自分とルキアが、二人で向かい合っていた。心地良い無言の空気に、柔らかな風が通り抜けた。
自分は、この光景を知っている。
ああ、これは死神代行の、最後の日だ。ぼんやりとその光景を眺めながら、一護はこの光景の正体を知った。同時に、これは夢だ、と理解した。
この日を境に、自分は朽木ルキアをはじめとした死神達と長く別れることになった。けれど再会を果たした今、こんな夢を見ている理由が一護にはわからなかった。夢の中で頭の動きは鈍く、一護はそれ以上深く考えることをしなかった。
夢の中で、自分が笑った。そして、つられるようにルキアも笑った。本心からの笑顔だった。
「じゃあな」
「ああ」
簡単な別れの言葉を口にして、自分達はまた微笑みあった。これが最善の結末だと、信じていた。その気持ちは今でも変わらない。
別れを告げるのと同時に、鮮明だった光景の輪郭がぼやけた。別れの日の光景が、形を無くしてさらさらとほどけてゆく。
ほどけゆく最後の日の光景は、まるで彼女の霊圧のように白く輝く欠片となって、一護の目に焼き付いた。けれど美しいその光景は、すぐに黒に呑まれて消えてしまった。
次に一護が気がついたとき、周囲は雨だった。一護はすぐにこの光景の正体を悟った。この雨を、忘れるはずがない。ここは、死神代行としてはじめての、あの6月17日だった。
一護はすぐにあの墓地へと走り出した。一歩踏み出すごとに、溢れる感情に胸を潰されそうになる。だがそれでも、行かなければいけないという強迫観念が一護を突き動かした。
自分は、もう一度見なければならない。
(何故?)
いくら考えても、理由はわからない。それでもあの場所へと向かう足は止まらない。痛む胸を押さえながら、遂にあの場所まで一護は辿り着いた。そこには、未だ解放されていない斬魄刀を手に、眼前の虚を見据えている自分がいた。
ここは夢の中で、自分には手出しできないとわかっていたが、それでも一護は手を伸ばした。しかしその手は、何もつかみ取ることができず、空を掻いた。過去の自分自身の身体を、一護の指先はするりとすり抜けた。みっともなく身体に穴を開けられた自分の弱さを、為す術もなく、一護は再び目の当たりにしなければならなかった。
自分が叫んでいる。ルキアも叫んでいる。そのうちに、自分は力尽きてルキアの方に倒れ込んだ。一護はその光景を、雨に打たれながらただ傍観していた。
(強くなる)
そう思ったあの日の決意を、今でも一護は忘れていない。今までずっと一護を突き動かしてきたのは、この6月17日の記憶だった。この雨の温度も、血の臭いも、何もかもが鮮明に、一護の記憶に残っている。
不意に、6月17日の光景が曖昧にぼやけ、一護は遠くへと運ばれる自分の意識に身を任せた。その瞬間不意に聞こえたのは、自分の声だっただろうか。
(何故、強くなる?)
「……う……」
「おや、気がつきましたか」
にこにこと笑って自分を見下ろしている四番隊隊長の姿に、一護はもう一度気を失いそうになった。
怖い。笑っているはずなのにものすごく怖い。冷や汗を流しながら、ぎこちない動きで寝かされていたベッドに座り直すと、視線の先に、同じようにベッドの上に座っている朽木ルキアの姿が見えた。ちらりと一護を確認した顔は、若干青ざめている。不運にも自分より先に目覚めてしまったルキアは、一足先に卯ノ花からの精神攻撃を受けていたらしい。
一護はこっそりとルキアに同情した。
「さて……黒崎一護さん、朽木ルキアさん、私の言いたいことはおわかりですね?」
「う……」
「それは……」
背中から流れる冷や汗が止まらない。無言の圧力に、一護とルキアはすぐに降参した。
「たしかに霊圧の譲渡は浅はかであったとは思いますが、あの状況では……」
「そうそう、うまくいったんだし……」
ぼそぼそと紡ぎかけた言い訳の言葉は、卯ノ花の容赦無い視線の前に無力だった。二人は布団の上に正座し、深く反省したように頭を下げた。
「ごめんなさい……」
「もうしません……」
「……全く。今回はたまたま運が良くて無事だったのだと思ってくださいね?普通ならふたりとも死んでもおかしくないんです。今まで失敗したことがない、と思っているかもしれませんが……あなたたちはともかく、浅はかな憧れから真似をする人が出たら、今度こそ死者がでますよ」
卯ノ花は深く溜息を吐いて、二人の行為を諫めた。しかしその内容は、一護とルキアには若干意外なものだった。
「はい?」
「憧れで……真似?」
ぱちぱちと瞬きを繰り返す、全くわかっていない二人に、卯ノ花は呆れの色をありありとのせた表情をつくってみせた。その傍に控えていた四番隊副隊長も第三席も、花太郎までもがうんうんと頷いて卯ノ花の意見を肯定している。
「死神の力の譲渡は、本当に危険な行為なんです。それを軽々と何度も行っていては、周囲に誤解を招きます。無事なのはあなたたちがあなたたちであるからで、他の死神が力の譲渡を行ったら、死ぬ可能性の方が圧倒的に高いんですよ。注目されていることを自覚して、軽率な行動は慎んでください」
「はい……?」
「……注目?」
卯ノ花の迫力の前に思わず返事をした一護とルキアだったが、所々がよく理解できずに揃って首を傾げた。注目は何となくわかる。だが、それが『憧れ』に結びつかない。
頭の上にいくつもの疑問符を浮かべ、小さな声で「貴様の髪色が目立つのだ」「アホか。もっと派手な髪の奴いるだろ。テメーの方が目立つんだよ」と言い争っている二人に、なにもわかってない、と卯ノ花はもう一度溜息を吐いた。
命の恩人を助けるために、ソウル・ソサエティまで乗り込んできた人間の少年。一人の人間と一人の死神、二人の物語は、ソウル・ソサエティ中に知れ渡っている。深く固い二人の絆に、憧れを抱く若い世代の死神が少なくないことに、当の本人達が気付く日がくるのだろうか。
「とにかく、もうこんな真似はしないと約束してもらいます。いいですね?」
「……はい……」
「では二人ともその栄養剤を飲んで、あとは浮竹隊長に叱って貰ってください」
「……はい……」
「お、もう俺の番なのか?こんな隊長らしいことをするのは久々だ!あ、この後白哉も控えてるからな!覚悟を決めろよ、二人とも!」
やたら楽しそうな浮竹の口から尊敬してやまない兄の名を告げられ、ルキアは口の中で小さく悲鳴をあげた。まだお説教が終わらない事を知り、二人は揃ってがっくりとうなだれた。
「はい」「ごめんなさい」「その通りです」「申し訳ありませんでした」をひたすら繰り返し、長々とした説教から解放される頃には、もう夕暮れ時になっていた。
「貴様はずるい。ぐっすりと眠りおって……私ばかりが先に怒られた。不公平だ」
「うるせえな。仕方ねえだろ」
「大体、貴様の霊圧は熱すぎる。寝苦しくてすぐに起きてしまったではないか」
「はぁ?んなこと言ったらてめえの霊圧は冷た過ぎんだよ。俺を凍死させる気か」
「頭が冷えていいではないか」
「てめぇ……」
とぼとぼと隊舎までの道を歩きながら、一護とルキアは相変わらず言い争っていた。疲れているので、いつもより勢いがない。はぁ、と二人同時に溜息を吐くと、二人は顔を見合わせた。そして目があった瞬間、二人同時に吹き出した。
「ああ、もう何もかもどうでもいい」
「あれだけ説教が続くと、もう頭に入ってこねー」
「全く、私達の周りはお節介だらけだ」
微笑みながら愚痴を言い合えば、疲れ切った心が少しだけ潤った。永遠に続くかと思われたお説教も、喉元を過ぎれば、その過度な心配がくすぐったい。
ふう、と息を吐いて、ルキアはずっと気になっていたことを一護に尋ねた。
「何の夢を見ていたのだ」
「あ?」
「起きる直前、苦しそうな顔をしていた」
「……懐かしい、夢だ」
「そうか」
一護は多くを語らなかった。ルキアはそれを追求せず、ただ一護の言葉を待った。一護が話したくなるまで待つ、という約束は、あの6月17日に交わされた。
無言で歩いていると、一護がぽつりと呟いた。
「6月17日だった」
それは、自分達が再会した日のことではない。ルキアはそっと目を伏せた。橙と紫の混じった空の片隅に、小さな星がひとつ瞬いていた。