その日、任務の直前に、ルキアは一護の部屋へと赴いた。その姿は幾人かの隊員に見られていたが、声はかけられなかった。夜一が何を吹聴しているのかは知らないが、皆が見て見ぬふりをしてくれるのは有難かった。
 一護の部屋は、備え付けられた家具と支給された生活用品以外のものは、ほとんど何もないと言ってよかった。とっくに日は落ちていて、部屋の中の明かりは、白い紙と竹でできた、飾り気のない備え付けの行灯ひとつきりだった。視界に入るものの中で、『浅野太郎』の存在をしめすものは、ただ本人がその部屋に居るということ以外には、全て拭い去られていた。

「準備万端だな」
「当たり前だ。お前は?」
「無論だ。準備は全て、滞り無く終わった。……あとは、倒すだけだ。貴様がな」
「おう」

 意外なことに、一護はにかりと笑ってみせた。戦うことに躊躇いなど無い、潔い笑顔だった。つられてルキアも笑った。もうすぐこの生活が終わることが、嬉しいのか悲しいのか、ルキアにはよくわからなかった。
 もうすぐ、警鐘が鳴ってあの虚がやってくる。その時に、自分たちは斥候として駆りだされる。
 一護の部屋には、念入りに掃除がしてあった。残った僅かな荷物は、任務が終わって戻り次第、すぐに隠す手筈になっている。
 後始末は、少ない方が楽だ。任務後には、自分たちが存在した形跡を全て消さなければならない。嘘で塗り固めた入隊時の書類から、通ってもいない真央霊術院の成績書に教師の記憶、そして自分たちが関わった全ての死神の記憶を処分するのは、考えただけでも気が滅入る大仕事だった。

「さて、と。茶でも飲むか」
「ああ」

 用意してきた急須と湯呑みで、恐らく最後になるであろう茶を沸かした。いつも騒がしくしていたコンですら、ルキアの肩の上で神妙な顔をしていた。ルキアは、コンの頭をぽんぽんと撫でた。ずっと部屋に潜んでいたコンは、己の無力を呪い、ずっと自分たちの心配ばかりしていたに違いなかった。けれど、決して口には出さなかったが、自分の指を柔らかく跳ね返す、綿の詰まった黄色いフェルトの肌触りに、ルキアは救われていた。コンには嘘がなかった。外見を変えた一護とルキアとは異なり、彼だけは正しく本当の姿で、この時代に存在していた。
 茶を飲み終えると、一護とルキアはしっかりと自分たちの使った急須と湯呑を片付けた。元々が隊の給湯室に備え付けられていたものなので、綺麗に洗って片付けるだけで事足りた。
 全ての準備が整うと、狙いすましたように、警報が鳴り響いた。けたたましい音に一護とルキアは顔を上げると、目を合わせてどちらともなく笑った。ようやく、はじまる。

「流魂街に虚が出現した!」

 砕蜂が鋭い声で命令した。第一陣として前線に赴く斥候は5名。その中に、一護とルキアは入っていた。リーダーとなった砕蜂が、緊張した面持ちできびきびと指示を飛ばしている。その姿に、未来の面影を感じてしまい、こんな時なのに少し笑えた。夜一は状況を把握し準備が整い次第、駆けつけるという。その前に、全てのケリをつけなくてはならない。スピード勝負だ。

「行くぞ!」

 勇ましい砕蜂の声と共に、一護とルキアは駆け出した。ルキアの懐で押しつぶされたコンも、緊張しているに違いなかった。あとはもう、動くしかない。

「居た、な!」

 打ち捨てられた民家の中に、蠢く虚の触手を見た。くすんだ白い触手を広げた虚は、民家を10軒はかるく飲み込んでいる。現れた虚の予想外の大きさに、砕蜂は少し面食らったようだったが、すぐに気を取り直すと、共に来た仲間に向かって叫んだ。

「私が前に出て引きつける! 全員下がって結界を張れ! 絶対に瀞霊廷に近づけるな! ……ッ!?」

 真後ろで何が起こったのかわからず、砕蜂は弾かれたように振り返った。一瞬で、部下の気配が2つ消えた。そして振り向いた先で見た光景の意味がわからず、砕蜂は目を見開く。それでも身体は反射的に、横へ飛んでいた。先程まで自分が立っていた位置に、気配の見えぬ、真っ黒な外套を羽織った影が踊り込んでいた。
 地面には、2人の隊士が倒れていた。気配は消えてはいない。ならば、突如現れた漆黒の影が、消えた2人に間違いなかった。

「浅野、小島! ……貴様ら、何をした!」
「大丈夫、ちょっと気絶してるだけだ。心配ねえよ」

 影から溢れるその声は、たしかに聞き慣れた部下のものだ。わかっていたが、それでも動揺して一瞬動きが鈍った。気づけば、もうひとつの影が迫っていた。影の手に握られているものを、砕蜂は本能的に察知して逃れようとした。けれど、遅かった。
 息を呑んだ瞬間には、息のかかる距離に小島花子がいた。外套の隙間から、見覚えのある顔が目を細め、柔らかく微笑む。

「ああ、結界はとっくに張ってありますわ。この場所の霊圧は、ほとんど漏れません。そのせいで、虚の大きさを把握しそこねてしまったようですわね。ごめんなさい」

 目の前で小さな爆発が起きた。それと同時に意識が遠のいて、砕蜂は途切れる意識の中、目の前の女を精一杯睨んだ。けれど女の顔は奇妙に歪み、大きな虚も黒い影も、砕蜂の頭の中からは消えてしまった。

「……記換神機を無駄撃ちした。まさか避けられるとは思わなかったな。流石だ」
「ま、この腕輪つけてたら仕方ねえだろ。さて、行くぞ」

 後ろから昏倒させて終わるはずだった砕蜂の抵抗が予想外で、ルキアは片眉を跳ね上げた。それをたしなめ、一護は虚を見据えた。
 銀色の腕輪を外すと、溢れる霊圧で外套がめくれ上がった。それを意に介さず、二人は目前の虚を睨んだ。触手は、今にもこちらに襲いかかろうとしている。
 瞬歩でその場を離れると、一護とルキアはそれぞれに目についた触手を斬り飛ばした。根元の本体を直接叩くには、触手なのか爪なのかよくわからないものがくっつき過ぎている。

「次の舞・白漣!」
「月牙天衝!」

 次々と触手をもいでいくと、ようやく本体が見えた。触手の奥で紅く光っていたのはどうやら目玉だったらしい。残った触手はあと2本で、これくらいなら避けられる。触手の攻撃を掻い潜り、本体の後ろに回りこんだルキアが、思い切り斬り込んだ。がらんどうの中身を斬ったような、妙な感覚だ。いつも斬っている虚とは違う感触に、ルキアは眉をひそめた。虚は暴れている。だから少しは効いているのだと思う。だが、急所への一撃であるはずなのに、致命傷とは程遠い。

「……虚と拘突を併せ持つか。厄介だな。一護! 私の攻撃は効かぬ!」
「っ、クソッ」
「大丈夫か!」
「ああ、掠っただけだ」

 虚はルキアの攻撃をやり過ごすと、紅い目玉をぎょろりと動かし、倒れていた砕蜂に触手を伸ばした。一護が思わずその正面に飛び込むと、触手は一護の脇腹を浅く切り裂いた。その瞬間、白だったはずの触手が、不気味な藍色に染まったのは、きっと気のせいではない。
 すぐに体勢を立て直し、一護は斬月を構えた。

「月牙……天衝!」
「よし! 効いたな!」

 一護の放った月牙は、虚を真っ二つに切り裂いた。終わった、と一護とルキアが思った瞬間、虚が意外な動きをした。びゅるりと不気味な音がして、斬魄刀の切断面が消える。呆然とする一護とルキアの目の前で、虚は2体になった。
 2つに割れたにも関わらず死ななかった虚は、それぞれが一護とルキアに襲いかかった。

「な、これは、分裂……!?」

 2つに分かれた虚は、ふるふると震えている。その動きが不気味で、一護はもう一度月牙を撃とうと刀を構えた。その瞬間、恐ろしい速さで虚が一護に突進した。まっすぐに猛進するその動きは、まさに拘突のものだった。

「一護!」

 ルキアは分裂したもう一方に攻撃を与えながら叫んだ。だが、やはりルキアの攻撃では、大きなダメージを与えるには至らない。
 一護に突進した虚は、自らと共に一護を空へと押し上げた。一護は、自分の背後で空間がねじれる音を聞いた。まずい、と一護は思ったが、その思考は遅すぎた。その瞬間には、既に強引に別の空間へと身体を押し込まれていた。連れていかれる。相棒に、声をかける隙も与えぬまま。

「なっ……!」

 虚の片割れと共に、一護は別の空間へと繋がる裂け目へと消えてしまった。己の目が信じられず、ルキアが目を見開くと、自分が対峙していたもう片方の虚から、気配がぷつりと消え、どろりと輪郭を崩した。
 息を呑み、効かないと分かっている攻撃を繰り出したが、遅かった。ルキアの刀は空を掻き、液状になった虚は地面に染み込むと、後には何も残らなかった。
 唐突に、周囲には静けさが満ちた。

「くそっ……!」

 ルキアは虚が消えてしまった地面を拳で殴りつけた。けれど、何も変わらなかった。消えてしまった。虚も、一護も。そう考えた瞬間、ルキアは硬直した。

「……え……?」

 彼が消えてしまったことが信じられなかった。何事もなかったかのように満ちている静寂が、今更のようにルキアの神経を苛んだ。息ができず、胸を掻きむしったのは無意識だ。身体中を埋め尽くす喪失感が、ルキアを押し潰そうとしていた。
 ルキアはぼんやりと、一護が消えてしまった空間を見つめた。
 それからどう動いて、どれくらい時間が経ったのかわからない。意識があったのだから、そう長くはない時間だったのだと思う。

「おい! 小島! どうした、何があった! 浅野はどこだ!」

 鼓膜を刺す声と共に激しく揺さぶられ、ルキアはのろのろと視線を動かした。そこには、厳しい表情の夜一が居た。視界がぼやけるのは、汚れた眼鏡をしているせいだ。自分がいつ外套を脱ぎ、眼鏡をかけ、銀色の腕輪をはめ直したのか、覚えてはいなかった。ルキアが押し出した声は、うわ言に近かった。

「……連れて、行かれて」

 ぎしぎしと、身体が軋む。霊圧を開放した身体が、限界を訴えている。
 薄れゆく意識の中、一護の名前を呼ばなかったのは、理性ではなく、現実を拒む本能の恐怖だった。名前を呼んだら、これが本当の現実だと認めなければならない気がした。

「どこか、に」

 ルキアは意識を失った。これが夢であればいいと、最後の瞬間まで願っていた。




<前へ>  / <次へ>