黒崎一護が入隊して、しばらくの時が過ぎた。
初めは戸惑っていた死神達も、今では黒崎一護や朽木ルキアの行動にいくらかの免疫がつき、それなりに穏やかで平和な日々を送っている。
件の二人のうち黒崎一護は、今日は非番ながら、仕事をしている朽木ルキアの横で、分厚い参考書を読んでいた。
「えー、自壊せよ、ロンダニーニの黒犬……って、舌噛むだろコレ!覚えられるか!」
「大丈夫だ。気合いで何とかなる」
「なるかよ!クソ長え……何十個あるんだ……」
「まあ、破道と縛道をひっくるめれば、ざっと三桁だな。詠唱を覚えたところで貴様が鬼道を使いこなせるとはこれっっぽっちも思わんが、ともかく覚えることが大事だ。励め」
「励ましてんのかバカにしてんのかどっちだよ!?」
書類から目を離さずにルキアが言えば、一護がそのあまりの物言いに噛みついた。この口喧嘩も日常茶飯事だったので、隊員は微笑ましく思いつつ、その光景を見守った。
それからしばらく、一護は参考書片手に奮闘していたが、やがて疲れたのか、本を投げ出して外へと向かった。窓から覗く、きらきらと輝く青空に引き寄せられたような動作だった。
「ルキアー!俺ちょっと出かけてくる!」
「ああ。夕飯までには戻れ。あと、コンを見つけたら回収してこい」
「了解」
ダン、と床を踏む音が聞こえた次の瞬間には、一護の姿はそこには無かった。ルキアは書類から目を上げもせず、気配だけで一護を見送った。
その後、一護のせいで溜め込んでしまった書類仕事を順調に片付けていると、十三番隊に意外な人物がひょっこり顔を出した。
「朽木―!大変!ちょっと来てー!あ、あとこれ拾っちゃった。アンタのペットでしょ?」
「ネエさーん……」
「松本副隊長!コン!」
現れた松本乱菊は、ボロボロになったぬいぐるみを片手にぶらぶら振りながら、ニコニコと笑ってルキアを手招きしている。
近づいてコンを引き取ろうと腕を伸ばせば、そのままその腕をぐい、と強い力で引かれた。唐突にぐるりと身体の向きが変わり、気がつけば、乱菊に抱えられていた。
「今ちょーっと困ってるの。協力してくれる?」
「……は…?」
「いいの!?ありがと!」
息を呑むほど美しい顔をルキアに近づけると、乱菊はにいと笑った。
「スミマセーン!ちょっと四席借りまーす!」
大声でそう宣言した乱菊は、そのままくるりと踵を返すと、ルキアを抱えたまま走り出した。
「ちょ、松本副隊長!どこへ行くおつもりですか!」
「あのねー、一護にガツーンと喝入れてやって欲しいのよ」
「は?一護に?」
「そうそう。今、結構押されてんのよ。せーっかく一護に賭けてるのに」
「賭け…とは?」
「非番の連中で、木刀の稽古してたのよ。一角と恋次と……あと、十一番隊の連中ね。そしたら一護も来て、盛り上がっちゃって。対戦になったついでに、賭けしてるわけ。結構な騒ぎよ?今は、一角対一護!」
「松本副隊長……仕事は……?」
「うちには優秀な隊長サマがいるから大丈夫!」
道すがら、乱菊に説明を求めれば、さらりと種が明かされる。乱菊が走るごとに、遠かった喧噪が近くなってゆく。この喧噪の先で、あの莫迦は莫迦騒ぎをしているらしい。
はあ、と溜息をひとつ吐くと、ルキアは腹を括った。
「松本副隊長。自分で走れます」
「あら、そーお?」
走っていれば、人だかりが次第に大きくなっている。これは、予想よりもずっと大騒ぎになっている。
「乱菊さん!どこ行ってたんですか!」
「恋次!今どうなってる!?」
「一護ヤバいっすね……。ま、あいつも長いこと実戦離れてたし」
「よかったー!じゃあ、間に合ったのね!」
「はい?って……ルキア!?」
「出番よー!朽木!」
息を切らして、乱菊より少し遅れて人の輪の中に突入すれば、乱菊に思い切り背中を叩かれ、更に前へと押し出された。
勢いに転びそうになるのを堪え、前を見れば、木刀を持って戦う一護の姿があった。
押されている。本人も自分の不利を悟っているのか、じりじりと後ろへ下がっている。ルキアは、自分でも気付かぬうちに舌打ちしていた。乱菊に言われるまでもない。すう、と大きく息を吸い込んだ。
一角の突きを捌ききれず、一護が大きく体勢を崩した。他の誰もが、一護ですら、一角の勝ちを確信し始めた、その時。
「行け!一護!!」
声援を切り裂く真っ直ぐな声音が、ギャラリーの耳にも、そして一護の耳にも届いた。
「怯むな!逃げるな!前を見ろ!」
腕を組み、仁王立ちして叫ぶ朽木ルキアの迫力に、誰もが一瞬気圧された。そんな中、黒崎一護だけがにやりと笑っていた。
「あったりめーだ!」
「げ!」
一護の霊圧が膨れあがり、一瞬だけ一角がたじろいだ。それを見逃さず、夜一仕込みの瞬歩を駆使してその場から脱出した一護は、そのまま一気に勝負を決めにかかる。突然雰囲気も戦い方も変わった一護に、一角が怯んだその隙、一護は渾身の力で自分の木刀を叩き込んだ。
「はい、それまで」
「ちょっと待て弓親!あれは反則だろうが!」
「どこが?言い訳は美しくないよ、一角」
「やった!やっぱ朽木は効くわねー!」
審判をしていた弓親が、微笑んで一護の勝ちを宣告した。一護は天に片手の拳を突き出し、朽木ルキアの方を向いた。同じように握りしめた拳を、ルキアも天に掲げる。一護がルキアに近付き、ごつん、と互いの拳がぶつかった。
「勝ったぞ!」
「ふん、負けたら今日の夕飯は貴様の奢りだ」
ルキアは不遜に笑うと、そのまま踵を返した。まだ自分の机には、書類が山のように積まれている。
「それでは、失礼します」
「朽木も見ていけばいいのに」
「仕事があります」
「ふうん。大変ねえ。ありがと」
彼女にも仕事はあるはずなのだが、本人にそれを気にする素振りはない。それどころか、どこからか取りだした酒を、豪快に煽り始めた。
まるで自分のペースを崩さない彼女に苦笑すると、ルキアはその場所を後にした。
「たわけ。何日むくれ続けるつもりだ。無茶な稽古ばかりしていては、身体を壊すぞ。……次は右手」
「うっせーな……」
激しい稽古から帰ってきた一護は、今日も傷を負っていた。溜息を吐いて、ルキアはその傷をひとつひとつ癒していく。こんなことは恒例行事になっていた。一護の無茶な修行のはじまりは、あの日の木刀勝負に遡る。
「恋次に負けたのがそんなに悔しいか。あやつも伊達に隊長格ではない……実戦を離れていた貴様では分が悪い」
「うるせーな。わかってるよ!」
一角戦と同様に乱菊がルキアを呼びに来なかったのは、ルキアの仕事を気遣ったというよりも、彼女自身が恋次に賭けていたからに違いない。
口を尖らせ、目を逸らした一護は、外見が全く変わっていないのも相まって、本当に子供に見える。
その一護の姿にかつての一護の姿が重なり、瞬間、ルキアは混乱した。あれから果たしてどれだけの時間が過ぎ、ここがどこなのか、すぐにはわからなかった。未だ自分は高校に通っているのではないだろうか。そんなあり得ない想像は、明らかに上がっている自分の治療速度に打ち消された。現在はあの死神代行の日々ではなく、自分はたしかに変わっている。
「終わりだ」
「痛って!……サンキュ」
胸の内の感傷をふりほどき、治療が終わった一護の手をぴしりと叩いた。自分が何と言おうと、一護はまた稽古をして、傷だらけになって帰ってくるに違いない。ルキアはひとつ溜息を吐き、横目で時計を確認した。
「ほれ、仕事の時間だ。行くぞ」
「おー」
元来生真面目な一護は、必ず仕事の時間までには稽古から帰ってくる。今日はルキアも同じ時間から仕事だったので、二人で十三番隊の執務室へと向かった。
あらかじめ一護の机にどさどさと書類を置いておいたのはルキアの嫌がらせだが、顔をしかめつつも、一護は真面目に仕事にとりかかった。
「ルキア、これどうすんだ?」
「ちょっと見せてみろ。……これは隊長行きだな。ふむ、かなり減ったな」
「あったりめーだ」
一護の仕事ぶりにルキアが微笑んだ。
この程度のことで喜んだと思われるのも癪なので、一護は必要以上に眉間に力を入れた。しかし、そんな心の動きはルキアにはとっくに見抜かれていて、ルキアが面白いものを見つけた子供の顔で口の端を吊り上げ、隊長行きの書類をひらりと振った、その瞬間。
騒がしい足音に、一護もルキアも、その場所にいた死神が全員振り返った。
「現世で大虚です!すぐに援軍を!」
「場所と、被害情報は!死者は出たのか!?」
その場にいた誰よりも早く、ルキアが叫んだ。死神が震える声で告げるその内容に、ルキアは唇を噛んだ。未だ、誰も死んではいない。けれどもその霊圧は風前の灯火で、おそらく皆怪我を負っている。……急がなければ。
「すぐに隊長に報告しろ!先行する!……行くぞ!一護!」
「おう!」
「え……、朽木四席!黒崎五席!」
「え、おい、朽木!」
「ちょ、待って!」
報告に来た死神と、仙太郎と清音とが同時に叫んだ。けれどもその叫びは届くことなく、ルキアが一護の背中に飛び乗った瞬間、二人の姿は瞬歩によってかき消えた。