「あー……疲れた……」
「まあ、あれだけ走り回れば、そうだろうな」
十三番隊に辿り着くなり、廊下に膝をついてうなだれた一護に、ルキアはさすがに同情した。『挨拶回り』という短い単語を、実際に行動に移していたら、もう一番星が見える時間になってしまった。
原因は主に十一番隊と十二番隊で、特に十一番隊は隊長以下席官どころか、平隊士までが一護を見るなり手合わせを申し込んできたために、逃げ切るのに非常に時間を要した。
そして疲労困憊で向かった十二番隊では、ルキアの鬼道が無ければ、危うく瓶詰めにされるところだった。
「十三番隊への正式な挨拶は、明日の朝だ。簡単な挨拶は今日の昼に済ませているし、今はいいだろう。とりあえず、貴様の住む部屋に行くぞ」
「おー……」
返事をするのもやっとな一護を支え起こし、一護とルキアはのろのろと一護に宛がわれた部屋へと向かった。
「ここだ。……もう、生活必需品は運び込まれているな」
ルキアがそう言って襖を開けたのは、割と大きな一人部屋の和室だった。この待遇の良さは、おそらく上位席官だからなのだろう。生活感のないその場所は、殊更に広く感じられた。コンも一護の頭の上で、興味深げに部屋を見ている。
「一護、コン、こちらへ来い」
一護とコンが部屋にあった引き出しを開けていると、少し離れた場所からルキアの声がした。自分の部屋を出てみれば、いつの間に移動したのか、隣の部屋からルキアがひょっこりと顔を出した。
「この部屋も自由に使え」
そうルキアに案内された部屋は、小綺麗に整頓された、やはり生活感の無い部屋だった。しかしこの部屋は、一護の部屋のように真新しい品物の香りはしない。置いてある調度品はほとんど使われた形跡がなかったが、それでも、長い時間を経た深みが感じられた。
部屋全体から、僅かに花のような香りがする。よく似た甘い香りを、一護は知っていた。
「……ここ、お前の部屋か?」
「ああ。よくわかったな。私は朽木の家に帰るので、ほとんど使ってはおらぬが……これからは、使うことになりそうだな」
よく考えれば、五席の隣の部屋に四席の部屋があるのも納得できる。改めて部屋を見回せば、ルキアらしく、シンプルで寂しい部屋だった。
「コン、これに寝てみろ」
ルキアが押し入れから取りだしたのは、一護が高校生だった頃の机の引き出しくらいの大きさの、木製の箱だった。
「これは……!俺様のパーフェクトボディにジャストサイズ!しかも姐さん、何か底がフワフワっス!」
「これも被れ。うむ、その辺に転がっていた菓子の木箱とクッションだが、貴様の寝床には丁度良い」
押し入れの奥からもう一枚、フワフワした布を取りだしてコンに被せれば、中々上等の寝台と布団が完成した。コンは箱の中で、初めて与えられた自分の寝床の温かさに涙を流していた。
「よし、コン、自分の寝床は自分で運べ。一護、貴様はこの布団を自分の部屋へ。私はこれを持って行く」
「待て待て待て!ちょっと待て!お前何する気だよ!」
ルキアが心なしか楽しげに取りだした物体に、何だか見覚えがあった一護は焦ってルキアを止めた。自分の部屋には布団があるのに、何故もう一組布団を運び込まなければならないのか。一護の頭にはある考えが閃いたが、それが悲しいことに当たっている気がしてならない。案の定、ルキアは『何を言っているのだこいつは』という目で一護を見た後、当然のように一護が恐れていた解答を口にした。
「あの小部屋の住環境を良くするのに決まっているだろう」
ほれ、とルキアが取りだしたのは、かつての一護の部屋の押し入れに勝手に取り付けようとしていた小窓だった。自分の部屋があるのに、しかも大貴族なのに、何故コイツはこうも頑なに自分の部屋の押し入れに住もうとするのか。相変わらずなルキアに、一護の中の何かがふつりときれた。
「ふっざけんなー!」
「何だと!私のロマンがわからぬのか!この鬼め!」
「うっせえ!何がロマンだ!居候は認めねぇ!」
「上司命令に逆らうのか!」
「こんな命令に従えるかよ!」
盛大に怒鳴り合う声は、付近の死神達が驚いて足を止めるくらいに響き渡っていたのだが、一護もルキアもそれには気付かなかった。結局、押し入れの改造は絶対にしないという条件で一護がルキアの布団を部屋に運び込むのを承諾するまで、言い争いは続いた。
「……何だか疲れたな。次は食堂に風呂だ」
「……お前のせいだろうが……」
「貴様が頑固なのが悪い」
「うっせ」
いささかぐったりしながら、二人はまだ言い争っていた。一護に部屋を案内したときよりも更にのろのろと歩きながら、二人は食堂に向かった。
「あ、美味い」
「だろう。日々の楽しみだからな」
食堂のおかずを口に含んで、一護は感嘆の声をあげた。千年以上も死神達の胃袋を満たし続けていたのは伊達ではない。年季の入ったこの食堂の味は、ルキアも気に入っていた。それは他の死神も同じで、食堂は今日も賑わっている。
……つまり、視線が多い。
「何か、すっげえ見られてねぇか……?」
「そうか?」
ルキアは首を傾げた。しかし、これは、間違いなく高校時代に嫌という程味わったあの視線に酷似している。
「お前なあ、猫かぶりやめろよ」
「猫かぶりなどしておらぬ」
突然の一護の指摘に、ルキアは口を尖らせた。なんだよ、じゃあ素でこんなに慕われてんのかよ、と一護は溜息を吐きたい気持ちになった。
この視線は、朽木ルキアを慕っている者が、自分に向けている嫉妬の視線に違いない。高校の頃の経験を踏まえてそう結論した一護は、やはり高校の頃の経験から、こういうのは気にしないに限る、と結論した。そして、目の前の食事を平らげることに集中する。
途中でキュウリの漬け物を奪ったルキアと口喧嘩をした時に、視線の量が一気に増えた。俺は悪くねえだろ!と叫び出しそうになるのをぐっと堪える。
見られているのは一護への嫉妬ではなく、単純に伝説の男への興味と、伝説の二人の関係への興味からで、視線の量が増えたのは、普段からは想像できない朽木ルキアの姿に周囲が面食らったからだ。
注目を集めているのは一護自身でもあり、仮に一護一人だったとしても、量は変われども視線をぶつけられることに変わりはない。それには気付かないまま、一護はルキアの鈍さに心の中で悪態を吐いていた。
「さ、次は風呂だな。さすがに別行動だ」
「当たり前だっつの」
「私より先に出たら、ここで待っていろ」
「へーい」
疲れた、と独りごちながら、二人はそれぞれ浴場へと消えた。
大浴場はそこまで混んではいなかった。それは、時間帯がいいというよりも、単純に浴場が広いのが理由だろう。まずは身体を洗ってから、湯船に身を沈める。ここでも感じる視線に、少しばかり居たたまれない思いをしてから、湯気の奥をぼんやりと眺めていると、不意に、よく知った顔が目に入った。
「花太郎!?」
「一護さん!お久しぶりです!」
ニコニコと笑う花太郎もやはり、かつて会ったときよりも少しだけ大人びている。しかし、喜びのあまり駆け寄ろうとして転ぶ、その姿は相変わらずだ。
「元気だったか?」
「はい!本当に来たんですね!また会えて嬉しいです!」
転んで打ち付けた顎をさすりながら、花太郎は笑った。花太郎のうち解けた空気に、一護も知らず張りつめていた緊張が解ける。それを敏感に察した他の死神達も、少しずつ一護の周囲に集まり始めた。
「一護さん、ルキアさんとはもう話したんですか?」
「どうしてどいつもこいつも二言目にはアイツの話なんだよ……」
花太郎の言葉に、一護は脱力して口元まで湯船に沈んだ。その反応に、そりゃそうですよ、と花太郎が苦笑する。周りに集まっていた死神達も、うんうんと頷いた。
今更ながらに好奇の視線が居たたまれなくなり、無言で背を向けて逃げだそうとした一護だが、許さないとばかりに伸ばされたいくつもの手に、それは阻まれた。一護がそっと後ろを振り向けば、誰もが気味が悪いほどに笑っている。その中で誰かが、口を開いた。
「で、朽木四席との関係は?」
「ただの仲間だ!」
うわあどうしようコイツ。誰もが口に出さなかったが、その時死神の心はたしかに1つになっていた。
死神の質問攻めに遭い、少しばかり親交も深めたところで、一護は浴場を後にした。十三番隊の死神が何人かついてきていたが、縁側に、足をぶらぶらさせながらちょこんと座っているある死神の姿を見つけると、そそくさと一護から離れていった。
本人達に知らされてはいないが、実は今日は護廷中にある命令が下されている。
手持ち無沙汰で座っていたルキアは、一護の姿をちらりと横目で確認すると、ふう、と息を吐いた。
「遅い。れでぃーを待たせるとは何事だ」
「お前がレディーっていう歳か……いってぇ!」
思い切り石けんを投げられ、一護は赤くなっているであろう顎をさすった。その隙にルキアはするりと地面に降りると、そのまますたすたと歩き始めた。
「ちょ、待て」
「知らぬ」
一護が急いで草履を履いている気配を感じて、ルキアは少し微笑んだ。それでも振り向くことなく、二歩三歩と進めば、隣に一護の気配が追いついた。
「明日から、忙しくなるぞ」
「知ってる」
とても静かな夜だった。彼がこの場所にやってきた日にしては、随分と静まりかえっていた。それはひとえに、気を遣われているからにならない。
先程の隊員の反応といい、自分のあずかり知らぬ所で、お人好しな死神達……おそらく、自分の隊の隊長と、その親友の隊長あたりが率先して、『今日は邪魔してやるな』とでも言っているのだろう。
何を期待しているかはともかく、6月17日である今日の、その心遣いはありがたいものだった。きっと明日からは、大騒ぎの日々が始まるのだろう。かつての騒々しさを思い出し、ルキアはひっそりと笑った。
「短い髪は、洗うのが楽だ。忘れていた」
「ずっと長かったのか?」
「ああ。ずっとだ」
「そういや、お前ちょっと背伸びたよな」
「わかるか?」
長い時間が経ち、ルキアの身長がほんの少しだけ伸びたことに一護は気付いた。3センチも伸びてはいない僅かな差だが、それでも確かな違和感だった。
ルキアは笑った。その笑顔は、一護の違和感を見透かしているようだった。
「貴様は変わらぬな」
「うっせ。その内伸びる」
夜が更け、月が一護とルキアを照らしている。今年の6月17日が、終わってゆく。
ルキアは空を見上げた。二人とも無言だった。けれど、思うところは同じだという確信がルキアにはあった。
「一護」
「なんだよ」
ルキアは、少しだけ歩く速度を緩めた。高校生の頃と全く変わっていない後ろ姿にわき上がった感情を、言葉にすることはできなかった。
「一護」
「だから何だよ」
ルキアは息を吸い込んだ。わき上がる感情の中で、ひとつだけはっきりと言葉にできることがあった。そしてそれは、今日を逃せば、きっと口に出すことができない言葉に違いなかった。
「会えてよかった」
「ああ」
それきり、二人は無言だった。その沈黙に満足して、ルキアはもう一度一護の隣に並び、二人で歩いた。