ひたひたと白哉は夜の道を歩いていた。夜の散歩は危ないと言われているが、静まり返った場所を歩いていると、己の感覚が研ぎ澄まされていくような気がして、やめられずにいる。周囲には明かり一つなく、昼に降った雨のせいで、道はまだじっとりと濡れている。足を動かすたびに、ぺとぺとという音が鳴った。それが何とも不快で、足音を立てぬように集中してみても、うまくいかない。結局、白哉は小さな足音を立てながら夜の道を歩いていた。重苦しい雲の割れ目から、少しだけ月が顔を覗かせた。その光で、ほぼ目の前と言っていい距離に誰かがいることがわかって、白哉は思わず上げかけた悲鳴を、矜持だけで呑み込んだ。水分を含んだ道は、月の光でぬめるように光っている。その中心に、真っ黒な何かが立っていた。
「な、だ、誰だ」
「……あらまあ、奇遇ですわ」
黒い外套を纏った女は、フードを目深に被っているせいで、表情が読めない。影そのもののような黒尽くめの格好の中で、顔の下半分だけが、頼りない月光に白く浮かび上がっているのが不気味だった。そんなことを考えていると、女が少しフードを後ろに下げた。はらりと長い髪が零れ落ち、白哉は相手を知っていることに気付いた。
「貴様、いや、貴方は、二番隊の」
「はい。お久しぶりです。懐かしい」
「懐かしい? 以前会ってから、まだそう時間は経っていないだろう」
「時間など、曖昧なものですわ」
女は、不思議なことを言って口元だけで微笑んだ。彼女の足音は全く聞こえなかった。それどころか、こうして目の前に居るというのに、全く気配を感じない。薄ら寒い心地になったのを誤魔化すように、白哉は眉間にシワを寄せて、目の前の死神を睨んだ。茶色の髪が、夜の闇をうつして、ほとんど漆黒に見えた。その黒い髪は、彼女に不思議と馴染んでいた。
「何をしている」
「散歩ですわ」
「足音も、気配も消してか」
「二番隊ですもの。修行中の身なので、いつでもこうして足音と気配を消すのです。でも、見つかってしまいましたわ」
紅い唇が美しい弧を描き、どろりとした夜に似合わぬ、艶やかな声がする。理由もなく気圧されて、白哉は無意識に唾を飲み込んだ。そしてすぐにそれに気づき、理由もなく怯える自分を叱咤した。
「白哉様は、何をしていらっしゃるのですか」
「……散歩だ」
「お揃いですね。でも、危険ですわ。夜には、何が紛れているかわかりません」
「平気だ。そんなことに怯えていては、朽木家の当主にはなれない」
「お強いのですね」
「まだまだだ。だけどきっと、強くなる。いつか卍解を会得して、当主として恥じぬ程強くなるのだ。いや、今までの当主の誰よりも強くなる。途方も無い夢だと、笑うなら笑え」
この女に呑み込まれまいと口から出た言葉は、ほとんどが勢いと強がりだ。言ってから我に返り、白哉は大いに後悔した。こんなことを家の者に言えば苦笑されるだろう。この女も、さぞかし世間知らずの小僧だと思っているに違いない。
だから、目の前に手が伸び、頭を撫でられて、本当に驚いた。
「ま、まて! 頭を撫でるな! どうして、いつも」
「すみません、つい」
「つい、ではないだろう! 莫迦にしているのか!」
「しているはずがありませんわ」
女の声音は驚く程真摯な響きを帯びていて、白哉の動きは一瞬止まった。それをいいことに、女の手が再び白哉の髪を撫でる。さらさらと、小さな音が耳元で聞こえた。女の細い手首の透けるような白さが、やけに目についた。
「貴方は素晴らしい隊長になれますわ。朽木家歴代最強の誉れ高い、隊長にきっとなります」
「……そうか」
あまりに真剣に言われるものだから、なんだか恥ずかしくなって白哉は目を伏せた。その仕草がおかしいのか、女はくすりと笑った。
「貴方の願いは叶います。強く、優しい隊長に、いつか」
女の手が離れる瞬間、白哉は強い違和感の正体に気がついた。何故今までそれに思い至らなかったのか、不思議でならなかった。
「眼鏡は、無くても良いのか。外すとほとんど見えないのだろう?」
女は顔に手をやると、ああ、と呟いた。まるで、今気づいたと言わんばかりの仕草だった。気づけば、月は再び厚い雲の中に姿を隠し、空にはどろりとした暗闇がひろがっていた。
「見えても見えなくても、同じことですわ。こんな夜には。……ああ、随分と引き止めてしまいましたわね。申し訳ありません。ごきげんよう、白哉様」
闇に酔いしれているように、女は口の端を吊り上げた。
「私も、帰らなくては」
そのまま立ち去ろうとする後ろ姿に、白哉は慌てて声を張り上げた。何故彼女を引き止めようとしているのかは自分でもわからなかったが、ともかく、このままではいけないと思った。待て、と一声叫ぶと女の動きがぴたりと止まる。その次にかける言葉を考えてはいなかったから、続いた言葉は、随分たどたどしかった。
「待て! ……もうすぐ、庭に桜が咲く! そうしたら、一度見に来い! 私が生まれた時に植えたものだから、まだ小さいが、とても綺麗だから、その」
必死にかけた言葉に、返事は無かった。ただ、後ろを振り向いて、女はとても幸せそうに微笑んだ。小さく口が『ごめんなさい』と動いた気がしたが、表情と噛み合っていないことに、白哉は戸惑った。その場から動けずに立ち尽くしていると、女は、あっという間に闇に呑まれて消えていった。