一護は己の精神世界の中を走っていた。霊圧が嵐のように、一護の動きを阻んだ。けれど、それに怯むこと無く一護は走り続けた。
「ルキア!」
この世界のどこかにルキアがいる。それは、確かなことだった。心をここに置いてきたというのは彼女自身の言葉だ。一護の手には、まだルキアから零れ落ちた血の感触が生々しく残っている。ルキアがあの時流した血も、その記憶も魂も、そして彼女が言うにはその心も、この場所のどこかに隠されている。
一護の目の前で、横向きのビルが崩壊した。心の平穏は訪れたにも関わらず、崩壊を続ける己の世界は、頑なに何かを守ろうとしているようだと一護は思った。
「ルキア!」
彼女はどこにいるのか。天から降り注いだビルの破片を避けて、小高い別のビルに着地したところで、一護は前方に驚くべきものを見た。
「……何だよ、これ……」
一護が着地したビルの先には、縦横がデタラメになってはいない、街の姿があった。その街は、崩壊の余波を少しも受けることなくそこに佇んでいた。
一護は街の中に入った。誰もいない街は、不気味に静まり返っていた。先程まで自分を苛んでいた嵐は、もうない。
「空座町……?」
一護はそっと電柱に手をついた。細かな傷までもがリアルで、一瞬ここがどこなのかを忘れた。この街は、自分が15歳の時の、空座町そのものだった。
誰もいない空座町を、一護は無言で歩いた。ルキアはこの街の中にいると、本能で感じていた。一歩足を進めるごとに、むせ返るような熱気が一護に纏わり付いた。この温度を知っている。この空気を、知っている。一護はここが、母の仇と剣を交えたあの6月17日であると悟った。
一護は歩いた。行先は、あの時、あの虚と対峙した、母親の墓のある場所だった。
一護は、誰も居ない坂道を噛みしめるように歩いた。歩くうち、空を雲が覆い始め、急に肌寒くなっても一護は驚かなかった。そして、目的地に辿り着く頃には、きっと雨が降ることも、一護にはわかっていた。
一護は、ゆっくりとその場所に足を踏み入れた。かつて、自分と虚が戦った場所。そこに虚の姿は無く、代わりに、求めていた人物の姿があった。
一護は、その姿を見て息を呑んだ。そこにいるのは、朽木ルキアだけではなかった。ぽつりと、降り始めた雨が一護の頬を濡らした。
朽木ルキアが、幼い日の自分を抱き締め、その耳元に、泣くな、と囁き続けていた。泣くなと囁く自分の目から、涙が零れ落ちていることに、彼女は気付いているのだろうか。
その光景に、一護は今まで決して自分が涙を零さなかった訳を、はっきりと理解した。そしてあの虚もおそらく、この真実を知っていたのだと理由もなく確信した。
涙が流れないのは、あの虚が言うように、涙も出ぬほどに疲れ果てているからでは無かった。その記憶を失っても、からっぽになってしまっても、自分の涙をその身ひとつで食い止め、自分の代わりに泣いている女が居たからだった。
「ルキア」
一護は、小さく呼びかけた。雨の音にかき消されたが、その声はきっと届いた。
ルキアは、雨に打たれながら子供を抱き締めていた。もうどれくらいの間、そうしていたのかわからなかった。泣くな、と囁き続けながら、頭のどこかで、本当に伝えるべき言葉を探し続けていた。
『ルキア』
不意に、どこからか声が聞こえた。誰の声で、何を意味しているのか分からない。だが、その声はルキアの心を揺らした。そしてその声を引き金にして、ルキアは、ようやく言いたかった言葉を探り当てた。言いたかったのは、泣くなと命じることではなかった。この哀れな子供に、教えてやりたかった。大丈夫、大丈夫だから、もう。
「泣いていい。泣いてもいいんだ」
ルキアは、ようやく見つけた言葉を子供の耳に吹き込んだ。その言葉を告げた瞬間、腕の中の子供が動いた。
子供は、ルキアの胸を押しやると、目から溢れる涙を手で乱暴にぬぐい取り、眉間に皺を寄せてルキアを見た。そして、ルキアを睨み据えたまま、口を開いた。
「泣かねえよ。泣いてる暇があったらもっと強くなるんだ」
その言葉を聞いた瞬間、ルキアの瞳から、新たに涙が零れ落ちた。流れる涙を気にも留めず、ルキアは笑った。
「強情な奴だな。仕方ない。……今まで溜め込んだ分は、私が引き受けよう。これからの分は、強くなって、自分でなんとかしろ」
「わかった」
子どもが強く頷くと同時に、子供の輪郭は儚くぶれた。ルキアは、泣き止んだ子供を再び抱き締めようとした。けれどその腕は宙を掻き、ルキアが目を見開いた時には、そこには誰も居なかった。
ルキアは涙を流したまま、ゆっくり後ろを振り向いた。そこには、雨に打たれながら立ち尽くす、一人の見知らぬ死神がいた。それが誰なのか、わからなかった。あの子供は誰だったのか、と考えて、ルキアは自分がまっしろになっていることに気付いた。頭の中の記憶はことごとく消え失せ、何も残ってはいなかった。
死神は、強い眼差しでルキアを見ていた。
「思い出せ、朽木ルキア」
見知らぬ死神が、はっきりと宣告した。
先程も聞こえた、不思議な余韻の音。ルキア。それこそが、自分の名前だった。
その瞬間、ルキアの目から涙が零れ落ちた。ルキアは導かれるように、死神の方に一歩、踏み出した。
ルキアが踏み出すのと同時に、空座町の幻が一部消滅した。もう一歩進めば、街は更に消えた。そして、消えた街と同じだけの記憶が、ルキアの頭に蘇っていた。
精神世界の中に再現されたあの日の空座町は、この美しい幻は、あの時ルキアの中から紅く流れ出た、ルキアの魂によって作り出されていた。この街の全てが、ルキアの魂と記憶そのものなのだと、一護は理解した。
まぼろしの空座町が崩れ、朽木ルキアの中へ還ってゆく。次の一歩で、高校が壊れた。ルキアは、かつて高校に通っていたことを思い出した。授業を抜け出した。昼休みには、パンを齧っていた。そして自分の隣には、制服を着た誰か。
もう一歩進み、浦原商店が壊れた。ルキアの頭の中に、コンを買った日の出来事が蘇った。傍迷惑な改造魂魄が、誰かの身体に入り込んだ。それを、誰かとともに追いかけた。
周囲にはもう、墓場と一護の家しか残ってはいなかった。そして最後の一歩を踏み出し、死神の目の前に立ったところで、その二つは同時に崩れた。
止まない雨、初めて出会った日、死神と人間と虚、突き立てた刀、巡り逢ったもうひとつの世界。そして迎えた、長い別れの日。
一護。
ルキアのまっしろな世界に、あらゆる色が広がった。
二人で見た、夜明け前の空の色。錆び付いたフェンスの色。夕日に照らされたアスファルトの色。宵に淡く光る、月の色。愛した世界を彩る、色の全て。
そして、最後まで抱き締めていたのは、求めてやまなかったのは、希望のようなオレンジ色。
雨雲は消え失せ、空は晴れ渡っていた。気付けば、一護とルキアは、元の横向きに並んだ高層ビルの世界に立っていた。
目の前の死神が誰なのか、ルキアはもう知っていた。ルキアの頬に、新たな涙が一筋流れた。
「一護」
ルキアはただ、その名を呼んだ。目の前には、愛してやまない世界が、自分の信じた希望が、歪むこと無く真っ直ぐに立っていた。希望は、無言でルキアに手を伸ばした。
伸ばされた手を取った瞬間、ルキアは、自分と一護とを元の世界に押し戻す抗い難い力を感じた。その力は風となって塵を巻き上げ、一護とルキアの視界を塞いだ。
視界が消え失せてゆく中、斬月ではない人影がルキアの視界を掠め、ルキアは瞠目した。
霊圧の嵐の中、美しい人がこちらを向いて微笑んでいた。風が、彼女のゆるく波打つ亜麻色の髪を舞い上げた。
ルキアは、口を開けて、叫ぼうとした。けれど伝える言葉が見つからなかった。
自分の中の揺るがぬ希望は、ひとりの勇敢な母親が、その生命と引き換えに守り抜いたものだった。その事実が、ルキアを打ちのめした。
ルキアは深々と頭を下げた。呻き声すら漏らすことができなかった。零れ落ちる涙は、自分自身のものなのか、幼い一護のものなのか、ルキアにはわからなかった。
何故、自分が一護の精神世界に入り込むことができたのか。自分を無意識の内に導いていたのは、誰だったのか。そして一護を、この場所まで導いたのは、誰だったか。
ルキアは、その答えを見つけ出していた。今まで起こった何もかも全て、自分の執念など足元にも及ばぬ母の愛がもたらした出来事だった。
視界の全てが消え失せる寸前、美しい人は屈託無く笑い、優しく激励の言葉を告げた。
その姿は、あの6月17日が、自分と一護を苛んでいた雨の檻が最後に見せた、美しいまぼろしだったのかもしれない。
ルキアは、ゆっくりと目を開けた。空には、美しい月が浮かんでいた。地面に倒れ伏す身体を動かすことすら億劫で、ルキアはぼんやりと月を眺めながら口を開いた。
「一護。今は何日だ」
「知るかよ。……6月17日じゃねえことは確かだな」
「そうか」
自分の横で、同じように地面に転がっている一護が、投げやりに呟いた。
ルキアは、月を眺めながら薄く笑った。その瞳からは、際限なく涙が溢れ続けていた。
「貴様、どれだけ涙を溜め込んでいる。止まらぬ。何とかしろ」
「お前が勝手に持っていったんだろ。自業自得だ」
意志に反して流れる涙は、あの子供のものに違いない。ルキアは涙を拭うことを諦め、ぼんやりと一護を見た。
きっと、同じ人の事を考えている。それは確信だった。黒崎一護、朽木ルキア、コン、あの虚の他に、あの6月17日に深く関わっていた、最後のひとり。美しく強い人。
朽木ルキアの魂が作り出した、誰もいないまぼろしの空座町に、美しい人の影が横切る。それは不思議な光景だった。不思議で、胸がつまる。微笑を浮かべながら、あの人はどこをさまよい、何を考えていたのだろう。
伝えたい感情は、いつも言葉にはならなかった。代わりに手を伸ばせば、意図を察したように、指先に一護の手が触れた。その手を握る事はせず、ルキアは指先で一護の手の熱を感じていた。
淡い体温越しに、伝わるだろうか。少しでも彼に。
墓の前で横たわる自分達は、再会した日と変わらない姿をしていた。けれど、もう何もかもが変わっていた。
「……莫迦者が」
ルキアは、眉をしかめた。自分がこの一件で、この子供にどれほどの苦しみを強いたのか、想像することは容易かった。
それでも、彼は自分の願いを叶えてくれた。彼は自分の魂を守り、それどころか、救い出しに来てくれた。あの頃と同じように、哀れなほどの真摯さで、彼はルキアの目の前に存在していた。この子供の高潔な精神は、かつて死神代行だった頃と、まるで変わっていなかった。
「ルキア」
同じように月を見ながら、一護が穏やかに笑った。自分の名前を紡ぐ声の優しさに、ルキアはたまらなくなった。
触れ合った指先が、一護の感情を鮮やかにルキアに伝えた。一護は、ルキアを責めてなどいなかった。伝わったのは、もっとあたたかい感情と変わらぬ希望の在処。
「この世界も、悪くねえだろ」
彼は、その言葉を紡ぐまでに、どれだけのことを乗り越えたのだろうか。
自分達を照らし出す月は、先程よりもずっと美しかった。涙で滲み、その輪郭もほとんど見えていないにも関わらず、心からそう思った。ルキアは、自分の世界の美しさに驚いた。美しい世界の中心に、二人は横たわっていた。
気付けば一護は、意識を失っているようだった。その手のぬくもりに、ずっと子供だと思っていた隣の死神が、もう子供ではないことをルキアは知った。それは、驚くべきことだった。
ルキアは目を閉じた。そのまま意識は、闇に攫われた。雨の音も幼い子供の泣き声も、もう聞こえない。
雨の檻は、美しい人の余韻だけを残し、消えてしまっていた。そして彼は、もう子供ではなくなっていた。
「終わりましたねぇ。お疲れ様っス。……本当に」
二人の耳には届かないと知りながら、浦原は労った。浦原の目の前では、一護とルキアが安らかな顔で眠っていた。
その寝顔を飽かず眺めていると、いつの間にか浦原の隣に居た黒猫が、呆れたように呟いた。
「何をしておる。運ぶぞ。……ここを荒らされるのを、この二人は好まんじゃろ」
「そっスね。ま、結界の分はサービスしときますか」
戻った朽木ルキアの霊圧に、飛び込んでくる隊長格がいないのは、浦原の結界の賜物だった。
夜一がルキアを、浦原が一護を担ぎ、二人はその場を後にした。浦原は、背後の『墓』をちらりと振り返えった。そこには、枯れ果てた花が、夜風を受けて頼りなく揺れていた。
浦原は、パチンと指を鳴らした。
その瞬間、乾いた花が火に包まれた。鮮やかに燃え盛る炎の花が、二人の墓に手向けられる。月明かりの下で、炎は墓を美しく彩り、程なく灰となって消えた。一陣の風が、かつて花だった灰を攫った。
それを見届けもしないまま、浦原と夜一は、足早にその場を立ち去った。