「お前、何だよコレ」
「昼間言っただろう。我々には言葉が足りない」

 夕食後、どこかに消えていたルキアは、寝る直前の一護の目の前に、荷物を持って現れた。ルキアが籠に詰め込んだのは、色とりどりの洋菓子と和菓子。そして、携えているのはおそらくお茶の入ったポットだった。
 ルキアは、背後を振り向いた。開け放したままの襖から、夜空が覗いていた。

「いい夜だ。昼は貴様に付き合ったのだから、私にも少し付き合え」
「高校生みたいだな」

 お茶とお菓子を持って夜更かしをする、その様を想像して一護が笑った。一護がルキアの荷物を引き受けると、ルキアは眠りこけているコンを拾い上げた。
 無事に眠っている間に身体の修理が完了したコンは、技術開発局特製の薬のせいで、相変わらず眠りこけている。

「せっかくだし、連れて行くか」
「どこに行く?」
「適当でいい。邪魔が入らなければな」

 コンと一枚の毛布を抱えてルキアが告げれば、少しだけ考えた素振りをした後、一護は隊舎の屋根の上に向かった。
 執務室とは少し外れた、資料室の方向に向かえば、屋根の上は勿論、周囲にも人の気配はまるで無かった。夜勤の隊員にも、屋根の上で動く不審者を発見されることは無いだろう。そして荷物を広げるのに、広い資料室の傾斜が緩やかな屋根は有難かった。

「ほれ」
「サンキュ」

 ルキアから熱い紅茶の入ったカップを受け取った一護は、息を吹きかけてから中身を少し啜った。ルキアも同じように、紅茶に息を吹きかけている。

「一護。……私は貴様に、ずっと謝りたかった。ずっとだ。初めて会った時から」

 一護は前を向いたまま、紅茶を啜っていた。ルキアの呟きは、独白のように、夜風に攫われた。

「けれど結局、謝ることはできなかった。恐ろしかった」

 謝ってしまうのは、自分の罪を認めるのと同じだった。自分がこの子供を戦いに導いたのだという明らかな罪から、ルキアは逃げ続けていた。ルキアは己の心を呪った。本当は謝りたいわけではなかった、と痛いほどわかっていた。
 本当は、ゆるしてくれ、と言いたかった。
 そんな自分の醜さから目を逸らして、今までずっと過ごしてきた。
 こみ上げる感情を、ルキアは紅茶を飲み下すことで抑えた。何十年も、ずっとずっと言えなかったことを、今なら言うことができるだろうか。

「すまなかった。一護」

 一護に視線を送ることはできなかった。不意に空気までもが冷たくなったのは、気のせいだろうか。ルキアは、熱い紅茶の入ったカップを、強く握り締めた。

「俺は、ずっとお前に礼が言いたかった。結局言えないままだったけど」

 意外なことを言い出した一護に、ルキアは顔を上げた。それは遥か昔、幼馴染に聞いたことだった。けれど、ルキアはそれを一護に問い質すことはしていなかった。

「俺は、ずっと何かしたかった。何も出来ないのは嫌だった。けど、死神になれた。この世界も、死神も、嫌いじゃねえよ。嫌いになんてなるかよ。バカじゃねえの」

 ルキアは、カップを強く握り締め、目の前にある月を凝視していた。少しでも気を抜いたら、緩みきった涙腺から、涙が零れてしまうところだった。
 ルキアの横に、美しい希望が座っていた。希望は、出会った頃と変わること無く、ルキアの心の中を照らし続けていた。

「ありがとな、ルキア」

 その一言、に。ゆるされたのだと、思った。
 今まで我慢していた涙が溢れ、ルキアは下を向いた。強く瞬きを繰り返し、強制的に涙を払った。
 ルキアは、大きく息を吸い込んだ。夜の空気は、ルキアの身体の隅々までに染み渡った。呼吸が楽になったのは、きっと自分が今、新たに生まれ変わったからだった。生き続けて、全てが遠い過去になってなにもかも忘れても、変わらぬものの正体に、ルキアは辿り着いた。それは、決して揺らぐことのない、己の生きた証だった。
 不意に頭の奥から、声が聞こえた。やさしい、子供の声だった。

(ありがとう)

 子供の声が、不器用な死神の声と重なる。
 ほろりと、瞳の奥から一筋の涙が零れた。これが最後だと、ルキアにはわかった。
ルキアは呆然と、一護を見た。

「一護」
「何だよ」
「終わった」

 あの時一護の精神世界で引き受けた一護の涙は、もうルキアの頬を濡らすことは無い。引き受けた涙の全てを流し尽くし、ルキアは一護を見上げた。
 一護の片手が、そっとルキアの頬に伸びた。ルキアは、導かれるように目を閉じた。柔らかな風が頬を掠めたと思った次の瞬間、ルキアの眦から流れた最後の涙を、一護の指が優しく拭いとった。
 ルキアは、あの子供の顔を頭に思い描いた。泣き顔ばかりを見ていたはずなのに、頭に浮かんだその顔は、屈託無く笑っていた。

「んー……姐さん……」

 不意に、第三者の声が響いた。二人で弾かれるように声のした方を振り向けば、コンがモゾモゾと動き出すところだった。
 まだ半分夢の中にいるのか、宙に手を伸ばして抱き締めるような仕草をした後、その腕が空を掻いてコンは目を覚ました。大きく瞬きを繰り返し、コンは、綿が飛び出していない自分の腕を理解するのに数秒を消費した。

「……直ってる!?」

 がばりと飛び起きたコンは、座り込んで自分の身体をぺたぺたと触り、確認した。いつ千切れるのかと心配していた腕は、しっかりと縫いつけられている。所々飛び出していた綿も見当たらない。そういえば、身体も全体的にふわふわだ。
 呆然と顔を上げれば、笑っている一護と、そして女神の姿が目に入った。美しい女神は、照れたように笑いながら、「約束だったからな」と呟いた。

(私が戻ったら、直してやる)

 ルキアが頭を撫でて約束したのは、彼女が記憶を失う前だった。そして彼女は、その約束を果たしてくれた。眠って起きたら、まるで魔法のように。

「ネエサーン!」

 コンは涙を流しながら、女神の胸に飛びついた。そしてルキアは、おそらく初めて、コンを叩きつけずに、しっかりと胸に抱き締めた。

「すまなかったな、コン」

 ルキアは、泣きじゃくるコンをあやすように、優しく頭を撫でた。それに感激して、コンはまた新たな涙を流した。
 感激がようやく落ち着いたのか、どこか照れ臭そうにコンが顔を上げた。普段とは似つかぬしおらしさに、一護とルキアは吹き出した。

「こんな所で何してるんスか?」
「お茶会だ。コンも混ざれ」

 コンはルキアの肩の上に乗ると、お菓子の詰まった籠を興味深そうに眺めた。

「……そういやお前、何してたんだ?」
「そういえばそうだな」
「へ?俺様?」

 唐突に話を振られたコンは、ぽかんとした顔で二人を見上げた。死神代行最後の日から再会の日まで、浦原商店に引き取られたこのぬいぐるみが何をしていたのかは、未だ謎に包まれていた。
 浦原商店での日々を思い出したコンは、ぞっと身震いした。浦原商店での記憶は、コンのトラウマとの戦いの記録だった。

「ムリムリムリムリ!思い出せねえ!忘れた!忘れたんだ!忘れさせてくれ!」

 涙目になってコンは叫んだ。忘れたと叫びながら全く忘れていないコンの顔に、何があったのかを大体悟った二人は、吹き出した。

「忘れさせろとは贅沢だな」

 先日まですっかり記憶を失っていたルキアは、呆れたように笑った。コンは、ルキアに謝りながらも、涙目で忘れさせてくれと繰り返し呟き続けていた。
 理不尽なトラウマに晒されてばかりだった浦原商店での日々を、勇気を出して思い出してみれば、コンは不思議なことに気付いた。一緒にはいなかったはずなのに、思い出すのは目の前の二人のことばかりだった。
 つまり、浦原商店で、かつての日々を思い返してばかりいたのだと、コンはすぐに気付いた。

「……お前らのことばっかりだ」

 小さく呟いた言葉は風に溶けて、一護もルキアも聞き逃した。コンが何と言ったのかわからず、まじまじとコンの顔を見つめる一護とルキアに、コンはヤケになったように叫んだ。

「浦原商店でも、ずっと忘れたことなんてねえよ!いつもあの小汚ぇ一護の部屋と、ネエさんのイイ匂いのする押入れのことばっか考えてたら、何十年も過ぎてたんだよ!」

 コンの言葉に固まっていた一護とルキアは、やがて同時に吹き出した。全員が思っていたことを口に出したのはルキアだった。

「それでは、私達は全員、離れている間中同じことを考えていたのか。莫迦ばかりだな」
「違いねえ」

 一護もルキアもコンも、なんだかとてもおかしくなって、皆で笑い出した。全員、口に出さないことが多すぎた。自分達はもうあの頃と何もかも変わっていた。けれど、何も変わっていなかった。
 ルキアが一護のコップに、熱い紅茶を継ぎ足した。自分のコップにもお茶を足して、零れた湯気をふうと吹いた。そして、忘れかけた目的を口にした。言いたくても言えなかったことは、今ここで吐き出してしまわなければならない。

「さて、コン。我々に何か言っておきたいことはあるか?」
「言っておきたいこと?」

 コンがルキアをまじまじと見れば、ルキアは子供のように無邪気な光を瞳に湛えて、不遜に笑っていた。その視線に促されて、コンは大きく息を吸った。出会った頃から、ずっとずっと腹に据えかねていたことが、ひとつだけあった。

「無茶ばっかしてんじゃねーぞバカヤロー共!」

 コンの言葉は、意外なほど大きく響いた。もう何十年も思いつめていたことを吐き出して、肩で息をしながらも、コンの胸は爽快だった。しかし、思いの丈をぶつけられたバカヤロー共は、自分を棚に上げて平然としていた。

「それは私の台詞だ」
「俺の台詞だろ」

お互いから出た信じられない台詞に、数秒の間があって、全員がやはり同じことを考えていたのだと知って、再び全員で吹き出した。

「一護にだけは言われたくないな、コン」
「そうだそうだ!」
「はぁ!?テメーらだって昔っから厄介事に首つっこんでばっかりだっただろうが!」
「いつの話だ?残念ながら、全く覚えていない」
「すっとぼけんな!初めて会ったときもだろうが!コン!テメーもだ!」

 誰が一番無茶かを決める争いは、いつの間にか昔話にすり変わった。三人で笑い、言い争い、一枚の毛布にくるまりながら、深夜の『お茶会』は、夜が明ける頃まで延々と続いた。


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