一護の机に無造作に置かれたものが気になって、その場にいる隊員たちは、うまく仕事に集中できずにいた。
一護の机の上に置かれていたのは『零』と書かれた副官章で、一護はそれを見つめながら、ぼんやりと考え事をしていた。
既に、新しい隊長が誕生することは周知の事実だった。
「一護。今日は本当は非番だろう。仕事が無いなら、どこかで休憩してこい」
「おー。そうする」
晴れて職場に正式に復帰したルキアが、見かねて呆れた声をかけた。先の一件で、いつでもとりあえず職場に顔を出す習慣がついてしまった一護は、頭を掻くと副官章を持って、隊舎の外へと消えた。一護が消えると同時に、清音がもう我慢出来ないとばかりに近寄ってきた。
「で?隊長になるのが決まって結構経つけど、もう言われたんでしょ?何て言われたの?」
清音が言っているのは、零番隊の副隊長の件だろうとすぐにわかった。ルキアは苦笑して、嘘ではない言葉を吐いた。
「何も言われてませんよ」
一護から隊長になるという報告は受けたが、零番隊の副隊長の件は何も聞いていない。そもそも一護が隊長になるという事実だけでルキアの感情は許容量の限界に達し、副隊長の事に関しては全く気にしていなかった。
だが、ルキアが雑談のような気安さで答えた返事は、清音どころか、周囲に居た隊員全員を固まらせた。
誰もが、当然のように副隊長は朽木ルキアだと考えていた。そして当然のように、隊長になると決まったその日に、副隊長になって欲しいと彼女に伝えているものだと思っていた。
その場にいた隊員たちの脳裏によぎったのは、浮竹の誘いを頑なに断り続ける朽木ルキアの姿。まさか、彼女は今回も、副隊長を固辞するつもりなのではないだろうか。副官章を持って神妙な顔をしていた黒崎一護の姿が、その想像を裏付けている気がした。
果たして、零番隊の副隊長は誰なのか。噂はその日のうちに、瀞霊廷中を駆け巡った。
「おい」
「……何だよ」
コンが散歩中に、土手で昼寝をしている一護の姿を見つけたのは偶然だった。呼びかければ、すぐに返事があった。つまり、眠ってはいなかったのだろう。コンは、一護の腹の上に軽い足音を立てて着地した。
「すっげえ噂になってるぞ。何で俺様まで質問攻めされなきゃいけねえんだよ」
「噂?」
「誰を副隊長にするのか、ってよ」
「ふーん」
一護は興味無さそうに、副官章を顔の前で弄び始めた。どれだけ文句を言っても無駄だと悟り、コンも一護の横にごろりと転がった。雲がゆっくりと流れていくのを視線で追いながら、コンは呟いた。
「もう、決まってんだろ」
「ああ」
「じゃあ、何でそんな微妙なツラしてんだよ」
「うるせえな」
一護は再び無言で副官章をいじりはじめた。長い間無言で横になっていたせいで、眠りかけたコンの耳に、まるで少年のような一護の声が聞こえた。
「これからどうなるか考えたんだけどよ。……何にも思い浮かばねえんだ」
「そんなこと知るかよ」
一護は、未来の自分を想像した。けれど、未来はことごとくまっしろで、何も見つけ出すことができなかった。一護の胸中に宿ったのは、漠然とした不安と、自分の悩みを相棒には悟られるまいとする、子どもじみた意地だった。
「何にもないなら、やりたいようにすればいいだろうが。一人じゃねえんだ。どうとでもなるだろ」
コンの呟きは、一護の肩の力を少しだけ和らげた。照れたように笑えば、コンも恥ずかしくなったのか、ぷいと一護に背を向けた。
「情けねえ、俺」
「全くだ。いくら悩んでたところで、張り倒されるだけだろうが。なめんなよ。テメエの悩みなんてその程度なんだよ。殴られて怒鳴られれば、解決しちまうんだ」
「違いねえ」
今度こそはっきりと一護は笑った。何が起こるかわからない未来に、共に向かう仲間がいるのだと、理解した笑顔だった。
ちょっといい空気に耐えかねたのか、コンは突然叫び、飛び起きた。
「あー!この空気気持ワリー!俺様は行くぜ!美女が俺様を待ってんだ!」
「おう。ありがとな」
一護の礼に、嫌そうな顔をしてからコンは走り去った。コンもまた、自分の将来と、悩んでいる一護が心配だったのだと一護には分かっていたが、励ましてくれた礼のつもりで、一護は知らないふりを決め込んだ。
「そうだな、その程度だ」
自分がいくら悩んでも、いつか歪んでしまっても、あの相棒がきっと自分を元に戻してくれる。一護のそれは、確信だった。
一護は副官章を懐にしまい込み、今度こそ昼寝をしようと目を閉じた。未来は、途方も無いスリルと可能性を持って一護ににじり寄っていた。穏やかな微笑を浮かべ、一護はまっしろな未来を受け入れた。