彼の本来の世界へと帰っていった一護を見送った後、ルキアは再び、別れの場所に立っていた。 先程まで一緒にいたのに、これから先、きっと数十年も彼に会えないことが、不思議でならなかった。ひとりになったら、きっと泣くのだろうと思っていた。けれど涙は流れなかった。ルキアの心を占めたのは、寂しさではなく、別れ際の言葉への混乱だった。 どうしよう、と小さく呟いて、ルキアは途方にくれた。こんなことになるのは、全く予想外だった。 けれど混乱していても、頭に浮かぶのは一護の言葉ばかりだった。ただの口約束だ、気にすることはない、と頭を振っても、その言葉はルキアの思考を縛り続けた。 不意にルキアは、思い描いていたささやかな未来が、頭から消えていることに気付いた。 ルキアは、一護が年老いるまで、一緒にいる自分を想像していた。叶わないと知りながらも、それは、希望のようなものだった。 けれど今、いくら思考を巡らせても、ずっと空座町にいる自分は想像できなかった。代わりに、もっと別の想像が、ルキアの心に鮮やかに浮かび上がった。 真新しい隊長羽織を纏った、オレンジ色の死神の背中が見えた。そしてその隣には、肩に黄色いぬいぐるみを乗せて、腕に副官章をつけた自分の姿。 一護の言葉が、思いがけぬ未来を紡ぎ出す様を、ルキアは信じられない思いで見ていた。 「たわけが。ふざけるな。一体、いつになるのだ」 元の世界に帰っていった少年に呟いた悪態が、そのまま自分に跳ね返って、ルキアは益々狼狽した。彼が再びこの場所に足を踏み入れるまで、あとどれくらいの時間があるのだろう。 ルキアは頭を左右に振って、やるべきことを頭に思い描いた。隊長格になるには、まだ何もかも足りない。 「数十年……鬼道が必須で……瞬歩に、戦闘能力……あと、事務能力も必須か」 考えを巡らせば、数十年という時間が決して長くはないことに気づき、ルキアは固まった。長いどころか、思い描いた全ての能力を得るためには、短すぎるほどの期間だった。 「あのたわけが。最後の最後に、とんでもないことを」 毒づきながらも、ルキアは頭の中で真剣に計画を立てた。鬼道は、義兄と五番隊の副隊長に頼み込もう。そして、きっとあの莫迦は隊長になっても怪我ばかりするに違いないから、四番隊に頼んで治療の手伝いをさせてもらおう。あの莫迦はきっと書類仕事に向いていないから、しっかり教えられるように、事務仕事も一通りできるようになっておかなければ。おそらくこれから先、数十年間。歩みを止めること無く努力を続けることができるだろうか。 髪を伸ばそう、と反射的にルキアは思った。 髪を伸ばせば、毎朝鏡を見た瞬間、この約束を思い出せるだろう。気が急いて、ルキアは自分の髪の毛先を、意味もなく引っ張った。 うつくしいまぼろしの未来が、希望の光となってルキアの胸を煌々と照らしていた。 その光を自覚したとき、混乱の中に立ち竦んでいたルキアは、ようやく泣くことを思い出した。けれど流れた涙は、寂しさからではなかった。 ルキアに涙を流させたのは、離れてもなお、自分に輝く希望を与えてくれたもうひとつの世界への、言葉にならない感謝と、途方も無い愛しさだった。 ルキアはずっと、あの世界に恋をしていた。それは、この青空をまるごと抱きしめるような、身の丈に合わない恋だった。 恋はいつでも、ルキアの息を詰まらせ、その胸を容赦無く焦がした。とろけるような幸福と理由の見えない焦燥と背に貼りついた罪悪感。それに一抹の諦めを加えてぐちゃぐちゃにかき混ぜたものが、ルキアの恋だった。 それでは、今、胸から溢れるあたたかい感情を、何と呼ぶのだろう。自分に望んでいた居場所を与え、命どころか魂まで救い出し、叶わぬ夢を想像して己を慰めることしかできなかった自分に生きる希望さえも与えてくれた、あの世界への感情につける名前を知らなかった。 ただ、この感情を決して忘れないことだけを願った。 髪を伸ばして、自分は、どこまで覚えていられるのだろうか。忘れてしまうのだろうか。彼と過ごした日々も、もうひとつの世界の見せた鮮やかなまぼろしの未来も、胸の中で大きく弾けた感情も、この場所で揺れている花の色も、いつかはことごとく、記憶から消えてしまうのだろうか。 「思い出す日……そうだな、いつにしよう」 まだ、夢のなかに居るような感覚が消えない。ルキアは零れ落ちた涙を拭うと、一年に一度、あの少年と共に過ごした日々と、この約束を思い出す日を作ろうと決心した。 その日は、何月何日が良いのだろう。自分がはじめてあの莫迦に出会った日。あの莫迦の誕生日。そんなものは、もってのほかだった。勝手に何かを納得した上司や同僚たちから、生ぬるい目で送り出されるのを想像するだけで、ぞっとした。どうせなら、誰も知らない、そしてとても重要な日が良かった。 ルキアは首をひねって、一年に一度の日を思い悩みはじめた。 座り込んで考え込んでいるルキアの周囲には、誰もいないはずだった。けれど誰かに見られている気がして、ルキアは振り向いた。 穏やかな風を受け、水色の花がひっそりと揺れていた。その先に、うつくしい未来が、横切った気がした。腕に副官章をつけて駆け抜ける自分の姿を、ルキアはたしかに見た。未来のルキアはこちらを見ると、柔らかく微笑んだ。しかしそれは一瞬で、瞬きをする間に、まぼろしの未来はかき消えた。 何度も瞬きを繰り返し、視線の先に誰もいないことを確認すると、見間違いだと納得したルキアは、再び『一年に一度の日』を選り出すことに没頭した。 考えに没頭するルキアの背後で、たおやかな手が、そっと咲きこぼれた花々を撫でていた。白い指先に弄ばれ、小さな花が小刻みに揺れた。 まぼろしの女性は、座り込んで水色の花を撫でながら、目を細めて、晴れ渡る空へと視線を向けた。眩しそうに眉に手を当てて目を庇いながら、彼女は青く晴れ渡った空を、飽かず長い間眺めていた。その空の向こう側に、彼女にしか見えない未来を見つけ、楽しそうにくすくすと笑った。 ここではない空の向こうで、二人と一匹が絶叫し、もつれ合いながら落ちてゆく様を見届けると、美しい人は一瞬だけ目の前の朽木ルキアに視線を流して目を伏せた。彼女が祈るように目を閉じた次の瞬間、その姿はかき消え、一陣の柔らかな風が舞った。 風は、撫でていたわすれなぐさをふわりと揺らし、そっとルキアの頬に口づけて、未来へと繋がる青空へと吹き抜けた。 熟考の果て、一年に一度の日を選り出した瞬間に、ルキアは胸に溢れる感情の名前を知った。そして次の瞬間には、自分がこれからこのまぼろしの未来の為に生きていくことを確信してしまった。それを不本意だと思いながらも、ルキアの胸は、覚えたての希望に満ちていた。 これから先、この約束を忘れることは、決してない。 ゆき ことごとく わすれゆく
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