「おーい一護ー。ルキアー。入るぞー」

 非番の日、私服姿で十三番隊に現れた恋次は、一護の部屋の襖を勢いよく開けた。片手には紙袋が抱えられている。同じく非番で寛いでいたルキアは、手元の本から視線を上げて、突然の客人を見つめた。

「どうした恋次」
「お前、この後隊長と稽古だろ?呼びに来たんだよ。……あれ、一護寝てんのか」

 この部屋の本来の主は、客人にも気付かず、布団の中で泥のように眠り続けていた。その頬には大きな絆創膏が貼ってある。

「ああ。また無茶な修行をして帰ってきた。貴様に負けたのが余程堪えたらしい」
「餓鬼かよコイツは。俺に負けたのが悔しいっていうより、昔の感覚が戻らねえから焦ってるんだろ」
「……そうだろうな」

 ルキアが苦笑すれば、恋次が呆れた表情をつくってみせた。一護が無茶ばかりするのは今に始まったことではないが、晴れて正式な死神になったのだからもう少し精神的に成長してもいいのではないかと思うのは、恋次だけではないはずだ。青くさい少年のように焦らずとも、十年、二十年、そして百年と弛まず修行を続ければ、どんな死神よりも強くなれる逸材なのに、本人だけがそのことに気付いていない。
 重くなった空気を振り払うように、ルキアが殊更明るい声を出した。

「その袋は何だ?良い匂いがするな」
「ああ、鯛焼き持ってきた」
「そうか。では茶を淹れてくる。少し待っていろ」

 ルキアは立ち上がると、共同の給湯室へと消えていった。白哉との約束の時間までは今しばらくの余裕がある。恋次は、はじめから二人と一緒に鯛焼きを食べるつもりで、少し早くこの場所に来たのだった。一護の部屋に当然のようにルキアが居る事に関しては、もう疑問に思うことすら無くなっていた。一護がここに住むようになってから、ごく自然に、ルキアは一護の部屋に溶け込んでいる。
 
「待たせたな」

 程なく、急須と湯飲みを携えたルキアが戻ってきた。ほれ、と手渡された湯飲みを受け取り、自分は鯛焼きを差し出す。湯飲みの代わりに、白い手が鯛焼きを受け取った。
 熱いお茶を啜って目前を伺えば、ルキアが幸せそうな顔で鯛焼きを頬張っていた。その横に、眠り続ける一護がいる。そこまで視線を流してから、恋次はこの部屋の住人が一人足りないことに気付いた。

「あれ、あのぬいぐるみは?」
「ああ、女性死神協会が俺様を待っていると叫んで出て行ったな」
「それは……死ぬんじゃねえか……」
「まあ、無傷ではないだろうが大丈夫だろう」

 鯛焼きを食べ終えたルキアは、湯飲みに口を付けた。その口調からは、これが日常茶飯事であることが伝わってくる。そのルキアが大丈夫だというのなら、きっと大丈夫なのだろう。それでも『無傷ではない』と断定しているあたりに、薄ら寒さを覚えた恋次は、熱いお茶をもう一口飲み干した。

「一護が来てから、ほとんど朽木の家に帰ってねえだろ。隊長が心配してるぞ」
「ああ、兄様には申し訳ないと思っている……しかし」
「しかし?」
「実はな……この部屋には、縛道が仕掛けられている」
「はぁ!?」

 ぎょっとした恋次は、思わず部屋の中を見渡した。けれども、部屋の中には平和そうに眠る一護と、何の変哲もない部屋の姿があるだけだった。
 ルキアは溜息を吐いて首を振ると、深刻そうな顔をしてお茶を一口飲み下した。

「仕事が終わり、ここに立ち寄るだろう。そうすると、何故かあの布団の上に転がりたくなってしまう。すると腹が減ってくるから食堂に行って、さすがに寝る前には朽木の家に帰ろうと決心するのだが……部屋に戻ってあの布団が視界に入ると、何故かそこで寝てしまう。恐ろしいことだ」
「とりあえず、真面目に聞いた俺がバカだった」

 恋次は袋から二つ目の鯛焼きを取り出すと、勢いよく食べ始めた。こいつらの日常の話をまともに聞いていたらバカになる、と最近学びかけていたのに、つい親切心を出していつも話を聞いてしまう自分に情けなさを感じていた。
 穏やかに過ぎる時間の中、ふとルキアが時計を見た。

「ああ、そろそろ時間か」
「そうだな。行ってこい。俺はもう少しここにいてもいいか?」

 ほれ、と食べかけの鯛焼きをかざした恋次に、ルキアは苦笑した。土産と称して持ってきておきながら、ほとんどを自分で食べてしまっている。

「構わん。では、行ってくる」

 ルキアが襖を閉めると、部屋の中には沈黙が広がった。やることもないので紙袋を漁り、もうひとつ鯛焼きを取りだして二つに割れば、眠っていた一護の鼻がぴくりと動いた。

「うー……恋、次?」
「あ?起きたのか」

 よく今まで起きなかったものだと呆れた目で見下ろせば、一護の目の焦点が恋次に定まった。ふわ、と欠伸をしてから、一護が言った。

「食わせろ」
「第一声がそれかよ」

 どうやら、目の焦点は恋次ではなく、手の中の鯛焼きにあっていたらしい。恋次は大きな溜息を吐くと、一護の口の中に鯛焼きの片割れを押し込んだ。

「美味い」
「良かったな。……一護、起きたならちょっとどけ」
「は?」

 鯛焼きを飲み込んできた一護は、恋次の動きへの反応が遅れた。気がついたら、先程まで一護が横になっていた布団に、恋次がごろりと横になっていた。

「あー……これは確かに縛道かもな……」
「あ?何の話だ?」
「この部屋は呪われてるって話だよ」

 布団に入った途端に眠くなってきたのは、きっとルキアの言う縛道が自分にも発動してしまったからに違いない。状況を把握できていない一護を放って、恋次は本格的に眠り始めた。

「最近仕事が忙しいんだよ……ちょっと寝かせろ。それ好きなだけ食っていいから」
「はあ?別にいいけどよ。って、あと一個しかねえじゃねえか。何が好きなだけだよ」

 畳の上に置かれた紙袋を発見した一護は、鯛焼きの最後のひとつに齧り付いた。
 一護の文句は、もう恋次の耳にはほとんど入らなかった。最近やたら不機嫌な上司の機嫌が今日は直っているといい、とだけ考えて、恋次は眠りに落ちた。








「兄様。戻りました」
「うむ」

 朽木邸の自室で本を読んでいた朽木白哉は、数日ぶりに聞く義妹の声に、少し安堵して立ち上がった。最近のルキアはほとんどの時間を十三番隊で過ごしており、朽木の屋敷に帰ることは稀で、しかもすぐに立ち去ってしまう。たまに一護と二人で来て茶菓子などを頬張っているが、昔のようにここで生活はしないルキアに、白哉は一抹の寂しさを覚えていた。胸の中の感情が、とても兄らしい温かなものであることに、本人は気付いていない。

「それでは、前回の復習からだ」
「はい!」

 朽木邸の広大な庭で、ルキアに鬼道を教えるのは、白哉のひそかな楽しみでもある。黒崎一護がやってきてから、頻度は減ったものの、その情熱と集中力は、かつてよりもむしろ高まっている。

「縛道の六十三、鎖条鎖縛!」

 ルキアの放った縛道は、白哉の用意した人形を捕らえたものの、脆く砕け散ってしまった。

「詠唱破棄には、普段よりも集中力を使う。霊圧を研ぎ澄ませ」
「はい」

 集中しているルキアの目は驚く程真剣で、その煌めきに白哉はしばし見入った。そして同時に、何故こうも熱心なのかという疑問がわき上がる。
 ルキアは、十三番隊の副隊長を固辞している。しかし、この目は、この情熱は、目的のない者のそれではない。ルキアは何か明確な目的のために、この修行を続けている。それが何なのかはわからないが、ここまでルキアを駆り立てる存在にひとつ心当たりがあった。

「……許せぬ」
「……どうしました兄様?」
「いや、なんでもない。続けろ」
「はい」

 わき上がった怒りに理由はない。最近こんな感情を持て余すことが多いが、一度京楽に相談したら、助言を受けるどころか、大笑いされて終わるという非常に不愉快な経験をした。たわむれに恋次に問い質せば、何とも言い難い生ぬるい表情をして、書類を届けるという名目で部屋から逃げ出してしまった。それ以来、白哉は誰にも相談せず、一人でこの感情と孤独な戦いを強いられることになった。

「ところで、兄様」
「何だ」
「あの囮の人形ですが、どうしてわかめ大使なのでしょうか」
「護廷十三隊で、トレーニンググッズのアイデアを募集していたので、特別に作らせた。良い出来だろう」
「素晴らしいです、兄様」

 溢れる兄の才能に、ルキアは感嘆の息を漏らした。
その仕草に、白哉は自分の中の苛立ちが、幾分か楽になっていることに気付いた。

「さあ、集中しろ。焦りは何も生み出さない」
「……そうですね」

 白哉の言葉に、ルキアの表情が僅かに動いた。その顔に確かに自嘲の色を見た気がしたが、次の瞬間には、完全にいつものルキアに戻っていた。

「縛道の六十三、鎖条鎖縛!」

 ルキアが唱えた鬼道は、霊圧の鎖となって、わかめ大使の人形を見事に締め上げた。






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