一護があの場所に行こう、と言い出したのはネムが訪ねてきた数日後のことだった。コンの修理も無事終わり、相変わらずの待機命令で暇を持て余していたルキアに、拒否する理由は特になかった。
足音が聞こえ、一護の霊圧が近づく。襖の向こうで「開けてくれ」という声が聞こえたので、慌てて襖を開けば、そこにあったのは意外なものだった。
てっきり一護が現われると思っていたのに、ルキアの目の前にあるのは色とりどりの花ばかりだった。ルキアは驚いて一瞬たじろいだが、花と花の間に見慣れたオレンジ色を見つけ、苦笑した。
「ルキア、準備できたか?行くぞ」
「少しは加減をしたらどうだ。花束の化物かと思った」
「花屋に言ってくれよ。昔白哉にもらった……えーと、桜紋朽木……あの札、なんつったっけ。あれ渡してとりあえず花束くれって言ったら、いきなりこうなった。一個持ってくれ。前が見えねえ」
大きな花束をふたつ抱えた一護は、ひとつをルキアに渡した。その花をルキアがしっかりと抱えると、一護もまた片手に花束を抱え、ルキアに背を向けた。ルキアは当然のように、その背中の上に乗った。
二人とも片手が塞がれているので、いつもよりバランスが悪い。ごそごそと動いているルキアを驚かせるため、一護はいきなり瞬歩で走り出した。案の定、慌てて花束を抱え直したルキアの声が、背中の上から降ってきた。
「一護!この莫迦者!落ちたらどうする!」
「しっかりつかまってろ!落とすぞ!」
「花が散るぞ」
「こんだけあるんだ。ちょっとくらい散っても大丈夫だろ」
気付けば、一護が駆ける衝撃で、花弁が僅かに空中に舞い上がっていた。花弁は、二人の駆けた道に、跡を残すようにひらりひらりと舞っていた。
程なくして墓場に到着すると、一護とルキアは無言で墓の前に花束を置いた。無言のまま、風を受けてかすかに揺れる花束を眺めていた。
「一護。これは、ここに埋めておこう」
ルキアは懐から手紙を取り出し、一護の前にかざした。それを取り上げようとした一護の手をするりと避けると、ルキアは打ち捨てられたままだった箱の中に、ウサギのシャープペンシルと共に手紙を収め、蓋を閉じた。
「もう一回くらい読ませろよ」
「たわけ。恥ずかしいだろう」
全く恥ずかしがっていない口調でルキアが笑った。あっさりと引き下がった一護も、本心ではルキアに反対しているわけではないのだろう。箱を持ち、「手を貸せ」と命じれば、一護は素直にその指示に従った。
箱に土をかけている間、二人はどちらも無言だった。無言のまま、朽木ルキアが育んだまごころが埋まってゆく様を眺めていた。
地中に箱を埋め、改めて花束の位置を直したとき、ルキアの瞳から涙が零れ落ちた。その涙を拭うこともせず、ルキアはそこに佇んでいた。
流れ落ちる涙は、有難かった。涙を流すことが得意ではない自分のために、幼い子供が代わりに泣いてくれているのかもしれない、とルキアは思った。
箱を埋めて、ルキアの胸に去来したものは、終わったという感慨だった。
ルキアの胸を占めたのは、途方も無い寂しさだった。二人出会った頃は、もう、ずっと過去の話になってしまった。手紙を埋めて、過去の記憶に区切りをつけたところで、もうあの頃には戻れないのだとルキアはようやく実感した。
「一護。……私は、忘れた。何一つ、忘れてなどやるものかと思っていたのに」
もうひとつの世界が手の中に転がり込んだ頃、この宝物のような記憶は、自分の中で決して消えることはないのだと信じていた。けれど、遠い記憶は美しい余韻だけを残し、既に幾つも取り零されている。その余韻すら消えてしまうことを、ルキアは恐れた。
「当たり前だろ。生きてるんだから。俺だって忘れた」
「あの頃私は、すぐに死ぬのだとばかり思っていた」
何故生きているのだろうと言わんばかりの仕草で、ルキアは己の手を見つめていた。その手は、泥で汚れていた。
「生きていれば忘れる。これから先、生き続けても忘れないものが、あると思うか」
二人の視線の先には、石を置いただけの墓と、風に揺れる花束があるだけだった。これから生き続けた先に何が起こるのかを、ルキアははじめて考えた。けれど頭の中には、何も浮かばなかった。未来は、目が眩むほどまっしろに、果てしなく広がっていた。
「忘れても、無かった事にはならないんだろ?」
そっと横に視線を動かせば、一護が笑っていた。その顔をはっきり見るために、ルキアはようやく涙を拭った。
一護の言葉は、かつて自分が考え、手紙に記したことだった。誰の記憶に残らなくても、自分のいた痕跡は、完全に消えはしない。だからあの手紙を書いたとき、死ぬことは恐ろしくなかった。恐ろしかったのは、愛した世界が歪んだままで存在することだった。
「そうだな」
ルキアは前を見据えた。心はかつて、愛したもう一つの世界に置いてきた。そして、彼と離れていた間に育んだ感情は、この場所に埋めた。今この瞬間が過去になっても、自分はきっと生きてゆける。
「……話したいことが、あるのか」
静かにルキアは聞いた。一護が自分をこの場所に誘った理由を、まだ聞いてはいなかった。一護は、ルキアから視線を逸らした。
「……やっぱいい」
「そうか」
「そこであっさり引くなよ」
言うつもりがないのに、一護は苦笑した。ルキアも少し笑ったのが、視線を向けずとも気配でわかった。
「私達には言葉が足りない。そう思わないか?」
「そうだな。でも、そんな簡単に直んねえだろ」
「全くだ」
柔らかな風が、一護とルキアの髪をさらさらとくすぐった。自分達が変わるには、まだ時間が必要だ。そして今、その時間を、一護とルキアは手にしていた。
「帰るか」
一護の言葉は、呆気ないほどあっさりと空気に溶けた。ああ、と頷き、ルキアが墓に背を向けようとした、刹那。
「俺、隊長になる」
背中にかけられた声に、ルキアは固く目を閉じた。感情が溢れても、やはり声は出なかった。涙が一筋頬を伝った。その涙の持ち主は、きっとあの子供ではなかった。