任官式の朝、十三番隊は妙な緊張に包まれていた。皆がそわそわと目配せをしているが、それを口に出すのは難しかった。
任官式は、隊長格だけで行うため、隊長格以外の隊員は通常通り仕事をしている。それは当然のはずだが、朽木ルキアが通常通り仕事をしているその光景に、隊員たちは困り果てていた。
やはり彼女は、副隊長にならないのだろうか。
任官式まであと10分。尊敬する隊長の手前、ルキアに残ってもらいたいはずの清音が、思い余ってルキアに声をかけようとした。
けれど、その一瞬前に隊舎に飛び込んできた人影に、清音は出かかった言葉を呑み込んだ。
「ルキア!」
飛び込んできたのは、白い隊長羽織を纏った一護だった。真新しい隊長羽織の白さと、その背に書かれた『零』の文字に、隊員たちは息を呑んだ。
固まった隊員たちの目の前を横切り、ルキアの机の前に立った一護は、懐から何か取り出すと、ルキアの机の上に放った。
それは、『零』の文字が入った副官章だった。
「行くぞ」
「ちょっと待てそこの莫迦」
呆れ果てたように、ルキアが溜息を吐いた。机に肘をつき、手に顎を乗せて、一護をじろりと睨めば、その視線に一護が怯んだ。
「任官式直前に副官章を投げて、一言も無しか」
「はあ!?ちゃんと言っただろうが!」
「……まさか、アレか」
「おお、アレだ」
一護が頷けば、ルキアのこめかみがひくりと引きつった。
「莫迦者!何十年前の話だ!」
「いいじゃねえか!覚えてたんだから!」
「……覚えてなどおらぬ。貴様が居なくなって、どうでもいい口約束など忘れた。貴様が居ない間、そんな約束、一度も思い出てなどおらぬ」
「そうかよ」
ルキアの言葉は大嘘だ。一護の持つ、ルキアの記憶全てが、真逆のことを一護に告げていた。そしてルキアのわかりやすい嘘に、隊員たちもまた、朽木ルキアが決して十三番隊の副隊長にならなかった理由を悟っていた。
ルキアはちらりと時計を見て、立ち上がった。
「さっさと行くぞ、たわけ。あと10分も無いではないか」
「もう皆揃ってるかもな」
立ち上がったルキアは、机の上の副官章を拾いあげると、当然のように自分の腕に巻きつけた。
一護が何も言わなかったように、ルキアもまた、何も言わなかった。必要なことは、数十年前に既に言ってしまっている。
副官章を腕に巻いた瞬間、言い尽くせない感慨がルキアの胸を横切った。けれどそれを悟られまいと、ルキアは不遜に笑ってみせた。
果ての見えないまっしろな未来と希望の前に、ルキアはもう怯えてはいなかった。その未来に飛び込んでゆくのは、自分ひとりだけではないと気付いたとき、ルキアの胸に満ちたのは、怯えではなく目のくらむようなときめきだった。
そして、ルキアが思い出したように机の引き出しを開ければ、いつもは一護の部屋で時間をつぶしているはずの、黄色いぬいぐるみが飛び出してきた。
「コン、これを着ろ」
ルキアが懐から出したのは、小さな隊長羽織で、背中にはしっかりと『零』の文字が記されていた。コンには内緒でこっそりと作った、ルキア手製の品だった。
「ネエさん!なんすかこれ!」
「一応任官式だからな。気分を出したいだろう。普段はちゃんとしまっておけよ?」
「ネエサーン!大好きです!付いていきます!」
自分にぴったりなサイズの隊長羽織を纏って、感激したコンが叫んだ。コンを肩に載せ、自らも一護の背中に乗ると、ルキアは頷いた。
「当然だ。付いて来い。一生」
コンが感激の叫びをあげたようだったが、その声は隊員たちの耳には届かなかった。一護とルキア、コンの姿は、一瞬でその場から消え失せていた。
めくるめく速さで変わっていく景色を、ルキアはまじまじと眺めていた。一護も、ルキアも、コンも無言だった。
「隊長になったら、何するんだろうな」
奇妙な沈黙に耐えかねて、ぽつりと一護が呟いた。半ば独白のような言葉には、意外なことに、すぐに背後から返事があった。
「しばらくは、他隊からの依頼を受けて自由に動けということだ。目下の仕事は、十三番隊の手伝いだな。四席と五席が一気に抜けて、仕事が回らないらしい。私は四番隊にも呼ばれている。あとは、十一番隊あたりから、溜めこみすぎた書類仕事が回ってくるかもしれんな」
「ちょっと待て。何でお前がそんなこと知ってんだ」
「どこかの莫迦が下らぬ悩みを抱えてウロウロしていたからな。私の方が話が早いと踏んだ総隊長から、貴様の代わりに呼び出された。私も貴様も、ほとんど仕事の引継ぎをしていないから、しばらくは十三番隊にいることになるだろうな」
「結局何にも変わんねえじゃねえか」
「まあ、お飾りの隊だからな。好きにしろとのことだ」
ルキアは総隊長の言葉をそのまま吐き出した。そっけない口調ではあったが、ルキアがその言葉に傷ついているわけではないことが、一護にはわかった。背中に感じる体温越しに伝わるルキアの感情は、むしろ面白がっているようだった。それにつられて一護も笑った。総隊長の言葉に、全く同じことを考えているとわかっていた。
「じゃあ、好きにしてやらねえといけねえな」
「当然だ」
「アッタリマエだな!」
ルキアは大きく頷き、コンもすかさず同意した。全員、飾られたままでいるつもりなど毛頭なかった。果ての見えない未来に戸惑いながらも、全員が全てを受け入れる覚悟を固めていた。
「しばらくは、今いる貴様の部屋と私の部屋が、零番隊の隊舎だ。そのうち、その辺の家でも見繕っておくと言われたが、いつになるんだろうな」
「家って何だよ。隊舎なのに一軒家かよ」
「総勢三名だからな。家が一軒あれば、十分だろう」
徐々に明らかになる零番隊の全貌に、一護が吹き出した。かつて自分が想像していた隊長の姿とはずいぶんと違う。もっとたくさんの隊員を守るつもりだったが、今自分に与えられた隊員は、背中に乗っている一人きりだった。あとは、いつもうるさい隊の置物があるくらいだった。今一護が背中に背負っているものが、一護の隊の全てだった。
「でも、悪くねえな」
一護が小さく呟いた声は、勿論背中の一人と一匹に届いたが、どちらも聞かないフリを決め込んだ。その言葉を拾えば、ガラにもなく、大いに照れてしまう予感がしていた。
「さて隊長。まずは、隊規でも作るか?」
「いいな。隊っぽいなソレ」
「コン。何かいいアイデアはあるか?」
「何がいいっスかねー。んー……無茶はしないこと!」
「……無理じゃないか?一護と貴様が」
「ムリっすね。一護とネエさんが」
「無理だろうな。おめーらが」
コンの提案に、全員が同じ言葉で突っ込んだ。やはり全員が自分を棚に上げていたが、それについては以前派手に言い争っているので、今更喧嘩にはならなかった。
「じゃあ、無茶をするときは事前申告すること!」
「あ、それいいな。採用」
「いつまでに申告すれば良いのだ?3秒前か?」
「お前、せめてそこは10秒くらい前に言っとけよ。他には何かあるか?」
次はコンと同じように、ルキアも首を傾げた。そして、ふと思いついたように宣言した。
「夕飯は午後7時。あと、食後10分以内に必ず歯を磨くこと。勿論採用だろう?隊長」
「……それは、隊規になんのか?」
「少なくとも現時点では、隊員が全員厳守すべきルールだ」
「ネエさんの言う通り!はい、採用ー」
「何かもう、滅茶苦茶だな。ほとんど俺の家じゃねえか」
「わたけ。この隊は貴様の家だ。……はじまりには、ふさわしいだろう?」
「そうだな」
数十年前、はじまりは二人だった。そこにコンが加わって、皆で一護の部屋で暮らしていた。そして長い時を経て、あの場所にいた全員が、もう一度集まった。そんな隊には、あの頃、あの場所で絶対だったルールを適用するのがきっと相応しい。
「付いて来いよ、お前ら」
「たわけ。こちらの台詞だ。私もまだ強くなる。隊長を交代されぬよう、気をつけるんだな」
「そーだそーだ!」
強くなる、とルキアは言った。自分がこれから強くなることを、確信している口調だった。かつて身長を測ったときにも聞いた、その言葉の意味を、一護は改めて胸に思い描いた。
(一緒にいるから、強くなれる)
朽木ルキアは、そう言っているに違いない。そしてそれはきっと、一護もコンも同じだった。隊長と副隊長、マスコットしかいないこの隊で、きっと自分達はどこまでも強くなれる。もう、ひとりではない。
何かの気配を感じて、ルキアは不意に、背後を振り向いた。
視線の先に、たしかにあの時の花の色を見た。その水色の先、別れの場所に、死神代行最後の日の自分が立っていた。
かつての自分は、一護との約束に戸惑い、覚えたての希望に胸を膨らませて途方にくれていた。
そして、最後の約束と、輝かしいもうひとつの世界との日々を、決して忘れまいと決意し、彼と離れている時間の中で、その記憶が失われてしまうことを何よりも恐れていた。
そんなかつての自分の姿を、ルキアは目を細めて見守った。
ルキアはもう、忘れることを恐れてはいなかった。生き続け、忘れ続け、忘れたのと同じだけの新しい記憶が、ルキアの中に貯まってゆくにちがいなかった。そして、大切なことを忘れたとしても、忘れられたとしても、己の生きた証は、この世界とあの世界の、そこかしこに残っていた。その最も大きな証は、今もルキアの腕の中と肩の上で、激しい自己主張と共に息づいていた。
両腕に力を込めて、ルキアはかつての自分に微笑みかけた。すると、あの日の自分と揺れる花のまぼろしは、風に溶けて消えてしまった。そしてルキアは、あの日の花の色だと思っていたものが、今日の青く晴れ渡る空の色だったことに気付いた。
ルキアは視線を正面に戻した。あの日の花と同じ色に澄み渡った空が、視線の先、どこまでも続いていた。
ルキアは笑みを深めると、肩に乗るぬいぐるみにひっそりと耳打ちをした。黄色いぬいぐるみはニヤリと笑うと、無言でぐっと親指を立てて、ルキアに了承を伝えた。
屋根から屋根へと駆け抜ける一護が、どこかの屋根に着地した瞬間、コンはルキアの肩から飛び降り、無言で一護を追い抜いた。それと同時に、ルキアも器用に一護の背中から飛び降りて、前へと走り出していた。
「な、なんだ!?」
「競争だ!負けた奴は夕飯をおごれ!」
「ついでに下僕になりやがれー!」
楽しそうな声をあげると、コンとルキアは返事も待たずに、一目散に目的地を目指した。
突然の事態に一瞬だけ固まってしまった一護は、すぐに己の失敗を悟った。改造魂魄と隊長格の死神を相手に、このハンデは大きい。すぐに瞬歩で後を追えば、瞬歩は卑怯だから禁止だと声が飛んできた。
「ふっざけんな!どっちが卑怯だよ!」
「やかましい!貴様の瞬歩が反則すぎるのだ!」
怒鳴り声は、隊長格の集まる部屋にまで届いた。近付く霊圧と怒鳴り声の応酬に、最後の希望を打ち砕かれて浮竹はがっくりと肩を落とした。京楽春水は浮竹を慰め、卯ノ花烈は吹き出し、日番谷冬獅郎は面倒くさそうに頭の後ろを掻き、朽木白哉は不快そうに片眉を跳ね上げた。そして、総隊長である山本元柳斎重國は、重々しく溜息を吐き出した。
各隊長がそれぞれの反応を見せる中、零番隊の隊長と副隊長、そして彼ら曰く、『隊の置物』はまだ全力で徒競走の途中だった。
「俺様が一番!」
「待て、コン!縛道の四!這縄!」
「ギャアアアア!」
「お前が待て!それは瞬歩より反則だろうが!」
「何をする一護!」
「い、行かせるか!」
「え」
「あ」
「へ?」
目的地まで、あと数歩。先頭を駆け抜けようとしたコンに、ルキアが容赦無い鬼道を放ち、先へと飛び出した。けれど、コンを仕留めて油断した一瞬を突き、一護がルキアの首根っこを捕まえた。それと同時に、ルキアの縛道でぐるぐる巻きになったコンが、最後の執念で一護とルキアの足をしっかりと掴んだ。
思いがけないコンの動きに、一護が空中でバランスを崩した。そして、一護に捕らえられていたルキアも、同じように身体の均衡を崩した。すると、二人にしがみついていたコンも、ごく自然の成り行きで、運命を共にする羽目になった。
『ぎゃあ』とも『きゃあ』ともつかぬ叫び声と共に、二人と一匹はもつれ合いながら、隊長格の集う部屋へ、そしてまっしろな未来へと、全員同時に飛び込んだ。