涅ネムは、静かに十三番隊隊舎を歩いていた。何故か隊舎にいる他隊の副隊長に、何人かの死神が驚いて足を止めたが、ネムは意に介さなかった。
「失礼します」
目的の部屋の前まで辿り着くと、ネムは襖を開いた。そこには、黄色い布を片手に、縫い物をしている朽木ルキアが座っていた。
「涅副隊長」
「少し、様子を伺いに参りました」
にこりともせずに告げれば、ルキアは笑って窓際に視線を送った。そこには、ビー玉のようなものが置かれていた。
「本体のままだと、本当に眠っているかわかりません」
「お渡ししたのは、少しでも吸えば三日間は眠り続ける薬です。きちんと吸わせましたか?」
「ええ。ビニール袋の中に閉じ込めて、たっぷりと」
「それでは、十日間はまず起きないでしょう」
静かに、ネムは断定した。その言葉に、安心したようにルキアは笑った。
「それは良かった。少し余裕ができました。三日で完成するのか、少し心配でしたから」
ルキアは、手に持っている黄色い布を掲げた。それは、手足が千切れかけ、綿が飛び出たコンの身体だった。
新しい布を用意し、ルキアはコンの身体を、ひと針ずつ丁寧に繕っていた。普段は口に出せない感謝と愛情を込めて、少しずつ。ついでだから、中の綿も変えてしまおうとルキアは思っていた。
「眠っているから、ですか」
「ええ。起きている時に、あんな扱いはしません」
ネムの少なすぎる言葉を、その視線から察してルキアは応じた。ルキアの言葉に、ネムはようやく表情を綻ばせた。
ネムの視線の先には、ガラスの器に柔らかい布を敷き、その上に宝物のように置かれた改造魂魄の姿があった。
日のあたる場所に置かれ、きらきらと太陽の光を反射しているその姿に、ただ一人、本人だけが気付いていない。彼は、『驚かせたい』というとても子供じみた理由で、強制的に眠らされてしまったのだから。技術開発局の開発した睡眠ガスは、改造魂魄相手でも、正確に使命を全うした。
ネムは、誰かを捜すように、少しだけ視線をさ迷わせた。その仕草に、ルキアが笑った。
「一護なら、仕事と修行です。もうしばらくは戻りません。本当は、私も本格的に仕事に復帰しなければならないのですが、皆過保護で困ります」
朽木ルキアの記憶と霊圧が戻ってもう三週間ほど経とうとしているが、ルキアは相変わらず自宅静養を命じられていた。もう大丈夫だ、と我儘を言って仕事場に押しかけたりもするのだが、せいぜいが半日で帰らされてしまう。ルキアが居ない間の仕事は全て、一護が代行しているのだと思うと、少し心苦しい。
「それが治らない限りは、完全復帰は無理でしょう」
「え?……ああ、もうかなり治ってきたので、油断しました」
「どうぞ」
ネムは懐から真っ白なハンカチを取り出すと、ルキアに差し出した。ルキアは多少面食らいながらも、礼を言って受け取ると、唐突に、意志に反して溢れた己の涙を拭った。
一護の精神世界で引き受けた涙は、相変わらずルキアの頬を濡らしていた。記憶を取り戻した直後は、起きている時も寝ている時も、ずっと涙を流し続けていた。一週間もすれば、ずっと泣いていることはなくなったが、それからもずっと、ふとした瞬間にルキアの瞳からは涙が零れた。自分の意思ではないから、タイミングはデタラメかつ唐突で、防ぎようもない。そして突然に涙を零すルキアを、周囲が心配するのも当然だった。
それでも、涙を流す間隔は、時間と共に確実に長くなっている。このまま時が経てば、近いうちに、いつか一護の溜めた涙は底をつくという確信がルキアにはあった。それは周囲も同じようで、ルキアの症状に関しては、誰もが静観していた。
「それでは失礼します。黒崎さんにも、よろしくお伝えください」
「お茶でもいかがですか?」
「いえ。女性死神協会の会合がありますので。近々理事が増える予定なので、緊急の招集が」
「そうですか。残念です」
ネムはルキアに背を向けると、襖に手を掛けた。そして最後に振り返ると、艶やかに微笑んでみせた。
「それでは、失礼します。『朽木副隊長』」
「え?」
呆然と目を見開いたルキアを置いて、ネムはぱたんと襖を閉じた。そしてそのまま足早に十三番隊を後にするその表情には、珍しく穏やかな微笑が浮かんでいた。
ルキアはしばらく固まっていた。ネムが最後に言った単語の意味がわからず、頬の涙を拭うことも忘れていた。そしてふと、ネムのハンカチを手に持っているままだと気付いた。あとで洗濯して返そう、と心に決め、ルキアはハンカチで更に涙を拭った。
「気のせいだな。きっと聞き間違いだ」
一人で小さく呟くと、ルキアは考えるのをやめた。そしてそのまま、時折涙を拭きながら、黙々と針を動かした。
どれくらいそうしていたのだろうか。部屋の前に誰かの気配を感じたと思えば、勢い良く襖が開かれた。顔を上げれば、仕事から帰った一護が立っていた。その姿に、ルキアは驚いたように身体の動きを止めた。
「ただいまー……っと、何だよ。気持ち悪ィな」
自分の姿を見るなり固まってしまったルキアに、一護が眉間の皺を増やした。けれどルキアはその反応を気にせず、一護の姿を凝視していた。
「……一護」
「……なんだよ」
ルキアがゆっくりと口を開いた。ただならぬ気配に一護が身構えようとしたが、それよりも一瞬早く、ルキアは立ち上がり、一護を引いて部屋を出ようとしていた。
「行くぞ!」
「はあ!?どこにだよ!」
「決まっている!四番隊だ!とにかく乗せろ!」
ルキアの剣幕に、一護はそれ以上追求することも出来ず、渋々ルキアの言葉通りに動いた。四番隊でも、ルキアは一護に一言もかけなかった。
「ルキアさんに一護さん!?どうしました!?」
「花太郎!身長計を貸してくれ!」
「は?身長?すぐ隣の部屋にありますけど……測るんですか?」
「ああ。一護がな」
二人の姿に、花太郎が慌てて駆け寄った。ルキアは、助かったとばかりに一護を花太郎の前に押しやった。
いきなり身長を測れと命じられた一護は戸惑ったが、ルキアの様子に、大人しく言う通りにした方がいいと納得した。そして隣の部屋の身長計に一護が立ち、その目盛りを、ルキアが読み上げた。
「174.7。……伸びているな。7ミリ」
「へ?」
次は一護が、ルキアを凝視する番だった。ルキアと再会した後、高校生の頃から1ミリも伸びていなかった身長が、少しだけ伸びている。その意味を悟って、一護は何とも言えない表情をして、目をそらした。
嬉しくないはずが無い。けれど、笑顔で喜べるほど素直じゃない。そして自分の変化に自分より早く気づいた相棒と目を合わせるのは照れくさい。
ルキアがやんわりと微笑んで、増えてしまった眉間の皺を指で弾いた。その仕草に、ようやくいつもの調子を取り戻した一護は、にやりと口の端を吊り上げて、ルキアの頭の上に手を置いた。
「すぐまた30センチ差に戻してやるよ」
「たわけ。まだまだ私だって背が伸びるかもしれんだろう」
今まで見たことが無い、一護の笑顔のはずだった。しかしどこかに既視感を覚え、ルキアは目を細めた。目の前の一護の顔と、もっと大人びた一護の顔が重なる。ルキアは、齢を重ねた一護を想像した。それは以前よりもはっきりと、見たことがあるかのような正確さでルキアの頭に浮かび上がった。
少し煤で汚れた一護が今見たのと同じ表情で、小さな子供の頭を撫でていた。喧騒と、煙の匂い。まるで自分が体験したような気がして、ルキアは大きく瞬きを繰り返した。
「……一護。かつて、火事場に飛び込み、子供を救った経験はあるか?」
「おい、お前、……まさか」
脈絡の無いルキアの質問に、一護が固まった。一護を凍りつかせたのは、言葉が唐突だったことではなく、その言葉が事実だったことだった。
「自分の記憶ごと、私に渡したのか。たわけが」
「……お互い様だろうが」
一護の精神世界の中で構築されたまぼろしの空座町は、朽木ルキアの中へと還った。一護の記憶の、一部と共に。一護とルキアは、あの街が、ルキアの記憶だけでなく、二人の記憶によって作り上げられていたのだと今更ながらに知った。
意図せず、互いの記憶を交換してしまったことに気付いた二人は、呆然と見つめ合った。
そして、二人で同時に吹き出した。
「全く。貴様、ぷらいばしーの侵害というやつだぞ」
「テメエもだ。しかも、俺は頼んでねえだろ」
自分の中に一護の記憶があることを自覚した瞬間、ルキアの頭には、幾つかの記憶が再生されていた。そしてわかったのは、一護が死神代行をやめてからも、決してもうひとつの世界をおろそかにしなかったという事実だった。
6月17日、母の墓の前に、大人になった一護が立っていた。その日は、一護にとって、悲しみだけを生み出す日では無くなっていた。
大人になった一護は目を閉じて、かつての6月17日を思い出していた。そして、もうひとつの世界と駆け抜けた、騒がしい日々を思い起こしていた。同じ頃、朽木ルキアがもうひとつの世界で同様に祈りを捧げていると、知る由も無く。
かつての6月17日を思い出す一護の口が、音もなく動いたことを、ルキアは知っていた。
音もなく一護が呼んだのは、一護の世界から姿を消した、異世界にいる親友の名前。もう一護の傍には存在しない、不思議な音の羅列。
ルキア。
一護と再会した頃、ルキアが感じていた焦りは、跡形もなく消えていた。あの約束を忘れても、彼はずっと自分の信じた黒崎一護だと、ルキアにはもうわかっていた。
ルキアを見つめ、一護は、そういえば、と呟いて、強引に照れ臭い空気を打ち切った。そして自分の頭よりもずっと低い位置にある相棒の頭の上に手を乗せた。
「お前、身長まだ伸びるのかよ」
「当然だ。私はまだ強くなる」
ルキアの言葉の正確な意味を、きちんと把握した顔で、一護はまた笑った。ルキアは少しだけ照れ臭そうに目を逸らした。
まったく厄介な涙が、再びルキアの目から流れ出た。ルキアは慌ててネムのハンカチで涙を拭いた。
「ん?それどうしたんだ?」
「あ、ああ。これは涅副隊長が……」
言いかけたところで、ルキアは再び涅ネムの不思議な言葉を思い出してしまった。あれはきっと何かの間違いだ。きっと似あわぬ冗談を言ったのだ。そう自分を納得させようとしていた。
けれど、気づいてしまった。その言葉の意味は、もしかしたら。
もしかしたら。
ルキアの胸に蘇ったのは、死神代行最後の日の記憶。胸いっぱいに広がる感情に、ルキアは呆然と立ち竦んだ。ほとんど怯えていると言ってもよかった。
約束の記憶のその先に、見たことも無いような希望の奔流が果ても無く広がっていた。そしてその希望は、怯えるルキアを嘲笑うように蠢き、大きな口を開けてルキアを飲み込もうとしていた。