彼女にとって幸福なのか不幸なのかわかりかねたからだった。やりきれない話だと思う。この世界に数えきれぬほど溢れている、よくある、胸の悪くなるような話だ。
せめて彼女が眠っている間に、消えてしまったもう一人の部下が帰ってくることを期待したが、浅野太郎が戻ってくる気配は無かった。周囲を捜索しても、彼の情報は欠片も出てこなかった。間もなく、捜索は打ち切られた。
彼女が目を覚ました時でさえ、喜びと哀れみは、等しく夜一の中に同居していた。目の前に恋人が居ないことを、ひどく無表情で受け入れる姿を見れば、尚更その思いは募った。
胸が痛い、と夜一は思う。夜一にとって、自隊の隊士は皆、己の子供だ。たとえ自分の親ほどに齢が上でも、隊士は皆、ただ一人浦原喜助を除いて、血を分けたとしか思えない自分の子供だった。
自分の子が傷ついているのをみるのは、何回目であっても胸が潰れるような心地がする。そんな子供らを戦線に立たせているのもまた自分だからこそ、この痛みからは逃げるわけにはゆかない。何とかしてやりたくて、夜一はあれこれと思いを巡らせた。
「……隊長。書類を届けに参りました」
控えめなノックの音と共に、か細い声が室内に滑り込んだ。それと同時に扉が開き、小島花子が音もなく部屋に入ってきた。
「小島か。あまり無理はするなよ」
「……大丈夫ですわ。何日も経ちましたもの。心配をおかけして申し訳ありません」
ふふ、と目を細めて微笑む顔は青ざめ、元々細い身体の線が、折れてしまいそうなほど弱々しく見えた。砕蜂も見かねて何かを言いかけたが、結局口を噤んだ。任務で兄を喪っている砕蜂は、少しだけ彼女の気持ちがわかるのだろう。
書類を夜一に渡すと、一礼して彼女は部屋を去った。扉が閉じると同時に砕蜂と目を合わせた夜一は、大きなため息を吐いた。
「……こういうのは、何度体験してもやりきれぬ」
「夜一様、何をお考えですか?」
「うむ。わかるか、砕蜂。いずれは時間が解決するのかもしれぬが、だからといって何もせぬのは性に合わぬ」
難しい顔をして腕組みをすると、逆効果かもしれんがな、と夜一は小さく呟いた。
*
夜一に書類を届け終わったルキアは、ぼんやりと青空の下を歩いていた。仕事に没頭しようと思ったが、暖かい心遣いによって、ルキアの仕事はほとんど取り上げられてしまった。やることはなく、ただ太陽を見ながら、ゆっくりと自室に戻ろうと思っていた。太陽の光は、まっすぐにルキアの瞳を灼いた。目に涙が滲んだが、目を逸らす気にはなれなかった。
「目、悪くなるぞ。もう悪いんだっけ」
「……海燕殿」
「なんだよ、その呼び方。まあいいや。なんか、久しぶりだな」
太陽を凝視していたルキアを、思いがけず呼び止めた声があった。振り向くと、そこには意外な顔があった。二度目の邂逅に、一度目のような恐慌は無く、不思議と心は凪いでいた。太陽を見つめていたせいで暗くぼやける視界の中で、志波海燕はにかりと笑ってみせた。
「何故、貴方がこのような場所に?」
「あー……。通りかかったんだよ! 偶然!」
「はあ」
焦りながら偶然を力説する海燕に、ルキアは大体の顛末を察した。おそらく、夜一が海燕に話をしたのだろう。そして、自分を励ましてやってほしいとでも頼んだに違いない。
ルキアの表情から、嘘がばれてしまった事を察したのか、海燕は諦めたようにひとつ息を吐いた。顛末は、ルキアが想像したものと寸分違いはしなかった。
「オマエんとこの隊長に、励ましてやってくれって頼まれたんだよ。ホラ、俺、似てるだろ。その……アイツに」
「似て、いるでしょうか」
「あ、やっぱそう思うか? 俺とアイツも、よくわかんねえって話してたんだ」
苦笑する海燕に、ルキアは何とか愛想笑いらしきものを返そうとした。けれどそれは奇妙に歪んでいて、無理すんな、と言いながら海燕はルキアの頭をぽんぽんと叩いた。そのぬくもりを、ルキアはぐっと噛み締めた。悲しみとも懐かしさともつかぬもので、腹の底がざわつく。
「よくある話でも、辛いモンは、辛い。……悪いな。話変えるか。どうせヒマだし、付き合ってくれよ」
「仕事は、よろしいのですか」
「ああ。いいんだよ。隊長が副隊長になれってうるさいから、どうせ仕事になんねえよ」
屈託なく笑う海燕に、ようやくルキアは口元を綻ばせた。微笑みとも呼べない笑顔は、それでも海燕の話を勢いづけた。
「副隊長って。ありえねぇよな。俺には無理! 絶対無理!」
「無理だとは思いません」
「ホント無理だって! 副隊長って、何でなろうと思うんだろうな? 何で他の奴らが引き受けたのか、俺には全然わかんねぇ」
「副隊長になる理由……人それぞれだと思いますが」
「ふーん。例えば? やっぱ、出世したいからか?」
「それもあります」
ルキアは顎に手を添えて、中空を見つめた。自分の知っている副隊長が皆、出世のためにその地位についたとは思えない。どんなものであれ、自らの確固たる意志を持って、副隊長の職を選んだように見えた。
青空を眺めながら一人ひとりを思い出していくと、ルキアの心は少し軋んだ。それを無視して、ルキアはこの会話に集中した。
「隊長を尊敬していたり、乗り越えたかったり、離れることが考えられなかったり。成り行きだったり、監視や利用なんて目的も、あるかもしれませんね」
「監視? 利用? 可能性はあるけど、今の副隊長にそんなのいないだろ」
「……そうですね。えっと、あとは」
「あとは?」
ルキアは、目を伏せて足元を見た。頭が勝手に、昔の記憶をなぞっていた。彼の声、自分の声、彼の笑顔。風に揺れている花。滲みそうになった感情を消して、殊更何でもないように言葉を紡ぐ。
「ああ、自分がいないとどうしようもない、と思ったり」
「なんだよそれ。手のかかる隊長だな」
最後の言葉に、海燕は笑い出した。大真面目な顔で言われたのが、余計におかしい。自分がいないとどうしようもない、と思えるような隊長として、真っ先に病弱な自隊の隊長が思い浮かんだが、それは考えないことにした。ふと、目の前の存在が、とても妙な顔をして自分を凝視していることに気付いた。笑うように目を細めているが、口は嗚咽をこらえるようにひしゃげている。
「ん? 何だ、俺の顔に何かついてるか?」
「いえ。よく笑う方だな、と」
「あー、アイツ、いつも眉間に皺寄ってたもんな、と。……悪い」
「構いません。私も、思い出していました」
思いがけず、避けていたはずの話題がするりと顔を出して、海燕は慌てた。とっさの謝罪を穏やかな声で遮ったのは、他ならぬ彼女自身だった。
その瞬間、やはり来るべきではなかった、と海燕は確信した。ルキアの視線が、薄い硝子越しに、矢のように海燕に突き刺さった。違う、と海燕は思った。今この瞬間、彼女が見ているのは自分ではない。動くことができないのが、不思議だった。大きな悲しみに苛まれている者を見たのは、少ない数ではない。それなのに、こんな感覚は初めてだ。ただの平隊士に、副隊長の誘いがかかる席官が、気圧されている。
彼女は笑った。海燕がここに来たことを最も後悔したのは、今、この瞬間だ。
何て悲しそうな顔で笑うのか。
「お会いできて、よかった」
彼女の口から紡ぎだされたのは、震えるような声だった。言葉が本心であることが、海燕にはたまらなかった。
「似てるかな、やっぱり」
「似ていますし、似ていません」
「何だソレ。ま、アイツはいつも仏頂面っぽかったしな」
「そうでもありませんよ」
ふいに、風が止んだ。そのせいで、声は必要以上に強く響いて、海燕は思わず顔を上げた。
「あれで、結構よく笑います。でも、笑っても眉間の皺が取れないんですよ。不器用で」
「そっか」
「はい」
「なあ。これから、どうすんだ」
深入りしているという自覚はあった。けれど、聞かずにはいられなかった。彼女の本心がどこにあるのか、海燕にはわからなかった。彼女はずっと、銀色の腕輪を撫でていた。
「わかりません。……できることを、します」
たっぷり一分間は考えた後の、彼女の解答は心底途方にくれていた。恋人と死に別れたというよりも、見知らぬ場所で迷子になった幼子のようだった。それ以上聞くことを諦めて、海燕はこっそりと肩をすくめた。
二番隊隊長の計らいは、おそらく失敗だ。自分はきっと、彼女に会うべきではなかった。そのまま一礼して立ち去っていった背中を、海燕は無言で見送った。かける言葉が見つからない。どうすればいいのかわからず、結局いつまでもその背を見つめていた。頭の中に、先程見た笑顔がちらつく。いっそ、泣き叫べばいいと海燕は思う。絶望に引っ張られて、歪んだ顔が笑顔に見えるのは、皮肉なことだった。
彼女のできることが何なのか、わからないままだ。
ようやく吹くことを思い出した風が、そっと海燕の背を撫でた。思わずぞっとして、両腕で自分の身体を抱え込む。
あれは何だ。あれは誰だ。
海燕が目の当たりにしたのは、恋人を失った死神の姿ではなかった。光のささぬまっくろな世界に取り残され、ひとりうずくまる魂を見た。出口の見えない絶望に押しつぶされて、彼女は笑う。